13人が本棚に入れています
本棚に追加
合唱曲を知るなり、健吾は伴奏しないと言い出した。
話が違う。
「さっきコーヒー牛乳あげたじゃん」
「おう、澄麗の手から飲ましてもらったな」
合唱部がざわついた。
一部の人はまだ、私が健吾と噂になっていることを知らなかったのらしい。
マジで最悪。
「ちょっと、河村さん」
多くの部員が好奇の目で見てくる中で、ただ一人、副部長の小坂先輩だけが憮然とした表情を浮かべて割りこんできた。
「私はピアノができる人を連れてきてって言ったの。彼氏を連れてこいとは言ってない」
腰に手を当てて、すっかりご立腹だ。
私もそのつもりだったんですけど。
「こいつがーー」
「曲決めたのあんたッスか?」
私が言い訳しようとしたのを遮って、健吾がポケットに手を突っ込んだまま小坂先輩にそう尋ねた。
「そうだけど」
小坂先輩がムッとした口調で答える。
「趣味悪いっすね。違う曲にしてくださいよ。それだったら伴奏します」
な、何いきなり喧嘩売ってるんだ。
「健吾っ」
小坂先輩は、普段から怖いけど、キレたらもっと怖いんだから。
「ねえ、何で急に来た人にこんなこと言われなきゃいけないの?」
ヤバい。小坂先輩、噴火寸前だ。
しかも、私に向かって怒ってる。
「あの、すぃ、すみまーー」
「じゃあ、こいつだったらいいんすか?言ってやれよ。お前も嫌だろ、この曲」
健吾が、しれっと私を巻きこんでくる。
やめて。
「弾いてくれないんだったら帰っ……」
健吾を音楽室から追い出そうとしたけど、今帰したら家で義信さんと二人になってしまうと思い直した。
「黙ってそこに座ってて。私が弾くから。嫌じゃないし。むしろ、好きだし、この曲」
私にとってこの曲は、可愛かった健吾との思い出の曲だ。
当時は健吾だって楽しそうにこの曲を弾いてたのに。
私が鍵盤に触れると、ざわめきが静まる。
鍵盤を押すと、静寂を破って音が生まれる。何度も練習したメロディが、音楽室の中に広がっていく。
あの頃もこうやって、ピアノを弾く私のそばに健吾が立っててーー。
「やめやめやめ」
健吾の声が乱入してきて、場を台無しにした。
「何?」
「下手すぎて聞いてらんねえわ」
「あんたが弾いてくれないからでしょ」
「こんな伴奏でコンクールとか出たら恥晒しもいいとこだぞ。もっとマシな奴いねえのかよ」
「うるさい。黙って座っててって言ってるでしょ」
「あの……」
私たちの言い合いに、細見さんが入ってきた。
「河村先輩は、私の代わりに……」
涙目になっている。
健吾のせいで罪悪感を抱かせてしまったようだ。かわいそうに。
「気にしないで。こいつーー」
「あんたがもともと弾く予定だった子か」
私の声を遮って、健吾は私の肩をぐいっと押しのけた。押されるままに、ピアノの前の椅子から立ち上がる。
「あんた、名前は?」
「千香です」
健吾に問われて、細見さんはなぜか下の名前を答えた。
「千香か。ここ座りな。そんな難しい曲でもないし、練習すりゃ弾けるようになるよ。見た感じ器用そうだし、ピアノの経験あるんだろ」
私が座っていた椅子を指して、健吾が言う。
信じられないくらい優しい声で。
細見さんは、促されるままに腰を下ろした。
「がんばってみます……」
目に涙を浮かべたまま、フニャフニャした声でそう宣言した。
まさか。
健吾ってこういう子がタイプなのか?
最初のコメントを投稿しよう!