第一章 不思議な喫茶店のとある一日

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 喫茶『いさか屋』の夜の営業は、夜の八時から丑の刻の終わる午前三時までやっている。  夜の時間のメインの客はあやかしだ。なので世間一般のあやかしを見たり感じたりすることができない人間とあやかしとの不意の遭遇を避けなければならない。そうしないと来店した客はくつろぐことはできないし、人間もしなくてもいい怖い思いをすることになってしまうからだ。  そのために夜の営業時間中は、この店自体をあやかし化させている。  そうすることで、普通の人間は入店はおろか、店の存在自体感知できなくなる。仮に来店したあやかしが酒に酔って騒いでも、認知されないので問題になることもないので、人間とあやかしの双方にとってはメリットも多いのだ。  掃除用具を片付け終え、店をあやかし化するという大事な作業のために、スイングドアを抜け、カウンターにいる変態紳士には目もくれず、店の玄関扉へと手をかける。そこにさっきまで姿をどこかに隠していたスズが猫の姿のまま、勢いよく俺の体を駆け登り、肩に乗ってきた。そのままスズを肩に乗せたまま扉を開けると、ドアベルは高低両方のベルの音を鳴らした。  店の外に出て、空を見上げると夜が訪れていた。それでも辺りを見渡せば、街灯や他の店舗から漏れる光、通り過ぎる車のライトにと十分すぎるほどに明るかった。  玄関扉の脇の壁には、アンティークの壁掛けのランタンが設置されている。店の雰囲気にも合っているそれに手を伸ばし、ガスランタンと同じ要領でネジを捻ると、紫色のガスがゆっくりと立ちのぼり、炎の形を形成していき、最終的には橙色(だいだいいろ)の柔らかな色の炎へと変わる。  ランタンに灯がともると同時に、喫茶店の建物自体が一瞬ゆらりと陽炎(かげろう)のように揺れて見えた。それが店があやかし化した証でもあり、これでこのランタンが灯っている間は、店の表側は普通の人間には気に留めることすらできない建物と化す。  もう一度ランタンの灯を確認し、問題がないことを確認する。そのいつもの作業を終え、一息つくと肩に乗ったスズが頭を俺の頬へとこすりつけてきた。そんなスズの頭をそっと撫でる。 「今日も用心棒してくれてありがとな、スズ」 「これもウチの仕事だからね。それよりも浩輔」 「どうかしたか、スズ?」  すぐ横にあるスズの横顔に視線を向ける。スズはランタンの方を気にしているようだった。 「ランタンのつきが悪くなってない?」 「たしかに灯がともるまで遅くなってきたかも。まあ、もう夏の終わりだしなあ。ハロウィンまでもってくれれば大丈夫だよ」 「そうだねえ。それなら大丈夫かもね」  そのままスズを乗せたまま、店の中へと戻った。先ほどまで掃除のために明るくしていた照明は明るさが絞られ、BGMとしてジャズが流れていた。そんな開店準備が仕上がった店内の様子に確認のために掛け時計に目をやれば、夜の七時少し前くらいで、夜の営業開始時間の八時にはまだ時間があった。時間をはっきりと意識したことで、疲労感などから急激にお腹もすいてきた。  そこへバックヤードからスイングドアを抜け、修司さんがフロアにやって来た。 「あっ、修司さん。お疲れ様です」 「うん、浩輔くんもお疲れ様。遅刻は……してないよね?」  修司さんはちらりと時計に目をやりながら確認してくる。普段ならまだ準備をしている最中なのでその反応は正しいものだった。修司さんは普通に立っている分には、モデル顔負けの整った顔とスタイルをしている。変なことを言いさえしなければ、同性から見ても羨ましいとさえ思ってしまうほどに。 「準備は終わっていますが、遅刻はしていませんよ。俺はこれから休ませてもらうところです」 「それならよかったよ。あっ、マスター。今日もよろしく」  修司さんは軽い様子で祖父に挨拶をしていて、祖父も「修司くん、今日も頼りにしてるよ」と笑顔で返していた。修司さんはそのままカウンターの真ん中の席に腰かけた。 「それで修司くん。最近ので何かおススメない?」 「オススメですか? といっても、俺の趣味はマスターもよく知っているでしょう? それでいいのなら今度何か持ってきますけど」 「修司くんはたしか、AV《アダルトビデオ》なら人妻モノ、それ以外なら姉とか年上属性が好きだったよね」 「まあ、基本はそうなんですけど、少し前にちょっと変わったんですよ」 「ほう。今はどんなものなんだい?」 「マスター……時代は“バブみ”ですよ」  祖父は興味津々といった様子で、ずいっと修司さんの方に顔を少し寄せる。そして、修司さんは“バブみ”とは何かから、その素晴らしさを語り始めた。  