第一章 不思議な喫茶店のとある一日

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 黄昏時(たそがれどき)――。  空の色が藍色に染まっていくにつれ、人間の時間からあやかしの時間へと移り変わっていく。  街灯などが普及していない時代では、その半端な暗さの中ではすれ違う人の顔が分かりづらく、「そこにいるのは誰ですか?」と、相手が誰かを確かめていた。そうやって尋ねられれば、普通の人間ならば、自分が誰かを答えればいい。人間はそうやってコミュニケーションを取ることで相手を確認し、あやかしは相手が人間だと知ると影に身を(ひそ)ませた。元々はよそ者を寄せ付けまいとする村社会の風習が、人間とあやかしの距離を取ることに繋がっていた。  黄昏時は人間とあやかしの境界を曖昧にし、彼岸(ひがん)此岸(しがん)の交わる一番危ない時間帯だ。  しかし、現代では街灯が普及し、そこかしこに光が溢れ、ネオン街のような一日中明るい場所も存在するようになった。また他者との関係性は希薄になり、すれ違う相手どころか隣にいる相手にすら気を遣わなくなって久しい。  明るくなったことで道行く人の顔は視認できるようになり、そこに距離感の遠さが相まって、相手が誰かを確認するということをしなくなった。  それゆえ、人間とあやかしがより入り混じるようになった。だからこそ、よくないあやかしが徘徊するにはうってつけの時間になってしまっている。  そんな時間に、人間もあやかしも区別なく受け入れる店があり、さらにはその店の店長があやかしを引き寄せやすい体質なうえ、霊感が強いため、人を襲うタイプのあやかしからすれば極上の獲物を提供しているようにしか見えない。だから、万が一にも入ってこないようにと自衛のために黄昏時には、店を閉めているのだった。  閉めきった明るい店内でホコリやゴミが舞い上がらないように気をつけながら、床の掃除をしていく。もくもくと手を動かしながら、無意識のうちに少しずつ背中が丸まっていく。元々、猫背気味というのもあるが、調理中など集中し過ぎたり、逆にプライベートな時間で気が抜けると背中が自然と丸まってしまうのだ。それを自覚しているので、カウンターに立っているときや接客をしているときは意識して背筋を伸ばしているが、今はほどよく気が抜け、さらには床の掃除に集中しているので猫背になってしまうのは仕方のないことかもしれない。 「浩輔! 若いうちから老人みたいに背中を丸めるな。ただでさえ愛想もよくないのに、そんなんだと余計に女にモテんぞ」 「うるせえ! エロじじいだけには言われたくねえよ!」  突然投げつけられた言葉に反射的にいつものように言い返した。掃除をする手を止め、顔を上げると、カウンターには一人の老齢の男性が立っていた。  (しわ)ひとつないシャツに蝶ネクタイをしていて、清潔感のある()でつけられた白髪。腰には店員がつける黒のエプロンを巻き、そこから伸びる折り目が綺麗に出ているスラックス、長年手入れし大事に()き続けてきたこその(つや)と風合いを増した革靴。  頭の先から足の先まで、隙なく洗練されていて、ジェントルマンという形容がピッタリすぎる老齢の男性。それが俺の祖父で先代の店長であり、いまなおマスターの愛称で親しまれている三宮(さんぐう)芳夫(よしお)という人物だった。 「もうじいさんが出てくる時間か。明乃さん、今日はお疲れ様でした。あがってもらっていいですよ」 「分かりました」 「あと、分かり次第でいいので、いつから働けるか連絡してもらえますか?」 「はい。でも、連絡はどこにすれば……」 「少し待ってください」  カウンター脇のレジ近くに置いてあるショップカードの裏に自分のスマホの電話番号を書いた。 「とりあえずはこれで。メッセージアプリとか使っているなら、店員のグループもあるので藍子さんから誘ってもらってください。その流れで俺とも交換しましょう」 「はい。それでは、お疲れ様でした。あと、その……本当にありがとうございました」  明乃さんは深々と頭を下げて、バックヤードへと姿を消した。そこへタイミングを見計らったかのように藍子さんが玄関扉を開けて、店内に入ってきた。