しゃっくり

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 お昼休みを10分早く切り上げて教室に戻ってきたというのに、健吾の姿は見当たらなかった。  そりゃあ確かに、早く戻ってこいとは伝えてないけど。  あの野郎、ご褒美いらないんかい。  我ながら理不尽に腹を立てながら待つこと数分。  やっと健吾がしれっと帰ってきた。 「遅い」 「普通だろ。何?俺のこと待ってたの?」  鬱陶しくニヤついてくる。  スルーだ。スルー。 「これでどう?」  200 ml紙パックのコーヒー牛乳を差し向けた。  奴はそれをしばらく見つめた後、思い出したような顔をした。  自分から言い出したくせに。 「これがご褒美かよ」  ポケットに手を突っこんだまま、手に取ろうともしない。 「何?不満なわけ?」  中学生の頃は好きだったはずだ。  当時うちに居候していた智さんが淹れるコーヒーを、砂糖と牛乳をたっぷり入れて、嬉々として飲んでいたものだった。 「んー、コーヒー牛乳かぁ」  でも、目の前の健吾はそう言って、あまり気乗りしないようだ。 「じゃあいい。私が飲む」  諦めて引っこめようとしたら、紙パックを押さえつけて阻止された。 「澄麗が飲ましてくれんなら、それでいいことにしてやるよ」 「は?」  どういう意味だ。 「俺は犬だしな。飼い主様がストロー挿して飲ましてくれるっつーんなら、飲んでやらなくもない」  飲ませるって、そういうことか。 「そんなことされて、あんたは嬉しいわけ?」 「おう。殿様気分が味わえそうだ」 「最っ低」 「ほら、急がねえと昼休み終わるぞ」  う。  午後の授業が終わったらすぐ合唱部の練習だ。  やけになって立ち上がった。 「ここじゃやだ」  誰かに見られたら絶対に冷やかされる。 「ふーん?」  健吾は、コーヒー牛乳から手を離して、意味ありげに笑った。  予鈴の鳴り響く廊下は、教室に戻ってくる生徒でいっぱいだった。  どこか人気(ひとけ)のない場所はないかと考えて、いつだったか友達と校内を探検した時に見つけたボイラー室を思い出した。  あそこなら誰もいないだろう。特に、こんな授業が始まる直前には。  そう思って、健吾を連れてボイラー室のある1階まで降りて、廊下を進む。  節電のためか、保健室を過ぎたあたりから薄暗い。私と健吾の足音だけが浮かびあがっているようだ。  突き当たりのボイラー室に辿り着いて、重たいドアを押し開けて振り向くと、黙って付いてきていた健吾は、ポケットに手を突っこんで少し困ったような顔をしていた。 「もしかして、怖いの?」  そういえば健吾は怖がりだった。  陽介たちのデートに付き合わされて遊園地に行った時、お化け屋敷の中で、健吾は足をすくませた。  あの頃の健吾は本当に可愛かったのに。 「お前の方こそ怖くねえのかよ」  私の頭越しにドアに手をついて、こちらを見下ろしてくる。  何ちょっとドキッとしてるんだ、私。  石川さんが、結構イケてるなんて言うから、無駄に意識してしまった。 「怖いわけないじゃん。連れてきたの私なんだから」  声が不自然に上ずる。 「そうかよ」  幸い、健吾が気にする様子はなかった。 「それより、これ、オートロックとかじゃねえよな」  ドアを上から下まで見て、健吾が呟く。 「違うと思うけど」  そのまま中に入ろうとしたら、ひとつ結びにした髪を掴まれた。 「いたっ。何すんーー」 「思うけどじゃねえ。閉じこめられたらどうすんだよ」 「ケータイで助け呼べばいいじゃん」 「圏外かもしんねえだろ。いいから戻ってこい。ここで飲む」  髪を引っ張られるようにして、ドアの外に引き戻された。  まあいいか。ここでも十分、人気がない。  紙パックに付いているストローをビニールから出して、紙パックに突き刺す。  健吾と同じように、私も廊下の壁に背中を付けて腰を下ろした。  紙パックに挿したストローを、健吾の口元に恐る恐る近づけたら、距離を見誤ったようで、奴の口の縁に刺してしまった。  薄暗い廊下で、健吾の目がきらりと光って、目元にからかうような笑みが浮かぶ。 「どこ刺してんだよ」  ムカつく。  こんな奴に、ちょっとでもドキドキさせられてるのが。 「あんたが調整すればいいだけの話でしょ」  というか、こいつが自分で飲めばいい話だ。 「しょうがねえな」  健吾は、コーヒー牛乳を持つ私の手を掴んだかと思うと、ぐいっと引き寄せて、ストローを咥えた。  白いストローがほのかに色づいて、健吾の喉仏が上下する。  健吾の息が手にかかってくすぐったい。健吾の大きな手に、訳もなく落ち着かない気持ちになる。 「あっま」  健吾が、ストローから口を離して、顔をしかめた。 「2年ぶりに飲んだわ」  後味悪そうに歪ませている。  その様子が子供みたいで、緊張が少し紛れた。 「甘いの好きだったじゃん」  コーヒーに大量の砂糖を入れる健吾を見て、智さんが笑っていたものだった。 「別に。2年も経ちゃ味の好みも変わるだろ」  健吾は目を伏せてそう答えた。  何かを隠してるように見えるけど、私にはもう健吾のことが分からない。 「変わったよね、健吾。手も、こんなにゴツゴツしてなかったし」  健吾の手は今や、私の手よりもずっと大きくて分厚い。  石川さんの言う通り、確かにシュッとした顔をしている。丸いところがなくなって、健吾はすっかり別の生き物になってしまった。  健吾はパッと私から手を離した。 「お前もな」  そう呟くように言うと、私から紙パックを奪い取って、勢いよく立ち上がった。 「私のどこがーー」  変わったの。  そう尋ねようとした私に背を向けて、健吾はコーヒー牛乳をあっという間にガラガラと飲み干してしまった。 「俺は犬だからいいけど、」  咥えたストローの隙間から声を出してくる。  ベリベリと紙パックの耳を剥がしている音がする。 「他の男はこんなとこに連れこむなよ」  そんなことを言って、健吾は紙パックを潰しながら、来た道を大股で歩いていってしまった。 「何なの……」  本鈴が鳴るまで、私はその場に呆然と座りこんでいた。
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