13人が本棚に入れています
本棚に追加
爪切り
「あっ」
思わず声をあげてから、そいつが目を覚まさないことを祈った。
ここは騒がしい教室だ。私の声はきっと喧騒がかき消してくれただろう。
奴の頭が動かないのを見て、そう安心した。
のも束の間。
「んん」
机に突っ伏して寝ていたそいつは、小さく唸って、眠そうな顔を持ち上げた。
大丈夫。まだ慌てる時間じゃない。
こいつの髪は憎らしいほどサラサラだし、私の爪などきっとすぐに流れ落ちるだろう。
「あんだよ」
不意に声がした。
それで、奴の髪から顔へと目線を下げると、こちらを訝しげに見つめる視線にぶつかった。
「な、何でもないよ」
パタパタと手を振ってごまかしたら、奴は私の手元を見て、何か良いものを見つけたみたいな顔をした。
「爪切りじゃん。貸してくれ」
私の方に手を伸ばしてくる。
まだ小指を切り終えてないんだけど。
「爪、こっちに飛ばさないでよね」
仕方なく、そう釘を刺しながら奴に爪切りを差し出した。
そしたら、奴は何かに気づいたように、ニヤリと笑った。
「そんなお前みてえなことするわけねえだろ」
図星すぎて固まった私をよそに、奴は、パチン、パチンと爪を切り始めた。
さっき私が飛ばした爪は、相変わらず奴の頭の上に鎮座している。
まったく、何のためのサラサラヘアーなのか。私の爪くらい軽く流してくれないと困る。
「なんだよ、そんなに見つめて。俺の爪切りてえの?」
自分の手元に目を落としながら、奴がそんな軽口を叩いてくる。一体どこに目がついてるのだ。
「そんなわけないでしょ」
「ホントは犬の爪切りは飼い主の仕事だぜ?」
犬って。
いつまで大昔の家族ごっこを続けるつもりなのだろう。
「馬鹿じゃないの」
「じゃあ何でそんなこっち見てんだよ。俺の頭に何か変なもん付いてるか?」
「つ、付いてないよ」
嘘じゃない。『変なもん』は付いてない。私の爪だ。
「じゃあ何だよ。あ、俺、ハゲてる?」
「ハゲてな……あっ」
否定しかけて思いついた。
「ハゲてる!この辺ヤバいよ。ほら、ちょっと触ってみ」
私の爪が乗っかってるところを指さして、確認するように促した。
もちろん、どさくさに紛れて爪を落とさせようという作戦だ。
「マジで?」
口ではそう言いながら、全然焦った様子はない。
私の誘導に乗ることなく、奴は机の横に掛けていた自分の鞄を取った。膝の上に乗せて少しゴソゴソしたかと思うと、おもむろに何かを取り出した。
「なっ」
それは、コンパクトミラーだった。
「ちが、勘違った。私の勘違いだった。ハゲてないから」
噛みながら奴の手から鏡を奪い取る。鏡なんて見られたら、頭の上に私の爪が乗っているのがバレてしまう。
だいたい、何で鏡なんか持ち歩いてるのだ。自分の容姿とか気にしそうにないのに。
「何だよ」
奴は鞄を机の横のフックにかけ直して、爪切りを再開した。
何だよ、はこっちのセリフだ。
さっきからこいつ、明らかに頭を動かさないようにしている。
そうか。
頭を動かしたくなるようなことを言えばいいんだ。
私は鏡を奴の机の上に返して、尋ねた。
「これ、健吾の?」
「ああ」
う、頷かないだと?
「カッコいいと思ってんの?自分のこと」
「ああ。澄麗も思うだろ?」
「はあ?何で私が」
って。私が首を振らされてどうする。
仕方ない。次の作戦だ。
「あ、暑くない?仰いであげようか?」
「暑くねえよ。むしろ肌寒いぐれえだわ」
「あっ、じゃあセーター着れば?ロッカーに入れてたよね?取ってきてあげる」
爪を落とせるなら何だっていい。
そう思って立ち上がろうとしたら、奴は吹き出した。
「必死すぎんだろ」
小刻みに肩を震わせている。
その拍子に、私の爪が髪を滑り降りて、奴の膝の上に着地した。
「やっぱりな」
私の爪をつまみあげて、奴は満足そうに笑った。
やっぱりなって、どういうことだ。
私が爪を飛ばした時、こいつは机の上に突っ伏して寝ていた。見えていたはずがない。
「け、健吾の爪が飛んだんだよ。ほらあ、飛ばさないように言ったのに」
奴が手にしている私の爪を指差して、その流れで取り返そうとしたけど、手首を掴んで阻止された。
「俺の爪はこれ。な。どう見ても違うだろ」
さっき切った自分の爪を私の指の上にかざして、そう説明してくる。
確かに、どう見ても違う。幅も、カーブの仕方も。
「だいたい俺、こんな雑な切り方しねえし」
そんな憎まれ口まで付け加えてきた。
ムカつく。
けど、怒ったら負けだ。
「あ、あれだよ、おばちゃんか、それか、明里ちゃんの爪じゃない?」
明里ちゃんというのは、こいつの妹だ。
粘る私に、奴は小馬鹿にしたように目を細めた。
「いい加減観念しろよ。どの指だ」
掴んだままの私の手を引き寄せて、持ったままの私の爪と比べようとした。
そこで、少し間が空いた。
「……どうしたの?」
心配になって声をかけたら、奴は小さく肩を跳ねさせた。その拍子に髪がさらりと流れる。
どうせなら、もっと前にそれをしてほしかった。
「いや、別に」
明らかに変だったのに、しれっとはぐらかして、爪切りを私の手に押し付けるように返してきた。
「教室で爪切るとか、相変わらず自由だな」
「あんただって爪切っーー」
私がまだ喋ってるのに、奴は机の上の自分の爪を手早く回収すると、立ち上がってゴミ箱に捨てにいってしまった。
戻ってきて、何事もなかったように鞄の中から教科書を取り出している。
「ちょ、ちょっと。勝手に話を終わらせないでよ。この、ボケンゴ」
「何だよ、オタンコナスミレ」
「はいはい、そこのバカップルさん、授業始めますよ」
いつの間に来ていたのか、数学の望月先生が出席簿で私たちを指して言った。教室の中に笑いが起きる。
……最悪。
最初のコメントを投稿しよう!