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第一章 不思議な喫茶店のとある一日
カラン、コロン――。
店の玄関扉につけられたドアベルが低く心地よい音を奏でる。
その音に「ありがとうございました」という声が重なり、大学生くらいの二人組の女性が笑顔を浮かべながら店を出ていった。
玄関扉が閉まると、店内には客が一人もいなくなった。先ほどの客がランチタイムの最後の一組だったのだ。
客がいなくなったことで張りつめていた緊張が緩んだのか、ボリュームを抑えているボサノバ風の店内BGMがはっきりと聞こえるような気がする。ゆっくりと客のいなくなった店内を見渡せば、見慣れてきた光景が目に入ってくる。
カウンターもテーブル席もヴィンテージ感のある木製のインテリアで統一され、上品で落ち着いた雰囲気に包まれている。そんな空間に溶け込みながらも存在感を放つ年代物の大きめの掛け時計が二時少し前の時間を指し示していた。
窓際の陽当たりのいいテーブル席に視線を移せば、椅子の一つを一匹の黒猫が占有していて、身体を丸めて気持ちよさそうに目を細めている。そんな姿を見ているとランチタイムという一日のピークを終えたという安堵感と程よい疲労感から自然と欠伸が出てしまう。
いつもと変わらない穏やかな時間と空間が目の前に広がっている。
ここ、喫茶『いさか屋』は、市街地の中心からは少し離れた場所にあり、古くからある住宅街と再開発の途上にある街の片隅で営業している。
「そろそろ休憩にしましょうか」
カウンターの内側で洗って水切りをしていたカップの水分を丁寧に拭き取りながら、テーブルを片付けていた女性店員に声を掛けた。彼女は俺の声に顔だけを向け、笑顔で頷くと、まとめてテーブルの端に置いていた使用済みのカップと布巾をカウンター越しに渡してきた。それから食器類を手にカウンター横のスイングドアを腰で押し開け、バックヤードにあるキッチンの洗い場に持っていきすぐに戻ってきた。
そして、カウンターの端の席に履いているキュロットスカートの裾をそっと押さえながら腰掛けた。
「お疲れ様です、藍子さん。飲み物はどうしますか?」
「浩輔くんもお疲れ様。それじゃあ、ブレンドもらってもいいかしら?」
「分かりました。そういえば、修司さんは?」
「ああ……キッチンで洗い物してたから、お皿渡すついでにいちおう声は掛けたわよ。だから、手が空いたらすぐに来るんじゃない?」
藍子さんは顔色も声のトーンも変わらないが、言葉の端々にどうにも棘を感じてしまう。そこにスイングドアから端正な顔立ちの男性店員が顔をのぞかせ、店内をさっと見回した後にこちらに視線を向ける。
「修司さん、お疲れ様です」
「うん、お疲れ様。藍子さんも。休憩って聞いたんだけど、俺はこの後、夜まではフリーでいいんだよね? そうならいったん帰りたいんだけど、いいかな?」
「え、ええ。もちろんかまいませんよ」
「ありがとう。じゃあ、また夜の開店準備くらいの時間にはちゃんと戻ってくるから。そういうことで、お先に」
爽やかな笑顔を残して、修司さんは顔を引っ込めた。藍子さんの方に視線を戻すと、肩のコリを和らげるように首を左右に動かしていた。それからシャツの上からでも主張が激しい胸部が苦しいのか、シャツのボタンを二つほど緩め、大きく息を吐きだしていた。
下着が見えてしまいそうな際どい姿の藍子さんを前にして、それを意識しないように静かにドリッパーに入れたコーヒーの粉にポットから静かにお湯を注ぎ入れる。
「修司さん、バタバタと帰っちゃいましたけど、何か用事でもあるんですかね?」
手を動かしながら、深く考えず世間話程度のノリで口にする。しかし、藍子さんは露骨に嫌そうに表情を歪めた。
「どうせいつものでしょう? アニメとか漫画とかラノベとか……最近は動画も見てるんだっけ? 私も小説くらい読むから、そういう人をひとまとめにするわけではないけれど、あいつが読んでいるのはどうにもね。正直言うと気持ち悪い……」