修司さんは以前、俺にも一方的に語ってきたことがあった。そのときは、内心では呆れつつ、愛想笑いを浮かべて聞き流した。しかし、修司さんは話を聞いてもらえるだけでも満足なのか、俺を同胞か同好の士と見ている節がある。  たしか、修司さんは俺に「“バブみ”は崇高なものなんだ。なんせ年上、年下なんていう年齢という概念さえ関係ないんだから。姉だとか人妻だとか、矮小(わいしょう)な記号や属性にこだわっていた、今までの自分が恥ずかしいよ」と熱弁を振るっていた。  祖父にもその熱い想いを話しているけれど、俺はそんな特殊性癖の話には付き合っていられない。しかし、修司さんにしてみれば、それこそが重要なのだから否定する気もない。  なぜなら、成川(なりかわ)修司(しゅうじ)という男は、子泣き(じじい)という妖怪なのだ。そんな妖怪の特性として、(かたよ)ったフェチズムを持っていて、それを追及するがあまりオタク趣味の沼にはまりこんでしまった、残念なイケメン妖怪なのだ。 「それじゃあ、じいさん、修司さん。俺は部屋に戻るよ。何かあったら、連絡して」 「ああ、分かっとるよ」 「もう行くのかい、浩輔くん」 「ええ、お腹もすいているので。じゃあ、あとは頼みます」  そう口にして、スイングドアを抜ける。廊下で大きく息を吐きだすと、肩が急に軽くなった。それもそのはずでスズが肩から飛び降りて、足元でジッと俺を見上げていた。 「スズ、着替えたら晩ご飯の買い物に行こうか」  スズは尻尾を立てて、その場でくるりと回った。そんなスズの姿を微笑ましく思い、先ほどまでの呆れからくる気の重さから解放された気がした。  着替え終え、休憩室から出ると、スズが待ってましたとばかりに飛びついてきたので受け止め、胸のあたりで抱きかかえた。そのまま買い物に行くために裏口から外に出た。  陽が沈んでいるとはいえ、まだまだ蒸し暑く、湿気をはらんだ重たい空気につい顔をしかめてしまう。だけれど、立ちつくしていても仕方ないのでスーパーに向かって歩き始めると、店から百メートルも離れていない場所で見知った顔に出会った。 「浩ちゃん……」 「どうしたんだよ、亜美(あみ)?」  亜美の困り果てて、今にも泣きだしそうな声と表情に驚いてしまう。今、目の前にいる八塚(やつづか)亜美(あみ)は午前中、店に来たときと同じリクルートスーツ姿で手には就活に合わせて買った鞄とスーパーでの買い物をしたのかエコバッグを()げていた。 「また店の場所が分からなくなっちゃって……」 「またかよ」 「うん。浩ちゃんとご飯食べようと思って買い物してたら、少し遅くなっちゃって……」  亜美は小柄な体をもじもじとさせながら背中を丸めて、さらに小さくなる。そんな亜美のいつもの様子に、とりあえず何かトラブルに巻き込まれたわけではないことにホッと安心する。  亜美はあやかしが見えない普通の人間だ。幼いころからの付き合いで家族同士の付き合いもある。そして、俺が視えるということを知っても、変わらずにそばにいてくれる大事な友人でもある。  それだけでなく、喫茶店の事情も全部知っていて、さらには常連で、大学の空いた時間にたまに店の手伝いまでしてくれている。 「そっか。これから買い物に行こうと思ってたところだから、助かるよ」 「本当に?」  頷いてみせると、亜美はぱあっと明るい笑顔を浮かべた。それから、俺に近づいてきてスズの頭を撫でる。 「スズちゃんにも、缶詰買ってきたからねー」 「まじ!? さすが亜美! 気が利くねえ!」  スズは嬉しそうな声をあげて、亜美に飛びついてじゃれつき始めた。 「スズちゃん、急にどうしたの?」 「スズも喜んでるんだよ」  そう言いながら亜美にテンション高くくっついていたスズを捕まえて、再度抱きかかえた。亜美にはスズが猫の姿をしているときの言葉は届かない。それが本来の人と猫の在り方なのだと思う。 「浩ちゃん、帰ろう?」 「そうだな。それで何を作ろうと思ってるの?」 「バンバンジーだよ」 「作れるの?」 「そりゃあ、浩ちゃんみたいな調理のプロと比べられるほど自信ないけど、ちゃんとレシピ見つけてるから大丈夫だもん」  亜美はわざとらしく頬を膨らませてみせ、すぐに笑いだすのでこっちもつられて笑ってしまう。亜美といるときは変に繕ったり隠したりしなくていいので、本当に気が楽だ。 「期待してるよ。じゃあ、余った材料で俺も何か一品作ろうかな?」 「本当に? やったー!」 「浩輔、ウチには?」 「スズにももちろん分けてあげるよ」  嬉しそうな亜美とスズと一緒に家までのわずかな距離を歩きながら、もっと長く歩きたかったなとどこか物足りなさを感じていた。
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