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「おかえり」
家に帰ると、リビングで健吾に出迎えられた。
ゲームをしているようで、テレビ画面から目を離さない。
「何でいるわけ?」
始業式から1週間毎日うちに来てるから、今日もいるような気はしていたけど、いて当たり前にしてはいけない。
「そりゃあ、おたくの弟の陽介クンがうちに来てるもんでね。俺がここに来ることでイーブンにしてんのよ」
コントローラーをカチャカチャと操作しながら健吾が言う。
毎回、この訳の分からない理屈をこねられる。
確かに陽介は健吾の妹の明里ちゃんのところに毎日行ってるらしいけど、それは昨日今日始まったことではないのに。
「おかえり、澄麗ちゃん」
突っこむ気力もなく突っ立っていると、義信さんが、健吾の向こうで声をかけてきた。
この春休みにお母さんが連れてきた居候だ。義信さんも手にコントローラーを持っている。
「ごめんね、勝手に家に上げちゃって」
私を見上げて、おっとりとした口調で謝ってくる。
作ったような笑顔が、すごくうさんくさい。
でも、そっけなく接するわけにもいかない。毎日顔を突き合わせなきゃいけないのに、義信さんとギスギスしたくない。
「悪いのはこいつなんで。義信さんをゲームに付き合わせないでよ」
健吾に向かって文句を言ったら、奴は目だけをこちらに向けて、ニヤリと笑った。
「じゃあ、澄麗が付き合ってくれんのか?」
「何で私が」
二人がやっているのはアクション系のゲームだ。殴り合いとか、全然興味ない。
ゲームがひと区切りついたのか、義信さんは立ち上がってリビングを出て行った。お手洗いに行ったようだ。
健吾は、ゲーム機を脇に置いて、胡座をかいたまま床に後ろ手をついて、私を見上げた。
ニヤニヤしていて、気持ち悪いことこの上ない。
「飼い犬と遊ぶのも飼い主の勤めだろ」
また言ってる。
「ホント、馬鹿じゃないの。いつまで続けるの、それ」
「俺が飽きるまで」
勝手すぎる。
健吾の気まぐれに振り回されるこっちの身にもなってほしい。
「ほら、遊んでくれねえと、信頼関係が薄れて躾けるのが大変になるぞ」
「信頼関係なんか元からないでしょ」
「マジで言ってんの?俺、ないちゃうぜ?」
「冗談ばっかり言わないで」
「ホントになくよ?ワンワン!」
「やだ。もう、出てってよ」
「お散歩に行きたいワン」
「一人で行けば」
「アオーン」
「せめて人間の言葉で喋って」
「あはは」
健吾のアホさ加減に脱力していると、お手洗いから戻ってきた義信さんに笑われた。
「可愛いね、君たちは」
そう呟いた義信さんの目の奥に、不穏な影が差したように見えた。
「本当に、そそられるな」
私たちを交互に見つめて、唇を舐める。
ゾワゾワッと鳥肌がたった。
思わず健吾の方を見ると、奴もこちらを向いてお化けを見たみたいな顔をしていた。
「あ、何か飲む?」
義信さんがいつもの調子に戻って訊いてきたけど、もう信用できない。
「あ、あの私、こいつを散歩させに行かなきゃなので」
健吾の肩を掴んで断ると、義信さんは笑みを大きくした。
「行ってらっしゃい。晩ごはん作って待ってるね」
健吾の腕を引っ張るようにして外に出た。
「強引な飼い主だワン」
靴のつま先を地面に打ち付けながら、健吾が軽口を叩く。
「いつまでふざけてるの」
その腕から手を離して、一歩、距離を取った。
「どこ連れてってくれんの?」
そう言って、ワクワクした顔を向けてくる。
本当に犬みたいだ。どんだけ役に入りこんでいるのだ。
「勘違いしないで。あんたを家に送り返しにいくだけだから」
ついでに、健吾のお母さんに、陽介が日頃お世話になっていることのお礼を言っておきたい。
「えー、つまんねえ」