苦々しく吐き捨てるように言うので、つい苦笑いを浮かべてしまう。修司さんはいわゆるオタクで藍子さんが先ほど言ったようなものが好きで、フィギュアなども集めている。他にも藍子さんだけでなく普通の感覚の女性が知れば、顔をしかめてしまうようなものも収集している。
「まあ、少し度が過ぎているところはありますよね、仕方ないところもあるにしろ。そういえば、修司さんって、大学にも行ったりしてるんですよね?」
「それも趣味を兼ねた暇つぶしでしょう? 時間が有り余っているのよ。ただ忌々しいのは、顔と外面だけはいいから、お客さんからの評判もいいのよね。持て囃されているのを見聞きすると、無性に本性の重度のオタクっぷりを暴露してやりたくなっちゃうわ」
「藍子さん、気持ちは重々お察ししますが、それやられたら売り上げに影響しそうなので、まじでやめてください」
そんな俺の本気の懇願に藍子さんは先ほどまでとは打って変わって柔らかな笑みを浮かべ、コーヒーを淹れる俺の手元を見つめる。
「それにしても浩輔くん、コーヒー淹れるのもだいぶ様になってきたよね」
「そうですか? まあ、じいさんが亡くなってからこの店を継いでから一年くらい経ちますからね。毎日淹れていたのでそれなりに見えるかもしれませんが、じいさんに比べたらまだまだですよ」
「マスターはコーヒー淹れるのだけは抜群に上手かったからねえ」
藍子さんは小さく笑みを浮かべながら俺の顔を真っ直ぐに見つめてくる。もしかすると祖父の面影を俺に重ねているのかもしれない。いつもなら祖父と比べられたり、似ていると言われたりするのは嫌なのだが、今は不思議とそこまで嫌ではなかった。
コーヒーの香りが湯気とともに立ち上がり、店の中にゆっくりと広がっていく。時間の流れが遅くなったのではないかと感じるほどにゆったりと穏やかな雰囲気に包まれていたが、ポットの中には抽出されたコーヒーがしっかりと溜まっていった。
この喫茶『いさか屋』は今は俺がオーナーだけれど、元々は祖父の三宮芳夫が店を始め、経営していた。
祖父は定年退職後しばらくして、この店を始め、生まれ育った地の利と生まれ持った特性を活かして、店を軌道に乗せた。
そんな祖父に中学生くらいのころから、
「浩輔は俺によく似ているから、苦労も多いだろう。もしやりたいことが見つからなかったら、浩輔にならこの店を譲ってやってもいい。だから、そうだな。そのためにも調理師免許でも取ったらどうだ?」
そう何度か言われていた。そのときの祖父はいつも以上に優しい視線を俺に向けてくれていたのはよく覚えている。
しかし、俺と祖父は、性格は反対と言っていいくらい違うし、価値観も異なっている。似ているところなんて、一つを除いて全くないと言っても過言ではない。
だけど、その一つのせいで俺は悩み、祖父にはかなり世話になっていた。
それでも祖父は自分が調理が苦手だから、それをやってくれる人材を体よく身内から手に入れようとしているのだろうと思っていた。
ただ祖父は、人のことをよく見ていて本質を見抜く力があったのだろう。高校生の進路を決めなければいけない時期になっても、俺はやりたいことを見つけられずにいた。だから、祖父の言葉に乗せられたというわけではなく、自分の意志で調理専門学校へと行くことにした。
専門学校卒業後は在学中からバイトしていた同じ市内にあるレストランで働きながら、たまに喫茶店を手伝っていた。
そして、昨年、祖父が亡くなり、生前の言葉通り喫茶店を譲り受け、今は店の二階にある居住スペースで暮らしながら、祖父に代わり店の全てを任されている。
文字通り、俺はこの店にまつわる“全て”を祖父から継いだのだ――。
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