朱殷の草衣

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 色がない怪物は、どうしようもないほどうつくしかった。  目の前の、恐らく私より背丈が低いのであろう幼気な女の子は、血管さえも透けて見えてしまいそうなほど透明で、真っ白な肌をしていた。不思議と不健康さは感じなくて、むしろ神秘的だと思えてしまう。淡雪のように綺麗な髪は、腰にかかり膝に絡み床に広がって、細い滝のようであり、上等な生糸のようでもある。  何といっても、作り物のようにうつくしい瞳は、鮮烈な赤なのだ。血の色や炎の色を連想させもしない、宝石のような赤。幻覚か、宝石特有の虹色の光もちらちら踊っていて、お人形さんみたい、と不躾にも感嘆の息を漏らしてしまった。  その怪物が従えるのは、二つの松明。脂がたっぷり塗ってあるのか、暗闇しかない洞窟の中でごうごうと激しく燃え盛っている。かわいた岩壁が松明に照らし出される。その中で水の女神のように降り立つ怪物は、紛うことなき神だった。  その怪物は、業務的に口角を持ち上げて、こてりと可憐に小首をかしげた。 「おてきは、どちらさんでありんすえ?」  何枚も何枚も重ねた豪奢な衣装は膝上ですっぱりと切り裂かれている。そのせいでほっそりした足が惜しげなく晒され、目に眩しかった。  夏の氷みたいに涼やかな声を響かせ、怪物は私を覗き込む。 私は胸の前でそっと手を組み合わせて、恍惚に瞳を潤ませ、うっとりと微笑んだ。 「祈雨です。祈雨といいます」  雨乞いの生贄に相応しい名だった。 「豊穣の女神さま。どうぞ私を食ろうてくださいませ」 ***  "前の子"が女神さまに捧げられたのは七年前、祈雨がまだ五つか六つになるときのことで。笑顔が可愛らしかったあの子は、最期の最期まで泣き叫んで抵抗したけれど、結局猿轡を噛まされ、小さな洞穴に閉じ込められてしまった。幼い祈雨にも、生贄は慈雨を願う意味でも、奴隷の維持費を減らす意味でも必要だとわかっていたので、特に心動かされはしなかった。奴隷生まれの父母も、そうやって生贄にされて死んだ。今更何を憤り、悲しめと言うのだろう。  次は祈雨だとわかっていても、奴隷の子は奴隷だしと、半ば諦めて鍬を振りかざし、何ともない顔で畑を耕した。  そのときだった。  黒雲が空を覆ったのは。  わずかに埃っぽい匂いが、つんと鼻腔を刺激していた。思わず一度手を止めて空を振り仰ぐと、見たことがないほど急速な勢いで黒雲が空に流れ込んでいた。  村の人たちも、何だ何だとざわめきながら同じように空を見上げていて、幼心に、これは異常だと背筋が凍ったのを覚えている。  秋晴れの空が完全に黒雲が覆い隠してしまった頃、それは現れた。  息絶えた幼子を――洞穴に閉じ込められたあの子を、まるで赤子のように抱き、空に独り浮かぶ"神"。  真白の髪をはためかせ、うっすらと嘲笑う女神を、祈雨は見た。 「ほんに好きいせん女子だこと」  ちらりと幼子に視線を移す女神を見て、祈雨は震えた。もしかして、お気に召さなかったのだろうか。だから今年の干ばつはお救いになられないまま? ……気づけば、祈雨の周りの人間は、顔を真っ青にしていた。  大きな垂れ目をすっと細めて、犬歯を剥き出しにして、女神さまは、宙に浮かぶ彼女は、黒雲でバチバチと爆ぜる雷を従え、よく通る声で言った。 「まあ、ようす」  その瞬間、鼓膜が破けるような雷が轟いた。  全身に駆け巡るような轟音に打ちのめされ、思わず鍬を取り落とし耳を塞いだ。悲鳴が絶え絶えに聞こえ、荒れる呼吸を整えようと奥歯を強く噛みしめる。  その蹲った頭を、ハッと上げさせたのは、一つの水滴だった。  