爪切り

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   合唱部の活動中は、健吾から解放される貴重な時間だ。健吾だけでなく、気がかりなこと全部、歌ってる間は忘れられる。  だから私は、歌うのが好きだ。  けれど。  今年度の合唱部は何だか険悪で。 「何回言ったらそこ直んの?歌う側がつられるからちゃんと弾いて」  副部長の小坂先輩が尖った声を出す。 「すみません……」  新入生の細見さんが、ピアノの前で泣きそうな顔をしている。 「まあまあ、文化祭までまだ時間あるからさ」  部長の涌井先輩がおっとりと宥めるのを、 「変な癖ついてからじゃ遅いから」 と、小坂先輩がピシャリと跳ね返す。  前年度まではピアノを弾ける人がいたのだけど、この春に合唱部を辞めてしまった。合唱の伴奏ができる人が他にいなくて、小さい頃にピアノを少しだけ習ったことがあるというだけの理由で、新入生の彼女にやらせているのだ。 「あの、私が弾きましょうか?」  細見さんが可哀想で、おずおずと手を挙げた。  上手いわけではないけれど、この曲は少し練習したことがあって、少なくとも彼女よりはマシに弾ける自信がある。  私の申し出に、細見さんがパッと表情を明るくした。  けど。 「いやいや、何言ってんの」  小坂先輩がすぐに却下してくる。 「河村さんがソプラノ歌わないでどうするの」  私の歌声を買ってくれているのだ。  細見さんが、がっくりとうなだれる。 「じゃあ、今日だけ」  細見さんが不憫で、私は食い下がった。 「変な癖がつかないように、今日だけ弾かせてください」  勢いよく頭を下げた。 「まあ、ここまで言ってくれてるんだからさ」  涌井先輩がとりなすように言って、 「じゃあ、今日だけなら……」 と、小坂先輩は渋々ながらも折れてくれた。  ピアノのひんやりとした鍵盤に触れて、あの頃の記憶が蘇る。  中2の冬まで、飯塚智という売れない作曲家がうちに居候していた。お母さんの彼氏で、5年くらい一緒に暮らしていた。  お母さんは智さんにピアノを買ってあげた。そして、その見返りに、私にピアノを教えてやってくれと頼んだ。それは別に、私を音楽家にしたかったからではなくて、何事も経験するのが大事だという、お母さんのモットーに基づくものだった。  それで、智さんは私にピアノを教えてくれた。でも、健吾が家に遊びにくるようになってからは、私に教えるのよりもずっと難しい曲を、二人で楽しむようになった。  それが悔しくて、自分には難しすぎると分かっていながら、私もムキになって同じ曲を練習したものだった。  今から弾くのは、そういった曲の一つだった。    鍵盤の上で、確かめるように指を沈めると、次第に手が思い出していく。  上手く弾けないもどかしさも、智さんに対する敬愛も、健吾への憧れも、指を伝って全部、胸の中に蘇る。  お母さんの歴代の元カレの中で、智さんのことが一番好きだった。智さんがお父さんになってくれたらいいのに、と思っていた。  だからあの日、私は絶望した。  そして、一生お母さんのそばにいると誓ったのだ。 「河村先輩っ」  帰ろうとしたところを、昇降口で呼び止められた。  細見さんだった。 「あの、ありがとうございました!」  深々とお辞儀をしてくる。 「ううん、こっちこそごめんね。あの曲、難しいよね」  そう返したら、細見さんはボロボロと泣き出した。 「あ、あたし」  嗚咽の合間に、細見さんは言った。 「あたし、できないですっ」  顔を両手で覆って、しゃくりあげている。  相当苦しかったのだろう。 「そっか。大丈夫、私が何とかするよ」  全く『何とか』できるイメージはないけど、とにかく細見さんを安心させたくて、安請け合いした。 「本当ですかぁ?」  涙でぐちゃぐちゃの顔で、細見さんが縋るような目を私に向けてくる。  今さら取り消すことはできない。内心、困ったぞ、と思いながら、大きく頷いてみせた。 「良かったぁ。あたし、伴奏やれって言われてから、ずっと憂鬱でぇ。河村先輩、すっごい上手で。かっこよくて。あたしにはあんなの、無理ですぅ」  子供みたいに泣きじゃくるから、その背中を撫でてやった。 「もう大丈夫だよ。心配しないで」 「うう、ありがとうございますぅ」  細見さんは、しがみつくように抱きついてきた。  少しだけ、羨ましいと思った。  こんな風に誰かに頼ることは、私にはもうできそうにない。  智さんはもう、いなくなってしまったから。  健吾はもう、変わってしまったから。
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