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洗い物がひと段落し、顔を上げると明乃さんは相変わらず、じっと見つめてきていた。その瞳は黒く飲み込まれそうで、長い時間見られても見つめても気が滅入ってしまいそうだ。
もうこれはこちらから明乃さんの相談内容を聞きださないと、現在の苦痛がずっと続いてしまう予感さえしてしまう。
「えっと、明乃さん。どうかしましたか?」
「ごめんなさい。私、話すのあまり得意ではないので……」
「しかし、話してもらわないと俺には何をどうしていいか分からないのですけど……」
「そ、そうですよね。ちゃんと話さないとですよね?」
明乃さんはそう言うとコーヒーをひとくち飲んで、胸元に手を当て何度も深呼吸をしている。そうまで覚悟を決めないといけないような重大な相談だと思うと、聞く方のこちらまで緊張してきてしまう。
「先ほど話した事情で、私、仕事がなくなってしまうので、これからのことを相談したくて……」
「これからのことって言われましても……明乃さんはどうして欲しいんですか?」
「そうですね。こんな私でも働けるようなところを、どこか紹介していただけませんか?」
そう懇願するように言われ、頭を悩ませてしまう。こういうあやかしからの相談事を受けるというのが祖父の代からのこの喫茶店のもう一つの側面だった。
しかし、祖父に比べまだまだ人脈ということに関しては弱い俺はこういう相談には弱い。仕事の付き合いだとかで少しずつ縁というものができ、喫茶店のあるこの街を中心にようやく俺は根付きだしたと言ったところだ。そのなかで自分のツテで仕事を紹介するとなると、難しいことだった。
そんな頼りない俺よりも、この場にはそういう相談をするには適任の相手がいる。
「藍子さん、何かアテはありませんか? 藍子さん、スナックを経営していて、この近辺の人間にもあやかしにも顔が広いじゃないですか」
「そうだけど、急にそんなこと言われてもねえ……」
藍子さんは腕を組んで、「うーん……」と唸りながら悩みだした。俺も何かないかと考えるも、仕入れ先などで人手が足りないだとかいう話はほとんどしないし、雑談をしたとしても仕事の話を中心にちょっとした噂話を小耳にするくらいだ。
「じゃあさ、次の仕事が決まるまで当面の間は私の店で働くのはどう? 明乃ならキレイな服を着て、化粧をして、ちゃんとすればかなり化けると思うのよね」
「藍子さんのお店って、愛想よくお喋りできないと勤まらないでしょう? 私みたいな陰気で口下手なのを雇うと店に迷惑かけちゃうよ」
明乃さんは藍子さんの店で働いているところを少し想像したのか、緊張と焦燥が入り混じった表情で、首をすごい勢いで横に振っている。
「大丈夫だって。明乃はニコニコしながら、洗い物したり、たまにお酌をするくらいでいいんだから」
「それでもやっぱりそういう仕事は……ちょっと怖いというか、なんというか……」
明乃さんの固辞する態度に藍子さんは思わずため息を漏らした。藍子さんの表情や言い方からは本気で明乃さんのことを勧誘していたとは思えないが、明乃さんに断られた時はどこか寂しそうな笑みを浮かべていた。
もしかすると藍子さんは明乃さんと一緒に働きたかっただけかもしれない。きっと照れ隠しを含んだ藍子さんなりの優しさだったのかもしれない。
明乃さんは藍子さんの善意を無碍に断ってしまったことに気付いたのか、気まずそうな表情になり、顔を青くしながら俯いてコーヒーの液面に視線を落とした。
そんな風に露骨にしょんぼりとされるとなんて声を掛けていいか分からず、手持無沙汰にカウンターを拭きながら間を持たせようとする。横目でちらりと藍子さんをのぞき見ると、何も気にしていないのかのようにコーヒーを飲みながらくつろいでるような表情を浮かべている。
そんななんとも言えない微妙な空気感に包まれてしまった店内に、「浩輔、おかわりっ!」とスズの気の抜けた声が響いた。スズから空のカップを受け取りながら、「カップはそのままでいいか?」と尋ねると、スズは笑顔で頷いて見せる。
そして、スズのためにホットミルクのおかわりを作り始める。
手鍋に牛乳を注ぎ、火を点けて様子を見ながら、明乃さんの相談の解決策になりえる一つの提案をすることにした。
「明乃さん、よかったら、この店で働いてみませんか?」
そんな俺の言葉に明乃さんは顔を上げ、驚いたような表情を浮かべる。
「いいんですか、浩輔さん? 私、愛想よくないし接客に向いていないと思いますよ?」
「大丈夫ですよ。俺も愛想のいい接客だとかは実はあんまり得意ではないですから。ただお客さんに挨拶して、真摯に接客して、時々でも自然に笑う程度でいいんです。それで今のところはなんとかうまくいってますから」
「それいいね、浩輔くん。この店で一緒に働こうよ、明乃。愛想よく接客するのは私や今ここにはいないけど修司の役目だから、明乃はいつも通り真面目に丁寧にでいいのよ」
藍子さんは柔らかな笑みを浮かべながら俺の言葉を後押ししてくれる。スズも自分も何かを言おうとするも掛ける言葉が思いつかなかったのか、一瞬で諦め、手鍋の中の牛乳に視線を向け直す。そんなスズの心の揺れが視線と表情から感じ取れ、思わず笑みがこぼれてしまう。
「スズはこの店の看板猫で守り神みたいな存在なんだから、いてくれるだけでいいんだよ」
そう口にしながら、スズの頭をカウンター越しに撫でる。スズは気持ちよさそうに目を細め、撫で終わったタイミングで明乃さんの方に顔を向ける。
「明乃、あなたにできないことは誰かがしてくれる。だから、明乃は明乃ができることをして誰かを支えたらいいんだよ。それが社会で生きるということなのだから」
スズが見た目にそぐわない大人びたトーンと表情で口にすると、明乃さんの表情は憑き物が落ちたかのようにすっきりしたものへと変わる。
「……そうよね。浩輔さん、あらためて私の方からお願いします。私をこの店で働かせてもらえませんか?」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。明乃さん、ようこそ、いさか屋へ」
こうして、喫茶『いさか屋』に新しい従業員が加わることになった――。
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