私の知らない君の幸せ

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 梅雨に入って温度と湿度が上がり、どれだけ薄着をしても肌にじんわりとへばりつくぬるさが、陽が落ちても続いていた。  残業続きがやっと終わった週末。会社から駅への道すがらに繁華街がある。客引きも多く、今までにも何度か引っ張りこまれそうになったことがあるなと、面倒ごとはごめんだと人混みや客引きからわずかに外れながら歩いていた。  だから見つけやすかったのだろう。ただそれだけだ。 「あれ? もしかして奈緒(なお)か? 烏丸(からすま)奈緒だろ!」  離れてもう十年以上もたつのに、その声の響きだけで誰かわかってしまう心に自嘲する。こんな感覚を相手も感じていてほしいなんて、愚かな(とげ)を見ないふりした。 「……あー、高遠(たかとう)? 高遠和也(かずや)?」 「そっ! 久しぶりだなー、おい! 十年ぶり?」 「中学卒業からだから、十二年ぶり、かな」 「十二年! もうそんなかよ!」  昔のまま、にかりと歯を見せて笑う顔は可愛くあり、そして年相応の精悍さも伴っている。あの頃は成長期がこないと私よりわずかに低い背を気にしていて、卒業間近にやっと、声変わりが始まったのだと恥ずかしそうに、けれどどこか誇らしそうに教えてくれたっけ。今は百六十後半の私の背を大いに飛び越し、見上げる高さになっていた。  それが、離れている距離と心を見せつけられたようだった。 「なあ、奈緒がよかったらさ、ちょっと飲んでいかね? 俺、今日メシないから食っていこうと思っててさ」 「……いいよ。私も残業続きでさ、帰ってご飯作れないくらい疲れてるから」  逡巡(しゅんじゅん)しつつも、まだ話していたいと思った。現実を直視しなければならない時期ってやつだろう、私は私が切り捨てて蓋をした未来の現在を知らなきゃいけないと思ったのだ。  近くの居酒屋に入り、とりあえず生ビールを注文して、やってきたジョッキを煽った。普段は飲まないビールだけれど、こいつの前で色とりどりの可愛らしいカクテルなんか飲めるわけがない。自分が女なのだと自分にも相手にも知らせるものか。 「中学の頃のやつらには会ってんの?」 「うーん、連絡先知らないし、一度だけ同窓会の連絡がきたけど行かなかったしなぁ」 「そうそう、奈緒こなかったもんな。俺会いたかったのに」 「今日会えたからいいじゃん」 「いや、同窓会何年前の話だよ」  あの頃のようにぽんぽんと軽快な会話が続く。離れていた時間を知らしめながら。 「山田がさ、お前ら結婚してるもんだと思ってたって言っててさー」 「山田くん、中学時代から同じこと言ってるし」  あの頃は『もうお前ら結婚しろよ』だったけれどね。 「……まぁ、俺は好きだったんだけどな、奈緒のこと」 「マジか。知らなかった。初恋かよ」  知ってた。両想いだよ。  私の、大切な初恋だった。 「そうだよ初恋だよ! 悪いか!」 「悪くない悪くない」  ツマミのユッケを頬張りながら笑顔を作る。 「ま、とか言いながら来年結婚するんだけどな」 「話の流れおかしくない? なんで好きだったって言いながら他の人と結婚するとか言い出すの」  ほんと話の流れおかしい。私の痛む胸を慮れよ。 「二つ下のさ、マジで可愛い彼女。ちょうど一年後に結婚式の予定でさ、来る? 招待していい?」 「話を聞け。しかも一年後っていったらジューンブライドかよ。それ絶対天気悪くなってゲストに恨まれる流れじゃん」 「ちょ、一言で彼女の夢を壊すな。いいんだよ、俺が晴れ男だから」 「そうか。そうだったっけ。でも残念ながら六月が会社の決算期でさ、忙しいから行けそうにないや。ごめんね。幸せにね」  ウソと本音を織り交ぜる。こんな気持ちで行けるわけがないし、行っても色々と修羅場になりそうで恐ろしすぎるって。  私の存在が、これ以上こいつに関わるわけにはいかない。 「げ。マジかよー……まぁ、でも仕事なら仕方ないもんな。あ、でも連絡先は教えてくれんだろ?」 「あんた結婚するんだから変に勘ぐられそうな行動はやめときなよ。新しく女と連絡先を交換するのって、彼女が嫌がったらどうするの。それで婚約破棄とかなるの、本当に困るんだけど」  私に火の粉をかけようとすな。 「あー……そっか、そういう考えもあんのか。いや、でもさ、中学の友達くらいさ……」 「あんたさっき、私のこと初恋って言ったでしょ。彼女側としては初恋の女と連絡とってるって知っただけでも傷つくんじゃない? あんただって彼女が初恋の男とか初カレとかと連絡とってたら嫌でしょ? 悪いことは言わないからやめときな」 「あー…………まぁ、なぁ……。うん……」  まくし立てるようにして放った言葉は、どうにか相手の心に刺さったようで安心する。これ以上関わってたまるか。  その後は他愛ない会話を繰り返し、やっぱり結婚式に出席できないか、できない、連絡先だけでも、嫌だ、とやり合い、小二時間くらいで解散とあいなった。改札前の別れ間際まで連絡先をとか、結婚式にとか言おうとする男の口に、居酒屋のレジでもらったガムをつっこむ。おお、静かになった。 「じゃあね、バイバイ」 「ああ、……また、会えるよな?」 「うーん、運が合えばね?」  これ以上会話を続けたくはなくて、さっさと(きびす)を返して駅の改札へと向かう。高遠はしばらく止まっていたみたいだけれど、諦めたように体の向きを変えて歩きだしたようだった。  バイバイ、さよなら。  もう二度と会わない大好きな人。  私と高遠は異母兄妹だ。高遠の母親が高遠を妊娠中に、父親がうちの母親と不倫してできたのが私。高遠の両親はどうにか復縁したみたいだけど、母親はシングルマザーで私を産んだ。私は何も知らないまま中学に入学し、高遠に出会い、好きになった。親の不貞で異母兄妹という関係ができた私たちが同級生として出会い、恋をするなんて、知った時はどこの少女漫画だよって泣きながらつっこんださ。バカじゃないのって。  幸せだった。三年間。事実を知るまでは。  私と高遠が一緒に遊んでいたところを見た母親が高遠のことを知り、それから高遠と私の関係性を教えられたのだ。  そこからはもう怒涛だった。メンタルやられまくるし、成績も下がるし、高校受験前に母親がやることじゃない。それでもどうにか持ち直して遠い高校に入学し、中学の同級生から離れたのだから、自分の地力を神輿にして担ぎ上げたいくらいだった。すごいよ、私。  だけど、こんなところで再会するなんて、随分といたずらな運命だ。……でも、うん。良かった。会えて。  彼の今が幸せだと知れて。良かった。  十二年前、私の独善的な感情で何も言わずに離れたことが正解だったのだと、やっと思えた。これから先も、彼には何も知らせずに、関わらずに、生きる。それで高遠の幸せが守れるならいい。  これでやっと、私の身勝手な初恋が終わったのだ。泣いてたまるか。 「……あーあ、来週も仕事がんばろ」  意識して声を出し、深呼吸をする。  途端、ホームに電車が滑り込んできた。
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