第一章 不思議な喫茶店のとある一日

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 淹れたばかりのコーヒーをカップに注いでいると、陽当たりのいい窓際の席でまどろんでいた黒猫がゆっくりと体を起こし、大きく伸びをしているのが見えた。  黒猫は椅子から飛び降り、カウンターにゆっくりと近づいてきた。カウンター席の真ん中の椅子の前までやってくると、黒猫は突然、着物姿の小学校低学年くらいの少女の姿に変わった。それから飛び乗るように椅子に座り、床に届かない足をプラプラとさせる。 「ねえ、浩輔。ウチにもなんか飲み物」  まだどこか眠たげな、くりっとした大きな釣り目を俺に向けながら、そうお願いしてくる。藍子さんにカップを渡し、先ほどまで黒猫だった少女に視線を向ける。 「わかったよ、スズ。それで何がいい?」 「う~ん……じゃあ、ミルク」 「いつものホットミルクでいい?」  スズは黒髪のクセっ毛を揺らしながら、こくりと頷いた。それを確認してから、牛乳をいれた手鍋をコンロにかけ、スズが猫舌であることを考慮しながら、温めすぎないように加熱する。そこにハチミツとレモン果汁を加え、味を調(ととの)えた。背後の棚からスズ専用のスズによく似た黒猫のイラストがプリントされたカップを取り出し、ホットミルクを注ぎ入れて、スズの前にそっと置いた。  温度には気を払ったとはいえ、スズはまだ熱さを和らげたいのか、フーフーと息を吹きかけてから、ゆっくりとひとくち口をつける。満足できる味だったのか、スズは口の端に笑みをわずかに浮かべた。  そんなスズの様子を横目で見ていた藍子さんもコーヒーに口をつけて、気だるげにコーヒーの液面に視線を落とし、彷徨(さまよ)わせているようだった。  そんなゆったりとしたいつもの休憩時間――。  リン、リンッ――。  そこに玄関扉につけられたドアベルが澄んだ高い音を響かせ、店内に来客が来たことを知らせてくれる。そのドアベルの音に反応して、扉から入ってきた相手に顔を向け、(なか)ば反射的に「いらっしゃいませ」と声を掛けた。  来店したのは細身でロングヘアーの女性で、閉じた玄関扉の前でなぜか立ち尽くしていた。  藍子さんは椅子に座ったまま、体を一切動かさず、首だけを百八十度回転させ、さらには扉の方に首を伸ばして、入ってきた客の顔を間近で確認する。 「あら、明乃(あけの)じゃない。こんな時間に珍しい」  そう声を掛ける藍子さんの首に明乃さんは小さく会釈(えしゃく)して返した。そんな明乃さんに藍子さんは笑顔を見せながら、「突っ立ってないで、こっちに来なさいな」とさらに続け、するりと首を元に戻した。 「明乃さん、カウンターでいいですか?」  俺も知らない仲ではないので、笑顔を作りながら明乃さんを席へと促すと、明乃さんは静かに一度頷くとカウンター席の藍子さんとは反対側の端の席に座った。明乃さんは注文どころか店内に入ってからいまだに一言も言葉を発することなく(うつむ)いていた。  そのことに困ってしまい、救いを求めて藍子さんに視線を送るが、藍子さんも事情は分からないとばかりに小さく首を横に振るばかりだった。 「明乃さん、注文どうしますか? コーヒーでいいですか?」  水とお手拭きをだしながら尋ねると、明乃さんは小さく首肯して応えた。最低限のコミュニケーションが取れたことにひとまずホッとし、コーヒーを淹れる準備を始めた。 「そうそう、藍子さん。迂闊(うかつ)に首を回したり、伸ばしたりするのは止めてもらえませんか?」 「でもさ、今は人間のお客さんがいなくて、入ってきたのがあやかしだって分かってるんだから、変に気を遣うのも面倒でしょう?」  俺の苦言に藍子さんは悪びれる様子もなく反論してくるので、思わず深いため息が出てしまう。 「そうは言いますけど、店の窓や扉に付いているガラスは透過性は低いですけど、タイミングや角度が噛み合ったら外から店内の様子は見えるんですから、注意はしてください」 「はいはい。次から気を付けます」  藍子さんは軽い口調で返事をすると、注意されたことを全く意に介してないかのように表情を変えることなくコーヒーに口をつけて、一息ついていた。  こういう態度を取られても、藍子さんは元からそういうことに対する注意や意識は高い方だということは知っているので、これ以上の追及はするつもりはなかった。  それより今はコーヒーを淹れる方に意識を集中させることにした。  この喫茶店には、ちょっとした秘密があった。  お客、店員含め、人間以外の存在――つまりは、妖怪や幽霊など“あやかし”と呼ばれる存在も集まってくる喫茶店なのだ。  俺は正真正銘の二十二歳の人間なのだが、今、喫茶店にいるのは俺以外は全員があやかしだ。  藍子さんは首が伸びたりするろくろ首という妖怪で、スズは人の姿に化けることのできる猫の妖怪の猫又だ。  スズは人間に化けているときの見た目は幼女の姿をしているが、本人いわく千年以上は生きているのだという。そんなスズも今は俺の飼い猫であり、喫茶店の看板猫をしている。  あやかしがいて、普通の人間にバレないのかというと、まず決定的な瞬間を凝視されたり、写真や動画に収められたりしない限りは大丈夫だ。スズや藍子さんはそうやって上手く人間と共存していたのだから、慣れたものなのだ。  例えば、藍子さんは首を伸ばさなければあやかしだとバレることはまずない。スズの場合は猫の姿をしているとき、尻尾は二股に割れているがあやかしを視る力、いわゆる霊感がないと割れた尻尾を視ることができない。たまに少しだけ視える人間もいるが、スズがその気になれば隠すことも容易で、気のせいか見間違いにしか思われない。  そして、先ほど店にやって来た俯き加減で座っている明乃さんも、一見すると普通の人間にしか見えないがあやかしなのだ。  人の姿をしていると人間とあやかしを見分けることはとても難しい。道端ですれ違う人のなかにどれくらい人間以外が混じっているのかは正確には分からない。  あやかし相手にも商売をしていて、付き合いもあり、さらにはスズが本気で隠してもはっきりと二股の尻尾が視えるほどに霊感の強い俺でも、人間かあやかしか見分けがつかないことはよくあることだ。  それほどまでに、現代は人間とあやかしの世界は混濁(こんだく)している。  そのなかで喫茶『いさか屋』は、建前上は人にもあやかしにも平等に開かれているが、日中の営業時間は人の姿を取れないあやかしの入店は基本的にお断りしている。  そんな風に上手くあやかしと折り合いをつけながら、祖父の代から店を切り盛りしてきた――。
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