前を見て

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 目が覚めて、また始まってしまったと落胆するところから一日が始まる。  でもまだ身体を起こせるから、前よりはだいぶマシになった方。  カーテンを開けて、目を閉じて。  大丈夫、と何度も呟いた。 『大丈夫。目を瞑ってでも一歩踏み出して。踏み出しちゃえばこっちのもの。もう後ろは振り返らずに、目を開けて、前だけ見ていればいいの』  大切な人の言葉を思い出しながら、今日も一歩踏み出す。 『いつかきっと、あなたを待っている人の元へ辿り着けるから』  お母さんの言葉を信じて。 ____「(あゆみ)ちゃんおはよう」  リビングにはもう既に秋保(あきほ)さんの姿があった。  見慣れたキッチン。  だけどいつも立っていた優しい後ろ姿はない。 「おはようございます」  静かに微笑んで冷蔵庫から牛乳を取り出した。  いつも食べているコーンフレークとお椀も手に取りダイニングにつく。 「(はる)くんは?」 「もう出た。今日は日直なんだって」 「へえ」  小学校の日直って、朝何の仕事があるんだろう。  そんなことをぼんやり考えながら、コーンフレークを咀嚼する。  まだあまり味がわからない。 「少し落ち着いた?」  秋保さんは、毎朝お決まりのようにそう尋ねる。  私がいつ回復するかを、今か今かと待っている。 「まあ……」  嘘をついた。全然落ち着いていないし、心の整理もできてない。  大好きな母がもう居ないだなんて。 「……良かった。でも無理しないで。ずっとここに居てもいいんだからね?」 「……ありがとう」  どうして自分の家なのに、「居てもいい」なんて許可を得ているんだろう。  母と二人で暮らしていたこの3LDKの一軒家は、先月兄夫婦のものになった。  兄の直樹(なおき)と、奥さんの秋保さん。  小学三年生の息子、晴くんと三人で、この家に住み始めたのだった。  ……二ヶ月前に、母が亡くなったから。 「晴も歩ちゃんがいると喜ぶし、遠慮しないで」  本当は、早く出て行って欲しいんだと思う。  彼女は早くこの家で、家族三人で暮らしたいんだ。  私だって本当は、すぐに出て行きたい。  いや、出て行くはずだった。  5年間付き合っていた彼氏と、そろそろ結婚に向けて同棲を始めようかと話していたところだった。  だけどその彼は、私の一番の親友と浮気していたことを知る。  母が事故で亡くなった日に。  母と折り合いが悪かった兄夫婦は、亡くなったことを幸運とばかりに家を相続し、葬儀を終えた二週間後にはここに住み始めた。  私がまだ物心つく前に離婚して姿を消した父、そして兄も家を出てから、母と二人で守ってきたこの家は、もう私のものではない。 「そろそろ部屋を探そうと思ってます」 「……そう。焦らなくていいからね」  秋保さんが嬉しそうに微笑む顔から、母の遺影へと視線を移した。 『大丈夫』  うん。前に進まなきゃ。  写真の中の母は、いつものようにお日様みたいに笑っていた。
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