しゃっくり

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しゃっくり

 机の上に、鍵盤を書いた紙を広げた。  うまく弾けるようにならないまま合唱部の活動日が来てしまって、せめてもの足掻きに、ホームルームまでの間に指の動かし方を練習しようと思ったのだ。  それだというのに。 「っく」  朝からしゃっくりが止まらない。  鍵盤シートの上で動かす指が、しゃっくりの度にブレる。 「朝から精が出るな」  健吾が、登校するや否や絡んできた。  無視だ。無視無視。しゃっくりしてることがバレたら、からかわれそうだし。    ある程度のところまでは弾けるのだ。けど、転調のところでどうしても手が止まってしまう。  単純に、練習不足である。  そしてそれは健吾のせいだ。  私の下手なピアノを聴かせるのが恥ずかしくて、健吾が家にいる間は練習できなかった。健吾が帰ってから、近所迷惑にならない時間までーー平日は1日1時間も練習できてない。    思い通りに動かない指が腹立たしくて、しゃっくりも相まって、イライラしながら紙の鍵盤を叩いていた私は、突然聞こえてきたピアノの音に、思わず身をすくませた。  手元の紙に描いた鍵盤が鳴ったのかと思った。 「驚いたか?」  見ると、健吾がスマホをこちらに向けてニヤニヤしている。画面に鍵盤が表示されてるから、アプリか何かで音を出したのだろう。 「邪魔しないで、よ」  途中でしゃっくりが出た。恥ずかしい。 「残念、止まんなかったか」 「何が」 「しゃっくり。びっくりしたら止まるだろ」  私のしゃっくりを止めるために驚かせてやったのだと言いたいのらしい。 「余計なことしないで」 「今日合唱部の練習なんだろ。それまでに止まんなかったら困るだろ」 「まだ8時だよ。放課後までには止ま、るし」 「どうかな。何年もしゃっくり止まんなかった人もいるらしいぜ」 「嘘」 「怖いだろ?だから俺が止めてやるよ」  一瞬流されかけた。  慌てて踏みとどまる。 「いいから放っといて」 「わっ」  いきなり大きな声を出してきて、また心臓が跳ねる。 「ハハ、チョロいな」 「やめ、てって言ってるでしょ。全然止まんないし」 「しぶといな」  こうなるのが分かってたから、健吾にバレたくなかったのに。 「そういや、明里と陽介、別れたらしいな」  健吾がさらりととんでもないことを口走った。 「ええっ?」  信じられない。彼らは小学生の頃からかれこれ3年以上付き合っている。おとといも、陽介が明里ちゃんの頬にキスするのを見たばかりだ。  そこまで考えて、健吾の冗談である可能性に思い至った。  案の定、健吾はニヤニヤと私を見ていた。 「ホン、ト、やめてってば」 「お前もそんな簡単に信じるなよ」  確かに、シスコンの健吾のことだ。2人が本当に別れてたら、喜ぶか怒るかしてるだろう。こんなに平然としているはずがない。  すぐに見抜けなかった私も馬鹿だったかもしれない。でも、心臓が持たないからやめて欲しい。 「もういいから、練習の邪魔、しないで。あんた、合唱部で伴奏してくれる気ないんでしょ?」 「んなことは言ってねえよ」 「えっ?」  びっくりした。  だって、ピアノはもう弾かないと言っていたではないか。 「え、伴奏してくれるの?」  思わず弾んだ声を出してしまった。  やばい。調子に乗らせたかも。 「あー、何かご褒美くれるんなら、考えてやらなくもねえな」 「はあ?何が欲しいわけ?」 「それは飼い主が察してくれよ」 「馬鹿じゃないの。こんな大きい犬」 「その犬のおかげでしゃっくり止まっただろ」 「あ」  言われてみれば。 「ってことで、ご褒美次第だから、考えとけよ」  机の上に教科書を並べ始めている。 「何勝手にーー」  話を終わらせようとしてるんだ、と言おうとしたら、 「はい、席つけー」 と、前の方で担任の先生の声がした。  ……ホント、健吾と話してると調子が狂う。
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