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「何だ、義信さんいないのか」
家でやっと一人になったところに、健吾がやってきて言った。お母さんは今日から軽井沢に行っている。
「義信さんだったら図書館に行ったよ」
「ふーん」
ふーんじゃない。帰れ。
「何上がろうとしてんの?」
玄関で靴を脱ごうとしているのを見て咎めた。
せっかくの一人の時間を邪魔しないでほしい。
「ゲーム途中だったんだよ」
そう言って、私が止めるのも聞かず、健吾はズカズカと家の中に上がりこんだ。
仕方なくその背中を追う。
「義信さんいなかったら進められないんじゃないの?」
「よく知ってるな」
開き直りやがって。
健吾は、リビングのソファーにドカッと座って、我が物顔でテレビをつけた。
動物園の特集をしているようで、パンダがグダグダしている様子が映し出される。
「あー、腹減った。義信さん、昼には戻ってくるだろ?」
なんて奴だ。ご飯を食べにきたのだ、こいつは。
「戻ってこないよ。食べるもの用意してったし」
「んじゃあ、陽介の分を俺が代わりに食ってやるよ」
「はあ?陽介が食べるかもしれないし」
「陽介は俺んちで昼飯食うってよ」
健吾が、証拠だと言わんばかりにスマホの画面を見せてくる。
何それ。何でそれを健吾に言うのだ、陽介は。
「そういえばさ、望月先生に私と同じクラスにしてくれって頼んだって本当?」
台所の方でガサゴソしている健吾に、お母さんの言葉を思い出して尋ねた。
聞かなきゃと思って忘れていた。
「それはちょっと違うな」
無遠慮に電子レンジのドアを開けながら、健吾が否定する。
「同じクラスじゃないと困るって言ったんだ」
「同じじゃん」
否定するほどのことじゃない。
「何でそんなこと言ったわけ?」
そう尋ねたけど、答えがなかった。
はぐらかす気かと思って台所に行くと、健吾は電子レンジの操作に苦戦していた。
「もう、どいて」
見ていられなくて、代わりに操作しようと手を出す。
「おい、自動じゃなくて、2分に設定してえんだ」
「うるさい。温まれば何だっていいでしょ」
「がさつすぎるんだよ、お前は」
「あんたが細かすぎるだけだから」
「寝癖つけたままの奴に言われたくねえ」
「えっ」
そういえば、起きてから一度も鏡を見てない。
「早く言ってよ、ボケンゴ」
「今さらだろ、オタンコナスミレ」
慌てて洗面所に駆けこんだ。鏡に映る自分の髪がいつにも増して跳ねている。
最悪だ。こんな状態であいつと喋ってたのか、私。
だいたい、サラサラ髪のあいつに、癖っ毛の人の気持ちなんて分かりっこない。朝のセットにどれだけの時間を費やしてるかとか、どんなに時間をかけてもどうにもならない日もあることとか。
「頼まれたんだよ、陽介に」
台所に食器を下げにいくと、先に食べ終えてお皿を洗っていた健吾が言った。
「何を」
そう尋ねた私の手から食器を取って、流しに置いてくれた。
「姉ちゃんを守ってやってくれって」
「守るって、何から?」
「鈍感な姉ちゃんだな」
健吾はわざとらしくため息をついた。
いちいちムカつく。
「もったいつけないで、ちゃんと説明してよ。何の話なのかもさっぱり分からない」
「だから、お前と同じクラスにしてもらった理由だよ」
「ああ」
そういえばその話が宙ぶらりんになっていた。
「でも私、あんたに守ってもらうようなこと、何もないんだけど」
何の危険もないし。
「お前はそう思ってても、陽介は心配なんだろ。義信さんが変な気起こすんじゃねえかって」
「何それ」
私はむしろ陽介のことが心配なのだけど。
「あんた、それでうちに来てるわけ?」
「そりゃあ、未来の弟に頼まれちゃ、無下にするわけにもいかねえしな」
そういうことだったのか。
健吾がいきなり絡んでくるようになった理由が分かってスッキリした。
「陽介はまったくもう……」
本当に、優しい子だ。
頼る相手を間違えてるけど。
「ひでえよな、澄麗も。陽介に、家に帰ってこなくていいって言ったんだろ?」
「はあ?そんなこと言ってないよ」
私が陽介にそんなひどいことを言うはずがない。
「そうか?傷ついてたぞ、あいつ」
全く心当たりがないーーと思ったけど、もしかしてあれのことか。
陽介が私に、義信さんと二人にさせちゃってごめんね、と謝ってきた時、確かに私は、健吾に言われたからといってさっさと帰ってくることはない、と言った。
でもそれは、私に気を遣う必要はない、という意味だった。陽介を家から遠ざける意図など、微塵もなかった。
だけど、あの子は今、自分の父親のことを知ってショックを受けているところなのだ。
私に邪魔者扱いされたように受け取ったかもしれない。
「陽介、あんたの家にいるの?」
「ん?いると思うけど……どこ行くんだよ」
「誤解を解いてくる」
「待てよ。お前は本当にせっかちだな」
「だって……」
一秒でも早く、陽介の勘違いを訂正したい。
「お前のことだから、」
洗い物を続けながら健吾が言う。
「陽介のためを思って言ったんだろ。分かってるよ。俺からそう伝えといたから。お前ら、姉弟で心配しあって仲良いよな」
その口元には笑みが浮かんでいる。
「違う」
何も知らないくせに。
「そんなんじゃない」
健吾に言ったって、仕方がないのに。
「何が」
健吾が水を止めてこちらを振り向く。
「他に何かあるのかよ」
そんな目で見ないで。
そんな、見透かそうとするような目で。
「健吾には関係ない」
これはうちの問題だ。
それなのに、健吾に全部吐きだしてしまいたくなる。
陽介と父親が違うこととか。お母さんが陽介の父親を憎んでいることとか。陽介の父親にいじめられた記憶が、朧げに残っていることとか。
「そうかよ」
健吾はそれ以上食い下がらなかった。
「散歩の時間だな」
タオルで手を拭きながら、健吾は真顔でそんな軽口を叩いた。
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