靴下の穴

6/6
前へ
/92ページ
次へ
「姉ちゃん」  明里ちゃんの部屋のドアを勢いよく開けた私を見て、陽介は目を丸くした。 「どうしたの、急に」  そう訊かれて、何をどう話そうか逡巡していると、 「お前に帰ってこなくていいって言ったことについて、弁明したいらしいぜ」 と、健吾が横から説明した。 「ああ」  陽介がつまらなさそうにシャーペンで頭をかく。 「俺のことを想って言ってくれたんだろ。分かってるから」  口ではそう言いながら、陽介は拗ねた顔をした。 「分かってない。私がどれだけ……」  どれだけ、陽介のことを大事に思っているか。  父親のことを知って苦しんでいるだろう陽介に、何もできなかったのは、余計傷つけるのが怖かったからだ。 「あんた、知っちゃったんでしょ?」  健吾や明里ちゃんの前だけど、止められなかった。 「ずっと苦しんでたんでしょ?何で私に言ってくれなかったの?」  言ってくれたら、あんな言い方しなかったのに。  陽介は片頬だけを持ち上げて笑った。 「姉ちゃんこそ、ずっと俺に隠してたくせに」  明里ちゃんが、私たちの顔を交互に見て「何の話?」と訊くのを、健吾に制されている。 「変だと思ってたんだ。同じように育てられたのに、俺、姉ちゃんと全然違うから。納得したよ。俺にはクズの血が流れてるんだ。こんな俺のことなんか放っといてよ」 「何でそんなこと言うの?」  陽介のそばに座った。 「放っとけるわけないでしょ。家族なんだから」 「だって、姉ちゃん、俺のこと全然信用してないじゃないか」  私から逃げるように、陽介は身体を反対側に向ける。 「全部一人で抱えこんでさ。お母さんのことだって、自分がそばにいるからあんたは心配しなくていい、なんて言って。俺のこと当てにしてないからだろ」  そんな風に思っていたのか、と思った。  2年前、智さんを追い出した後、お母さんは落ちこんで、二度と恋をしないと言った。  陽介はまだ幼くて、憔悴しきったお母さんの姿に心を痛めていた。  だから、安心させたくて言ったのだ。陽介を当てにしてないわけじゃない。 「ごめんね。私の言い方が悪かったね」  健吾の言うとおり、私はがさつなのだろう。 「私ね、お母さんが落ちこんでるの見て、自分は一生誰かを好きになったりしないって思ったの。でも、陽介には、そんな風に思ってほしくなくて。明里ちゃんと仲良しなままでいてほしくて。それでそんな言い方をしたんだよ。一人で抱えこんでるつもりもないし、陽介のことはすごく信用してるよ」  正しく伝わっただろうか。  捻じ曲がる余地もなく、届いただろうか。 「……こんなところで、やめてよ」  陽介がうめくように言った。 「え、ごめ……」 「いちいち謝んないで。帰る」  別に連れ戻すつもりじゃなかったのに。  そう思ったけど、また傷つけてしまいそうで、何も言えなかった。 「また明日な」  陽介が明里ちゃんに軽く手を振る。  明里ちゃんは何か言いたそうな顔をしていたけど、言葉にしないまま、黙って手を振り返した。 「明里ちゃんの前であんな話しちゃってごめんね」  健吾の家を出て、先を行く陽介に謝った。  つい、周りが見えなくなってしまった。 「だから、いちいち謝んないでって言ってるだろ。明里は関係ないし」 「そう?」  明里ちゃんの前だったから嫌だったのかと思ったけど。 「それより、姉ちゃんは俺の父親のこと覚えてるの?」  陽介は、歩くペースを少し落として、こちらを振り向いてそう尋ねてきた。  私の一番古い記憶は、お腹が空いてひもじくて、祈るような気持ちでお母さんの帰りを待ち続けた、真っ暗闇の窓の景色だ。  あれはたぶん、陽介の父親が、私に食べ物を与えてくれなかったからだったのだろうけど。 「覚えてるわけないじゃん」  その追憶を振り払って、そう笑い飛ばした。 「その時まだ二歳とかだよ、私」  この記憶が正しかったとしても、口に出したところで、胸を痛める人が増えるだけだ。 「そういえばお母さんさ、私の父親のことは何か言ってた?」  陽介の父親の話をしたのなら、私の父親の話もするのが普通だけど。 「ううん。何も言ってなかった」  やっぱり。 「陽介の父親がひどい人だったとか言うけどさ、私の父親だってどうか分からないよ?お母さん、どんな人だったか全然教えてくれないし」  自分の父親のことが知りたくてたまらない時期があった。  でも、いくら頼みこんでも、お母さんは決して教えてくれなかった。だから、行きずりの男だったのではないかと、私は密かに疑っている。 「強いね、姉ちゃんは」  感心したような呆れたような調子で陽介はそう呟いた。 「そうだよ、あんたが思ってる以上に強いんだから」  心優しい弟に向けて、力こぶを作っておどけてみせる。 「だから、健吾に私を守ってやってくれなんて頼まなくても大丈夫だよ」  言ってから、こんな言い方をしたらまた、余計なことをしたと落ちこませてしまうだろうかと後悔した。  でも。 「俺、ケン兄にそこまで言ってないよ」  陽介は笑ってそれを否定した。 「え?」  どういうことだ。  頭の中に無数のハテナが浮かんで、私はひどく混乱した。 「姉ちゃんさ、ケン兄のことどう思ってるの?」  混乱中の私に、陽介がさらに答えに困るようなことを訊いてくる。 「どうって。……大型犬?」 「大型犬って」  私の適当な返しに、陽介がケラケラ笑う。  まあ、陽介が楽しそうなら何でもいいか。 「ケン兄って、ホント健気だよね」  ひとしきり笑った後、陽介がそんなことを言った。  健吾のことを、飼い主に健気に尽くす犬だとでも思っているのだろうか。 「こっちは人間になってほしいんだけど」  そうボヤいたら、陽介はフフッと笑った。
/92ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加