13人が本棚に入れています
本棚に追加
「姉ちゃん」
ひと足先に健吾の家を出て、家に向かって歩いていると、陽介が走って追いかけてきた。
「何で先に行っちゃうんだよ」
怒られるとは思わなかった。
「何でって、陽介の方こそ、もっとゆっくりして来ても良かったのに」
「そういうわけにはいかないよ」
全然、そういうわけにいくと思うんだけど。
「あんた、健吾に何か弱みでも握られてるの?」
陽介は昔から健吾に対してやけに従順なのだ。
「別に」
「じゃあ何でそんな健吾の言うこと素直に聞くわけ?」
「そりゃあ、ケン兄は明里の兄ちゃんだし」
「自分の姉ちゃんの言うことは聞かないくせに」
そう言い返したら、陽介は黙ってしまった。
問い詰めたかったわけではないのだけど。
「あんた、高校どこ受けるか決めたの?」
受験生の弟に向かってそう尋ねた。
お母さんに進路をまともに相談しているとは思えない。お母さんは放任主義だし、陽介は反抗期真っ最中だ。
「別に」
このところ、いつもこれだ。
ちょっと前までは何でも話してくれたのに、最近は何も教えてくれない。だから、陽介が何を考えてるのか、ちっとも分からない。
「明里ちゃんと同じところ受けるの?」
明里ちゃんや健吾は知ってるのだろうか。そう思って尋ねてみた。
そしたら、
「関係ないだろ」
と、怒られてしまった。
やっぱり陽介のことがよく分からない。
「一人で抱えこまないで、困ったら相談しなね」
他にかける言葉もなくて、あてもなくそう呟いてみたけど、陽介はそれきりひと言も発しなかった。
義信さんが作ってくれた夕飯を済ませた後、ピアノの前に座って、鍵盤の蓋をそっと開いた。
リビングで長らく、畳んだ洗濯物の置き場所になっていたそのピアノは、鍵盤を押すと懐かしい音色を響かせた。
細見さんに『何とかする』と言ってしまった手前、私が伴奏を引き受けるしかないだろう。小坂先輩はブツブツ言うだろうけど、他にピアノを弾く人がいない現状では、背に腹は変えられない。
「へえ」
楽譜を見ながらとりあえず最後まで弾き終えた時、横から声をかけられた。
義信さんが、壁にもたれるように立って、私のことを見ていた。
「澄麗ちゃん、ピアノも弾けるんだ。多才なんだね」
「すみません、うるさくして。合唱部で伴奏することになりそうなんですけど、うまく弾けなくて」
「居候に気を遣うことないよ。そうなんだ、頑張り屋さんだね」
「いや……」
何としても褒めようとしてくるところが、やっぱりうさんくさい。娘に取り入って、お母さんからより多くの見返りを得ようとしているのだろうか。
だとしたら、私は騙されない。
「今日は、ここにいるんだね」
義信さんが、私の後ろに目を移して、ゆるりと笑った。
「何か問題でも?」
ソファーに座る陽介が、携帯電話を手に、義信さんを睨みつけている。
「あはは、もちろん、何も問題ないよ」
「じゃあ放っといてもらえますか、俺たちのことは」
「陽介」
反抗的な陽介を軽く咎めた。
義信さんを怒らせて手を上げられでもしたら、私には守れない。義信さんは割と細身だけど、それでも大人の男だ。とても力では敵わない。
陽介が勢いよく立ち上がったから、一瞬ヒヤリとした。
陽介は、私たちの横をすり抜けて、二階に駆け上がっていった。しばらくして、ドアが乱暴に閉まる音がした。
「すみません」
陽介の代わりに、義信さんに謝る。
「本当はあんな乱暴な子じゃないんですけど……」
優しくて、心が繊細で、感受性が豊かな子だ。
「うん、大丈夫、分かってるよ。踏みこみすぎた僕が悪いんだ」
義信さんが、よりかかっていた壁から身を離して、二階に続く階段に目を見上げながら言う。
「陽介くんも、本当に可愛いね」
その言葉に、昼間感じた恐怖心が蘇った。
健吾だけでなく、陽介のことまでそういう目で見ているのかと思ったら、怖くてたまらなくなった。
一時間ほどピアノの練習をした後、2階にあがって陽介の部屋のドアをノックした。
「ごめんね、姉ちゃん」
私の顔を見るなり、陽介は謝ってきた。
「ん?何で?」
「あいつと二人にさしちゃっただろ」
やっぱりこの子は優しい子だ。
「大丈夫だよ私は」
私に気を遣って、この子が自分を犠牲にしないように。
「だからさ、健吾に言われたからって、さっさとうちに帰ってきたりしなくて大丈夫だからね」
一番大事な人は誰かと問われたら、私は真っ先に陽介の名前を挙げる。
ずっと陽介と二人だった。
お母さんは自由奔放な人で、私たちが小さい頃から、平日は深夜にならないと家に帰ってこなかった。私たちの身の回りのことは、その時々の彼氏に任せていた。お母さんが付き合った人はだいたいみんな優しかったけど、所詮は他人で、だから私はいつも陽介の手を握っていた。
側から見れば私が陽介を守ってるように見えただろう。でも、陽介がいたから、私は寂しくなかったのだ。
「そっか。俺、余計なことしたね」
「え?」
陽介はなぜか傷ついた顔をしていた。
「陽介ーー」
「分かった」
私の声を遮って、陽介は押しつけるように頷いた。
「俺、勉強しなきゃだから」
そう言って、私を部屋から追い出した。
最初のコメントを投稿しよう!