第一章 不思議な喫茶店のとある一日

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 明乃さんの緊張感が薄れたせいか、店内の空気感に張りつめていたものがなくなり穏やかな日常が戻ってくる。スズに二杯目のホットミルクを渡し、カウンター越しにあらためて明乃さんと向き合った。 「それで明乃さんは働くにあたって、何か希望はありますか?」 「いえ、働かせていただくだけでも嬉しいので……今さらですけど、本当に私が働いてもいいんですか?」 「もちろんですよ。正直に言いますと、最近は手が足りない時間帯もあるので困っていたくらいで」  そう正直に内情を吐露すると、藍子さんも同調するように頷きながら、「ランチタイムの忙しさには目が回るほどだしね」と溢すように口にする。 「そうなんですよね。自分がこの店を継いだころはランチタイムもガラガラだったはずなのに、ここ数ヶ月は客足が途絶えないですもんね」 「マスターはおいしい料理なんて作れなかったからね」 「まあ、今までは冷凍食品を調理するか、おいしいパンを仕入れてトースターで焼くくらいしかしていなかったですからね。あれじゃあ、フードメニューを注文する人がいないのも無理ないですよ」 「それはたしかに」  藍子さんは楽しそうにケラケラと笑い声をあげる。 「明乃さんが入ってくれたら、例えば、朝の開店準備から夕方までというシフトでやってもらえると、午前中や今ぐらいの昼過ぎの落ち着いた時間帯は藍子さんや修司さん抜きでも回せるだろうし、皆さんの負担も軽減できそうですよね」 「それもそうね。ここ最近は特に浩輔くんへの負担が大きかったからね。元々、私たちは交代で昼前くらいから入って、忙しかったらヘルプでもう一人もって感じだったはずなのに、今はランチタイムに全員いないと回らないレベルになっちゃったものね」 「だから、明乃さんを誘ったのはこっちも困っていたからなんですよね」  そう笑顔を向けると、明乃さんの表情も柔らかなものへと変わる。そんな明乃さんの表情を見て、接客業も大丈夫だろうなと思えた。 「そうだ、明乃さん。今日、これから時間あるなら、店の案内や説明をしますので、その後に試しに少しだけ働いてみませんか?」  明乃さんはどこか緊張した面持ちになるが、「お願いします」と頷いた。 「それじゃあ、藍子さん。少しの間、お願いしていいですか? 何かあったら裏にいるので、声を掛けてください」 「分かったわ」  藍子さんはカップに残るコーヒーをぐいっと飲み干し、空のカップ片手に俺と入れ代わるようにカウンターに入った。  カウンターから出て、スイングドアを開けながら、「明乃さん、こっちです」と店のバックヤードへと促した。明乃さんはカップを藍子さんに渡し、席から立ち上がり、俺の脇を頭を下げるようにして通り抜けた。  スイングドアを抜けた先は狭い廊下だが、すぐ向かいには扉なしでキッチンへと繋がっている。ゆえに最初に目に入るのは、綺麗に使っていることが伺える整頓された調理台と、その奥の壁際に設置された存在感のある業務用の冷蔵庫だろう。  明乃さんをまずはそのキッチンへと案内する。 「ここは見ての通りキッチンになります。調理は基本は俺しかしないので、不必要に触ったり、いじったりしないでもらえると助かります。たまに調理のサポートをお願いすることもありますが、基本はできた料理を持って行くことと、使った食器を持ってきて、それを洗うことくらいですかね。コーヒーカップやグラスはカウンターの方で洗うのでそこだけ注意してください」  一通り説明をして、明乃さんに視線をやると、明乃さんの視線は食器をつけ置きしたり、洗ったりする大きめのシンクに釘付けになっていた。何かあるのかと思って、同じようにシンクを見てみると、いつも通りのぬるま湯に洗剤の泡が浮いていて、まだ洗っていない食器が数枚沈んでいるくらいだった。特に違和感を感じたり、興味を惹かれるようなこともない光景に明乃さんの視線が止まっていることが不思議でならなかった。 「明乃さん、どうかしましたか?」 「い、いえ、なんでもないです。ただ、その……」 「何か気になることでもありましたか?」 「あの洗っていない食器が見えたものですから、洗っていいものなら洗いたいんですけど、よろしいですか?」  ソワソワと落ち着かない様子で明乃さんは俺に尋ねてくる。その予想外の言葉に、 「え、ええ。それはかまいませんが……」  と、戸惑いつつ答えると、その俺の返事がスタートの号砲だったかのように、明乃さんはシャツの袖をまくり上げ、食器を洗い始めた。明乃さんは生き生きとした表情で鼻歌でも歌いだしそうなほどに軽やかに楽しそうに手を動かし続けた。食器は手際よく綺麗に洗われていき、あっという間にシンクの中は空になり、そのままシンクまで磨こうとし始めた。