軽やかに、軽やかに、喉を潤せもしない水滴が頭を優しく叩く。空を見上げれば、雷が落ちるような分厚い黒雲ではなく、薄い灰色の雲が空を覆っていた。  糸のように雨が降る。  手触りの悪い布のような音がして、へたり込んだ祈雨の体を濡らしていく。次第に雨は強まって、でも豪雨ってほどじゃない。 (嗚呼……)  祈雨の瞳は潤んでいた。 (これが、慈雨というものなの……)  一拍遅れて、村人たちから歓声が上がる。握り拳を高々と雄叫びと共に衝き上げる者。震える手を合わせ、女神さまにひれ伏す者。子供たちは跳ね上がり、飲むように空へ口を開けた。 その中で、祈雨はひたすらに女神さまを見上げていた。  浮世離れした、ゾッとするほどうつくしい容姿。うっとりと村を睥睨する瞳が何とも清廉で、覗き込むだけで、心が震えた。  雨空を背後に、ただ一人ぽつりと佇む彼女。  何と――何と、畏ろしく、気高く、凄絶で、うつくしいのだろう。  祈雨が流した歓喜の涙は、慈雨によるものではない。  ただ一人、崇拝するに値する神に出逢えたことへの歓喜だった。 ***  怪物は瞠目していた。  目の前の生贄は、死の恐怖に怯えることもなく、怪物と見紛う容姿の神に敵意を示すこともなく、ただ悦に浸って潤んだ眼で、自分を見上げていた。  こんなことは、今まで生きてきた中で、一度だってなかった。未知の感覚に、束の間呆然とする。  虐げられたことなど数知れず。自分に毒の刃を向けた人間の数は一国の総人口を軽く上回るだろう。同族の神でさえ、自分を産んだ母でさえ、嫌悪の眼を向けた。  この生贄も同じと思っていた。  強大な力にひれ伏し、泣き震えながら雨を乞うのだろうと。もしくは怪物と誹り罵り、あっけなく事切れるのだろうと。  否。否! なぜこの娘が、自分を嫌う?  見よ。あの自分に陶酔しきった顔を。他の神がさんざん向けられてきた視線。――怪物が、何百も、何千も望んできた代物。  畏怖に隠れた崇拝。  怪物は、脳が痺れるくらい興奮した。  一途にもこの化け物を慕い、崇め続けてきたのだ。そう考えるだけで、ぞくぞくと背筋に狂喜がひた走る。思わず口元を押さえて、黒髪黒目の、何の特徴もない娘を見返した。  何千年、考え続けていたのだろう。なぜ自分には色がないのか。  あるとき、答えが出た。  それは――。 「嗚呼、嗚呼……」  ずるずると綺麗に整えられた爪が伸びた。鋼鉄のように硬く、鋭く、狂気に満ち満ちた指を、音もなく振り上げる。本能のままに、抑えることのできない狂喜に身を任せ、きぃんと耳鳴りすらする歓びに胸を高鳴らせる。  未だ死期を悟らぬ娘に向けて。 (どうか、どうか、あちきを)  貴女の色に染めて! ***  醜いとされてきた。それが嫌だった。  綺麗に着飾った人間は、変な話し方をした。それが気に入っていた。この話し方にすれば、自分も綺麗になれる気がした。 「ねぇ……」  風前の灯火となった命の火は、わずかにまだ燃えている。瞳の奥で、ゆらゆらと。  腹から胸をざっくり裂き、返り血をその身に浴びた。一滴も床に漏らしたくなどなかった。  淡雪のような髪は、点々とはしているがどす黒く染まり、毛穴一つない繊細な肌にはぽつぽつと黒子ができた。依然として瞳は赤いままだけれど、気にならなかった。  生贄の娘の血を、自分に擦り付けるかのように頬ずりをする。 「ねぇ」  やわこい体を抱き起こして、ぎゅっと全身で抱き締めた。 「あちきは、綺麗?」  祈雨といった娘は、それはそれは優しく、陶酔した微笑みを浮かべ、いじらしく囁いた。 「えぇ。……とっても」
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