爪切り

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「姉ちゃん」  ひと足先に健吾の家を出て、家に向かって歩いていると、陽介が走って追いかけてきた。 「何で先に行っちゃうんだよ」  怒られるとは思わなかった。 「何でって、陽介の方こそ、もっとゆっくりして来ても良かったのに」 「そういうわけにはいかないよ」  全然、そういうわけにいくと思うんだけど。 「あんた、健吾に何か弱みでも握られてるの?」  陽介は昔から健吾に対してやけに従順なのだ。 「別に」 「じゃあ何でそんな健吾の言うこと素直に聞くわけ?」 「そりゃあ、ケン(にい)は明里の兄ちゃんだし」 「自分の姉ちゃんの言うことは聞かないくせに」  そう言い返したら、陽介は黙ってしまった。  問い詰めたかったわけではないのだけど。 「あんた、高校どこ受けるか決めたの?」  受験生の弟に向かってそう尋ねた。  お母さんに進路をまともに相談しているとは思えない。お母さんは放任主義だし、陽介は反抗期真っ最中だ。 「別に」  このところ、いつもこれだ。  ちょっと前までは何でも話してくれたのに、最近は何も教えてくれない。だから、陽介が何を考えてるのか、ちっとも分からない。 「明里ちゃんと同じところ受けるの?」  明里ちゃんや健吾は知ってるのだろうか。そう思って尋ねてみた。  そしたら、 「関係ないだろ」 と、怒られてしまった。  やっぱり陽介のことがよく分からない。 「一人で抱えこまないで、困ったら相談しなね」  他にかける言葉もなくて、あてもなくそう呟いてみたけど、陽介はそれきりひと言も発しなかった。  義信さんが作ってくれた夕飯を済ませた後、ピアノの前に座って、鍵盤の蓋をそっと開いた。  リビングで長らく、畳んだ洗濯物の置き場所になっていたそのピアノは、鍵盤を押すと懐かしい音色を響かせた。  細見さんに『何とかする』と言ってしまった手前、私が伴奏を引き受けるしかないだろう。小坂先輩はブツブツ言うだろうけど、他にピアノを弾く人がいない現状では、背に腹は変えられない。 「へえ」  楽譜を見ながらとりあえず最後まで弾き終えた時、横から声をかけられた。  義信さんが、壁にもたれるように立って、私のことを見ていた。 「澄麗ちゃん、ピアノも弾けるんだ。多才なんだね」 「すみません、うるさくして。合唱部で伴奏することになりそうなんですけど、うまく弾けなくて」 「居候に気を遣うことないよ。そうなんだ、頑張り屋さんだね」 「いや……」  何としても褒めようとしてくるところが、やっぱりうさんくさい。娘に取り入って、お母さんからより多くの見返りを得ようとしているのだろうか。  だとしたら、私は騙されない。 「今日は、ここにいるんだね」  義信さんが、私の後ろに目を移して、ゆるりと笑った。 「何か問題でも?」  ソファーに座る陽介が、携帯電話を手に、義信さんを睨みつけている。 「あはは、もちろん、何も問題ないよ」 「じゃあ放っといてもらえますか、俺たちのことは」 「陽介」  反抗的な陽介を軽く咎めた。  義信さんを怒らせて手を上げられでもしたら、私には守れない。義信さんは割と細身だけど、それでも大人の男だ。とても力では敵わない。  陽介が勢いよく立ち上がったから、一瞬ヒヤリとした。  陽介は、私たちの横をすり抜けて、二階に駆け上がっていった。しばらくして、ドアが乱暴に閉まる音がした。 「すみません」  陽介の代わりに、義信さんに謝る。 「本当はあんな乱暴な子じゃないんですけど……」  優しくて、心が繊細で、感受性が豊かな子だ。 「うん、大丈夫、分かってるよ。踏みこみすぎた僕が悪いんだ」  義信さんが、よりかかっていた壁から身を離して、二階に続く階段に目を見上げながら言う。 「陽介くんも、本当に可愛いね」  その言葉に、昼間感じた恐怖心が蘇った。  健吾だけでなく、陽介のことまでそういう目で見ているのかと思ったら、怖くてたまらなくなった。  一時間ほどピアノの練習をした後、2階にあがって陽介の部屋のドアをノックした。 「ごめんね、姉ちゃん」  私の顔を見るなり、陽介は謝ってきた。 「ん?何で?」 「あいつと二人にさしちゃっただろ」  やっぱりこの子は優しい子だ。 「大丈夫だよ私は」  私に気を遣って、この子が自分を犠牲にしないように。 「だからさ、健吾に言われたからって、さっさとうちに帰ってきたりしなくて大丈夫だからね」  一番大事な人は誰かと問われたら、私は真っ先に陽介の名前を挙げる。  ずっと陽介と二人だった。  お母さんは自由奔放な人で、私たちが小さい頃から、平日は深夜にならないと家に帰ってこなかった。私たちの身の回りのことは、その時々の彼氏に任せていた。お母さんが付き合った人はだいたいみんな優しかったけど、所詮は他人で、だから私はいつも陽介の手を握っていた。   側から見れば私が陽介を守ってるように見えただろう。でも、陽介がいたから、私は寂しくなかったのだ。   「そっか。俺、余計なことしたね」 「え?」  陽介はなぜか傷ついた顔をしていた。 「陽介ーー」 「分かった」  私の声を遮って、陽介は押しつけるように頷いた。 「俺、勉強しなきゃだから」  そう言って、私を部屋から追い出した。
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