その視線はどこか明乃さんの姿を追うようにバックヤードへと向けられているように見えた。 「お疲れ様です、藍子さん」 「うん。それで私も今日はあがりでいいのよね?」  そのなんてことない言葉に引っかかりを覚える。私も、という言い回しにもしかしてと思ってしまう。 「はい。それじゃあ、藍子さん、明乃さんのことお願いしてもいいですか?」 「何のことかしら?」 「なんでもないです。こっちの勘違いだったみたいで」 「勘違いでもないわ」  藍子さんは大きく息を一つ吐いて、柔らかな笑みを浮かべ言葉を続ける。 「明乃はスマホの機能、半分も使えないような子だから、メッセージアプリのダウンロードから面倒見るわ」 「ありがとうございます」 「じゃあ、お疲れ様」  そうやって颯爽(さっそう)と帰ろうとする藍子さんに、「仕事終わりにコーヒーか、何か一杯飲んでいかないかい?」とカウンター越しに祖父が声を掛けた。その祖父の視線は俺から見ても分かるほどに露骨に藍子さんの胸元に向けられていた。そのことにもちろん藍子さんも気付いていて、愛想笑いを浮かべてはいるが不快感が(にじ)みだしている。 「ほんと相変わらずですね、マスター」 「そりゃあ、死んだくらいじゃあ、性格や価値観なんて変わらんさ。綺麗なものを綺麗だと()でて何が悪いのか、ワシは世間に問いたいよ」 「それはどうも。今日は他にやらないといけないこともありますので、これくらいで」  そう言いながら、藍子さんはヒラヒラと手を振りながら、スイングドアを抜けバックヤードへと消えていった。藍子さんがいなくなったことで祖父と二人きりになってしまい、どこか気が重くなる。 「それより、浩輔。ワシは聞いてないぞ」 「なんのことだよ?」 「明乃ちゃんだよ。なんで彼女がここのエプロンつけて働いてたんだ?」 「ああ、それはさっきも話してたから聞こえてたと思うけど、ここで働くことになったんだよ」 「クリーニング屋はどうした? あそこを紹介したのはワシなんだ。あそこの店主とは昔馴染みで勝手に辞めるとかそういうのは困るんだが」 「あのな、じいさん――」  明乃さんとクリーニング店の置かれている状況のことを簡単に説明する。祖父はそれを腕を組み難しい表情をしながら聞いていたが、きっとポーズだけで大したことを考えてないのだと思っている。 「事情は分かった。そういうことなら仕方ない。これはよくやったと浩輔を褒めるべきなのかもしれん。ただし、明乃ちゃんを雇うにあたって、ワシから一つだけ条件がある」  唐突に俺に向けられた真剣で鋭い視線に思わず気圧されながら、「な、なんだよ?」と尋ね返した。 「明乃ちゃんのシャツを注文するドサクサでスリーサイズを聞いてこい」 「いやだよ。もう一回死ね、エロじじい」  吐き捨てるように口にして、掃除に使っていたホウキとモップを片付けるためにスイングドアを抜けた。  人として問題があるとしか思えないあんな祖父でも、コーヒーを淹れる腕前は天才的で、酒の良し悪しを見極める確かな舌を持っている。だからこそ、提供する料理がそこまで美味しくなくても赤字になることなく、夜のバーの営業だけで大きな儲けをだしていたほどだった。  亡くなったはずの祖父の芳夫がなぜカウンターに立っているのかと言えば、死してもなお幽霊となり現世に(とど)まっているからだ。正確に言えば、地縛霊(じばくれい)となり、店に()りついていて、日中は二階にある自室にこもり、夜な夜なバーの営業時間に合わせて店に出てくるのだ。  そして、今なお祖父は喫茶『いさか屋』のマスターとして君臨している。  おかげで夜の営業には俺はそこまで関わらなくていいので、睡眠時間に困るということもなく助かっている。しかし、地縛霊という存在なので何かのきっかけで成仏することもありえる。  祖父がこの店に居続けようとする強い未練が何かは、祖父以外の誰も知らない。  そんないつまで続くのかも分からない(いびつ)なバランスで成り立っているのが、喫茶『いさか屋』の現状だった――。
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