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「姉ちゃん」
明里ちゃんの部屋のドアを勢いよく開けた私を見て、陽介は目を丸くした。
「どうしたの、急に」
そう訊かれて、何をどう話そうか逡巡していると、
「お前に帰ってこなくていいって言ったことについて、弁明したいらしいぜ」
と、健吾が横から説明した。
「ああ」
陽介がつまらなさそうにシャーペンで頭をかく。
「俺のことを想って言ってくれたんだろ。分かってるから」
口ではそう言いながら、陽介は拗ねた顔をした。
「分かってない。私がどれだけ……」
どれだけ、陽介のことを大事に思っているか。
父親のことを知って苦しんでいるだろう陽介に、何もできなかったのは、余計傷つけるのが怖かったからだ。
「あんた、知っちゃったんでしょ?」
健吾や明里ちゃんの前だけど、止められなかった。
「ずっと苦しんでたんでしょ?何で私に言ってくれなかったの?」
言ってくれたら、あんな言い方しなかったのに。
陽介は片頬だけを持ち上げて笑った。
「姉ちゃんこそ、ずっと俺に隠してたくせに」
明里ちゃんが、私たちの顔を交互に見て「何の話?」と訊くのを、健吾に制されている。
「変だと思ってたんだ。同じように育てられたのに、俺、姉ちゃんと全然違うから。納得したよ。俺にはクズの血が流れてるんだ。こんな俺のことなんか放っといてよ」
「何でそんなこと言うの?」
陽介のそばに座った。
「放っとけるわけないでしょ。家族なんだから」
「だって、姉ちゃん、俺のこと全然信用してないじゃないか」
私から逃げるように、陽介は身体を反対側に向ける。
「全部一人で抱えこんでさ。お母さんのことだって、自分がそばにいるからあんたは心配しなくていい、なんて言って。俺のこと当てにしてないからだろ」
そんな風に思っていたのか、と思った。
2年前、智さんを追い出した後、お母さんは落ちこんで、二度と恋をしないと言った。
陽介はまだ幼くて、憔悴しきったお母さんの姿に心を痛めていた。
だから、安心させたくて言ったのだ。陽介を当てにしてないわけじゃない。
「ごめんね。私の言い方が悪かったね」
健吾の言うとおり、私はがさつなのだろう。
「私ね、お母さんが落ちこんでるの見て、自分は一生誰かを好きになったりしないって思ったの。でも、陽介には、そんな風に思ってほしくなくて。明里ちゃんと仲良しなままでいてほしくて。それでそんな言い方をしたんだよ。一人で抱えこんでるつもりもないし、陽介のことはすごく信用してるよ」
正しく伝わっただろうか。
捻じ曲がる余地もなく、届いただろうか。
「……こんなところで、やめてよ」
陽介がうめくように言った。
「え、ごめ……」
「いちいち謝んないで。帰る」
別に連れ戻すつもりじゃなかったのに。
そう思ったけど、また傷つけてしまいそうで、何も言えなかった。
「また明日な」
陽介が明里ちゃんに軽く手を振る。
明里ちゃんは何か言いたそうな顔をしていたけど、言葉にしないまま、黙って手を振り返した。
「明里ちゃんの前であんな話しちゃってごめんね」
健吾の家を出て、先を行く陽介に謝った。
つい、周りが見えなくなってしまった。
「だから、いちいち謝んないでって言ってるだろ。明里は関係ないし」
「そう?」
明里ちゃんの前だったから嫌だったのかと思ったけど。
「それより、姉ちゃんは俺の父親のこと覚えてるの?」
陽介は、歩くペースを少し落として、こちらを振り向いてそう尋ねてきた。
私の一番古い記憶は、お腹が空いてひもじくて、祈るような気持ちでお母さんの帰りを待ち続けた、真っ暗闇の窓の景色だ。
あれはたぶん、陽介の父親が、私に食べ物を与えてくれなかったからだったのだろうけど。
「覚えてるわけないじゃん」
その追憶を振り払って、そう笑い飛ばした。
「その時まだ二歳とかだよ、私」
この記憶が正しかったとしても、口に出したところで、胸を痛める人が増えるだけだ。
「そういえばお母さんさ、私の父親のことは何か言ってた?」
陽介の父親の話をしたのなら、私の父親の話もするのが普通だけど。
「ううん。何も言ってなかった」
やっぱり。
「陽介の父親がひどい人だったとか言うけどさ、私の父親だってどうか分からないよ?お母さん、どんな人だったか全然教えてくれないし」
自分の父親のことが知りたくてたまらない時期があった。
でも、いくら頼みこんでも、お母さんは決して教えてくれなかった。だから、行きずりの男だったのではないかと、私は密かに疑っている。
「強いね、姉ちゃんは」
感心したような呆れたような調子で陽介はそう呟いた。
「そうだよ、あんたが思ってる以上に強いんだから」
心優しい弟に向けて、力こぶを作っておどけてみせる。
「だから、健吾に私を守ってやってくれなんて頼まなくても大丈夫だよ」
言ってから、こんな言い方をしたらまた、余計なことをしたと落ちこませてしまうだろうかと後悔した。
でも。
「俺、ケン兄にそこまで言ってないよ」
陽介は笑ってそれを否定した。
「え?」
どういうことだ。
頭の中に無数のハテナが浮かんで、私はひどく混乱した。
「姉ちゃんさ、ケン兄のことどう思ってるの?」
混乱中の私に、陽介がさらに答えに困るようなことを訊いてくる。
「どうって。……大型犬?」
「大型犬って」
私の適当な返しに、陽介がケラケラ笑う。
まあ、陽介が楽しそうなら何でもいいか。
「ケン兄って、ホント健気だよね」
ひとしきり笑った後、陽介がそんなことを言った。
健吾のことを、飼い主に健気に尽くす犬だとでも思っているのだろうか。
「こっちは人間になってほしいんだけど」
そうボヤいたら、陽介はフフッと笑った。
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