「あのね」
こいつは、さっきの義信さんの様子を見て、恐怖を感じなかったのだろうか。変な目で見られているかもしれないとは、思わなかったのだろうか。
確かに、健吾はボクシングをしているから、襲われても反撃できるのかもしれないけど。
それでも。
「本気で、もううちには来ないで。いい?」
私は、健吾にこれ以上、汚いものを見せたくない。
義信さんを家に連れてきた時、お母さんが私に与えた情報は、彼が32歳独身であることと、売れない小説家であること、そして、澄麗に手を出すことは絶対にありえないから安心しろという、その三つだけだった。
『澄麗に手を出すことは絶対にありえない』
その言葉の意味を、その時は深く考えなかったけど、それはつまり、恋愛対象が女ではない、ということなのではないか。
思えば、お母さんは義信さんのことを、彼氏だとは言わなかった。歳も随分離れている。本当に、ただの居候なのだ。
別に、同性愛者に対して偏見を持っているつもりはない。
でも、健吾だけはダメだ。健吾のことをそういう対象として見ているかもしれない男のところに、健吾を置いておくわけにはいかない。
「やだよ」
健吾は、うちに来るなという私の要求を、あっさりと却下した。
「飼い主が帰ってきたら出迎えるのが犬の勤めだろ」
犬、犬、犬って。
「急に何なの?そんなこと今までずっとしてなかったじゃん」
「んー、忘れてたんだよ」
「はあ?」
さすがの健吾も、家族ごっこに飽きていたということだろうか。
それなら、またすぐに飽きて忘れるだろうか。
「あんた、部活は?バスケ部に入ってたんじゃなかったの?」
百歩譲って健吾の悪ふざけに付き合ってやるにしても、今日みたいに私が合唱部に行っている間に健吾が義信さんと二人きりになるのは避けたい。バスケ部なら、私よりも帰りが早くなることはないはずだ。
「んー?帰宅部入ってる」
「それ入ってるって言わないし。バスケじゃなくても、どっか運動部入ればいいじゃん。まだ入部届間に合うでしょ。運動不足になるよ」
部活で疲れて私に絡む体力がなくなれば、なおいい。
「毎朝走ってるし、週末はボクシングだ。部活やんなくても十分運動してるわ」
そう言って、健吾は腰を落としてシャドーボクシングをしてみせた。
その手は、人を殴るためのものじゃなかったはずなのに。
「ピアノは、もう弾いてないの?」
健吾をバスケ部に入れるのを諦めてそう尋ねたら、
「弾かない」
と、食い気味に返してきた。
「もうガキん頃みたく指動かねえし。ほら、見ろよ、この拳タコ」
手の甲の変色したマメを見せてくる。
知ってる。
「……伴奏の人がいないんだよね」
言うまいと思っていたのに、口が勝手に動いた。
「合唱部でさ、私が伴奏してるの。私がだよ?」
私のピアノ技術の低さを、健吾はよく知っているはずだ。あの頃、上手く弾けなくて落ちこむ私を、何度慰めてくれたか分からない。
「それって、」
健吾がポケットに手を突っこんで言った。
「俺に合唱部来てくれって言ってる?」
見ると、尻尾をぶんぶん振っているのが見えるような笑顔を浮かべていた。
「い、言ってない。別に、合唱部に誘ってるわけじゃないけど、伴奏の人がいなくて大変だっていう……愚痴。そう、ただの愚痴だから」
全然誘いたくない。合唱部は、気の休まる貴重な場所だ。健吾に来られたら困る。
……けど。
健吾が合唱部に入ってくれたら、問題がいっぺんに解決するのも事実だ。
健吾を義信さんと二人きりにしなくて済むし、伴奏者がいない問題も解決する。
「ふーん?」
健吾は私の顔をじっと覗きこむと、何を思ったかニヤリと笑って、それ以上は何も言わなかった。
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