さすがにそれはやりすぎなので、 「あ、明乃さん! ストップ、ストップ! シンクの掃除は今はしなくても大丈夫です。それは店を閉めた後にやることですから」  と、慌てて止めに入る。明乃さんは顔を上げ、ハッと我に返ったのか気まずそうな表情を浮かべた。あやかしの中には、たまにそのあやかしゆえの(ごう)や習性というべき(あらが)えない何かを背負っているものがいる。小豆洗いの明乃さんにとっては、洗うということに特別な何かがあるのかもしれない。 「あとは調理台の脇にある扉は裏口に繋がる部屋へと繋がっています。明乃さんもよくこっちから入っていたので馴染みはあるかもしれません」 「そうですね。私は裏口から入ってすぐのところで声を掛けて受け渡しをして帰るだけでしたので、詳しくはどうなってるかは分かりませんでしたけど」 「そうですよね。とにかく、業者さんは基本は裏口から来ますので、食材などはキッチンへ、それ以外は廊下の隣の扉からも出れますので、そこから倉庫なりに運んでもらうことになります」  廊下に戻り、先ほどの小部屋の扉を指差しながら説明していく。 「それでは次に行きましょうか」  廊下の先まで行くと、そこには階段がある。その前で足を止めて、明乃さんに向き直る。 「この建物は店舗兼住宅なので、二階は俺の部屋になります。なので、今は地下の方に行きましょうか」  短い下り階段の先にある扉を開け、部屋に入ると、ひんやりとした空気にわずかに体を震わせる。扉のすぐ脇にある電気のスイッチを押すと、明かりが()き、部屋の中にある酒類の数々とコーヒー豆の入った麻袋が目に入ってくる。 「この部屋は主にお酒を保存している地下セラーになっています。コーヒー豆もここに保管しています。明乃さんは働くとしたら、先ほど軽く話しましたが、朝から夕方まででいいですよね?」 「はい。今までもそういう時間帯で働いていたので、その方が助かります」 「それではコーヒー豆の補充以外では、ここに来ることはないかもしれませんね。そういえば、明乃さんはこの店が夜にバーになることは知っていますよね?」 「もちろんです。何度か来たこともありますので」 「そうでしたか。ここにあるお酒はバーの時間帯限定で出すものなので、基本はないとおもいますが、急遽(きゅうきょ)、そちらの時間帯でのヘルプをお願いすることもあるかもしれません。なので、種類ごとに棚で管理していますが、どこになにがあるかざっと覚えていただけると助かります」  明乃さんは頷きながらも、またしても視線がとある一角で固定されていた。 「明乃さん、今度はどうしました?」  声を掛けながら明乃さんの様子がおかしいことに気付いた。心なしか呼吸が荒くなっていたのだ。 「明乃さん……?」 「えっとですね……あれは、豆ですよね? それもけっこういいものですよね?」  明乃さんはコーヒー豆の入った麻袋を指差した。 「はい、豆――ですね。じいさんがこだわって仕入れていたので、いいものなのだと思います」 「あの……ちょっとだけ触っても?」 「え、ええ……」  明乃さんは興奮を抑えつつ、コーヒー豆の入った麻袋へと足早で近づいていき、袋の一つをおもむろに開けた。両手でそっとコーヒー豆を(すく)い、うっとりとした表情でさらさらと豆を手の間からこぼし始める。  そうやって何度か繰り返しながら、明乃さんが小声で何かを呟いているが上手く聞き取れなかった。 「明乃さん、豆がどうかしましたか?」 「最高……本当に最高です。天国です。質のいい豆がこんなにあるんですよ?」  明乃さんは今までに見たことがないほど、口元を中心に表情が緩んでいるが、眼差しだけはとても強かった。心なしか目が血走っているようにさえ見え、その圧に思わず半歩後ずさりしてしまう。 「なんで今まで私は、洗うということにだけこだわっていたんだろう。洗うことにこだわらなくても、こうやっていい豆に触れることができる素敵な仕事もあったなんて。まさに天職を見つけた、って気分です!」 「そ、それは……よかった、ですね」 「はいっ!!」  明乃さんの食い気味のはっきりとした返事と表情に、つい少しまでの俯き加減で暗い印象を与えていた姿とは一致せずに、どうにも困惑してしまう。 「明乃さん……そろそろ説明の続きをしたいんですが……」  話を戻す俺の声に、小豆洗いという妖怪の本能でトリップしていた明乃さんは正気に戻ってきたのか、顔を真っ赤に染める。 「それじゃあ、次に行きましょうか?」 「……はい」  明乃さんの声からは先ほどの一瞬だけ見せたあやかしとしての本来の表情は失われたが、緊張から来ていたであろう硬さもいつの間にか消えていた。
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