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あいつは私を、栞としか思っていなかった。
あいつが思い描く自分自身の物語の、その一小節の目印に利用されたに過ぎなかった。
取引先の社員としての情報提供。
遊びに行くための資金提供。
恋人がいるということでの箔をつけるための見栄え。
思い通り言うことを聞く、都合のいい人間。
こんな小さくて薄い紙っペラ。そのものには、なんの意味も価値もない、ただの本に挟む為の紙。
あいつと私の関係は、栞のように薄く軽い紙でできており、そして紙のようにあっという間に燃えて消えてしまった。
私の手元に残ったものは、この本だけ。
いつものように、手になじんだ小説を開く。すると、あることに気が付いた。
本に挟んだおいた栞さえも、いつの間にか冷たい風に飛ばされて、無くなっていた。
長年寄り添ってきた栞にさえも見放されるなんてね。
でも、栞なんて無くても構わない。
何回も読み直したこの本は、もう何ページに何が書かれてあるかすら、覚えてしまっている。
栞だって、こんな私という、ちっぽけな小説のために挟まれるのは可愛そうだもの。
もう挟まれる人生などから抜け出して、自由になりなさい。
本なんかに囚われずに、もっと自由で広い世界へ……
文庫本に刻まれた文字の配列。
読むわけでもなく、ただぼんやりと視線を落とし、ただ眺めていた。
……
……急にページに影が落ち暗くなり、顔をあげる。
「お前、またこんな所で本なんか読んでるのか?」
「……課長?」
いつの間にか、目の前に課長が立っていた。
ネクタイをきっちりと締め、細身の体に、ネイビー系でコーディネートされたスーツをうまく着こなしている、仕事のできる男性。
その課長が、なぜかここにやって来ていた。
「風邪ひくぞ」
「ちょっと、目を覚まそうかと……」
そう、目を覚まそうと……今まで見ていた夢から。
課長は、まるで捨て猫を見るような目で、私に視線を落としていた。
課長は……
私が新入社員として初めてここにやって来た時の、新人指導係として担当した先輩がこの方だった。
出来の悪い私を最後まで面倒見てくれた感謝は今でも忘れていない。
とても優秀な人だった。
私のせいで足を引っ張ってしまい。
しかしそんなことをもろともせず、次の年には係長となり、先輩から上司に。
そしてこの若さで課長にまで出世した。
頼りになる先輩から、良き上司へ、そして雲の上の人へと……
同じ課ではあったが、ほとんど話すこともない。
おいそれと話せるような関係ではなくなってしまっていた。
「横、座っていいか?」
「どうぞ」
私の横に腰を下ろすと同時に「ほら」と、ペットボトルのホットレモンを差し出してくれる。
「ありがとうございます」
滑らせるように手で受け取る。
その温かさが、腕を伝って体全体に染みわたる。
私はコーヒーが苦手だ。
まだ課長が先輩だったころ、よく差し入れでコーヒーを何本も、もらっていた。私は正直に言うことが出来ずに、お礼を述べて笑顔で受け取っていた。
ある日、同僚の子とトイレで世間話をしたはずみで、私はコーヒー飲めないのに、馬鹿の一つ覚えみたいに持ってきて困ると、その場の流れでつい言葉にしてしまった時があった。
次の日、仕事でも叱られたこともないのに、初めて怒られた。
「なんで早く言わないんだよ!」と……
それ以来、なにかあると、寒い日には私の好きなこれを、持ってきてくれるようになった。
これはお互いが、これから会話を始める挨拶がわりの、儀式みたいなものと、いつのまにか私たちの間でなっていた。
課長は、誰もが憧れるような人物だった。
羨ましいほど明るく、
嫉妬するくらいカッコよくて、
尊敬するほど有能で、
スーツの着こなしも、身だしなみも、話し方も、表情も、全てにおいて魅力的で……
そんな課長なのに、未だに浮いた話一つもない。
その気になればどんな女性でもつき合えるというのに。
きっと、仕事一筋なんだわ、と考えていた。
だから私にも異性としてではなく、単に仕事上の付き合いとして接してくれているのだと思い込んでいた。
でなくてはこんな私に、先輩後輩の時代から優しくしてくれている理由が説明できない。
「あのさぁ……」
「はい」
「なんというか、聞きにくいんだけど」
「どうぞ」
「別れたんだって?」
女同士の噂話は怖い。
ネット以上に繋がり、そして早い。
私はまだ誰にも話してなんかいないのに。
既に課長の耳にまで入っているなんて。
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