「ありがとう」

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「ありがとう」

 ありがとう。  最後に僕はそう言って、彼と別れた。  二年前の、寒い日だった。雪がぱらぱらと降っていて、吐いた息はとても白かった。夜の公園で僕たちはベンチに座っていた。今でも思い出す、彼の鼻。とても赤くて、歌に出てくるトナカイみたいだと思った。 「――それでさ、次の曲がドラマの主題歌に決まったんだよ!」 「……うん。すごいね」 「これ、チャンスだと思う! 俺さ、もっと有名になって――」  僕の彼氏……いや、元彼氏は音楽をやっている。  四人でバンドを組んでいて、彼は歌と作詞を担当していて、とっても努力をしていて……自慢の彼氏だった。歳は僕の方が上だけど、年下の彼から教わることはたくさんあった。  好きだった。  大好きだった。  でも――。 「君は、きっとこれからすごい人になるだろうね」 「そりゃそうに決まってる! ああ、早く新曲を聴いて欲しいな! テレビのさ、音楽番組で歌うのが初披露になるから、それを……」 「……あのさ」  僕は彼の目を見て、出来るだけ冷静を装って言った。 「僕たち、もう別れよう」 「……え?」  彼は目を丸くして僕を見た。  僕は続ける。 「きっと、僕は君の将来の荷物になる」  そうだ。  僕はただのサラリーマン。  けど、彼は違う。  これから、輝かしい世界で生きていく人だ。  そんな彼の邪魔だけはしたくない。  僕から、離れなければ。  僕は公園から出ようと立ち上がった。けど、同じように立ち上がった彼に胸ぐらをつかまれる。 「待ってよ! 何? 俺、なんかした? 気に障るようなことした!?」 「そうじゃない」 「今、浮かれてるから嫌なこと言ったのなら謝るから! だから、急に変なこと言わないでよ!」 「……僕と君とでは住む世界が違うよ。差がありすぎる。釣り合わない」 「そんなこと……!」 「あるよ。悪いけど、僕は身の丈に合った恋がしたい。君とは無理だ。悪いけど、別れて欲しい」 「……っ!」  彼は僕から手を放して、背を向けて歩き出した。  ああ、終わる。  そう思って俯いた時、彼が公園に響き渡る大声で背中を向けたまま言った。 「いつか、迎えに行くから!」 「……」 「あんたのこと、幸せに出来るのは、俺だけだから!」 「……ありがとう」  僕の言葉は、彼に届いたのか分からない。  けど、僕は確かに、彼に届けようと、ありがとうと言った。  ずっと応援しているよ、大好きだよ……そんな思いを込めた言葉だった。  *** 「このバンド、好きなんですか?」 「え?」  CDショップの店員さんに急に話しかけられて、僕は財布を落としそうになった。店員さんは若い女性で、アルバイトだろうか。大学生くらいに見える。 「あ、いきなりすみません……私も、そのバンドのファンなんです! 声も演奏も良いけど、歌詞が一番好きなんですよ! 失恋の歌が多くて、ちょっと切ない大人の曲って言うか……」 「……そうなんですか? 会社の後輩に勧められて聴いてみようと思ったんです」  少し恥ずかしくて、僕は嘘を吐いた。  知っている。  彼が使う言葉は、どこを切り取っても美しい。  心の深いところに語り掛けるような歌詞を彼は書くんだ。 「……迎えに行くよ、か」  CDジャケットに書かれたタイトルを見て苦笑する。  別れた後、彼は有名になった。とてもとても、有名になった。  テレビの音楽番組に良く出ている、らしい。新聞の番組欄でバンドの名前を良く見かけるから。  僕は、怖くてその番組を見れないままでいる。歌っている彼の姿を見てしまえば、未練がましく残っている彼の連絡先に電話をしてしまうだろうから。  聴くのは、歌声だけ。  それだけで良い。それだけで……僕が勝手に好きなだけで、良い。  きっと彼にはもう、新しいパートナーが居るだろう。もう手が届かなくなってしまった彼を応援することくらいしか、僕に出来ることは無い。  自宅に帰って、すぐにCDを聴こう。  そう思って駐車場の車に飛び乗り、気持ちを落ち着けようとラジオをつけた。  その時――。 「……あ」  流れてきた歌声に、僕はエンジンをかけたまま聴き入った。  彼だ。  彼の、柔らかい歌声――。  知らない曲だから、きっとさっき買ったCDの曲なのだろう。今日が発売日だから、きっと宣伝だ。  僕は歌詞に支配されてしまった。 心臓がばくばく鳴って、断片的にしか理解できなかったけど……。  迎えに行くよ  あの日の公園  雪  並んだ肩  大好きだよ  今も好きだよ  迎えに行くよ  もう一回  恋をしようよ  ああ、あの日の……別れた日のあの風景。  僕にしか分からない、あの冬の日だ……。  そんな言葉が散りばめてある。  涙が溢れて、正しく聴き取れないよ……。  僕は心を落ち着けてから、ハンドルを握って目的地をあの日の公園に変更した。  公園の駐車場に車を停めてから、急ぎ足で中のベンチに向かった。  誰も、居ない。  そう思って俯いたその時、後ろから背中をぎゅっと抱きしめられた。ああ、懐かしい匂い。すぐに分かった。僕の、大好きな人――。 「……迎えに来たよ」 「うん……」 「もう、離さないから」 「うん……顔見せて?」  彼は僕の前に回った。  二年前よりも、少し大人っぽくなったその顔を見て、僕はまた泣きそうになる。 「ちゃんと分かってた。俺のために別れるって言ったんだって。けどさ……ずっと忘れられなかった。ずっと、好きです」 「……ありがとう。僕も、ずっと……好き」 「……キスしたい」 「駄目だよ。誰が見てるか分からない」 「でも、したい」 「……僕の部屋で良ければ」 「……すげー、誘い文句」 「あ……」  思わず同時に吹き出した。  二年間の隙間が無かったみたいに、僕たちは笑い合う。  しばらく笑った後で、彼が真剣な表情で僕に言った。 「好きです。これから永遠にお付き合いしてください!」 「……でも」 「荷物になんか思わないから! 邪魔になんかならないから! 俺は、絶対にあんたを幸せにする!」  本当に彼は男前だ。  年下とは思えない。強くて逞しい……僕の好きな人だ。  僕は、照れながら彼に言った。 「……こちらこそ、よろしくお願いします」 「……っ!」  正面から抱きついてこようとする彼を僕は必死で止めた。 「馬鹿! けち!」 「だから、僕のマンションに行こう?」 「……分かった。覚悟しておくように」  どんな覚悟が必要になるんだろう。ま、良いか。  僕たちは肩を並べて歩き出す。  同じ歩幅で、ゆっくりと。 「今日、冷えるな」 「あ……」  顔に冷たいものが当たった。雪だ。  別れの日を思い出して切なくなる。  そんな僕を見て思うことがあったのだろう。彼は僕の右手を強引に取って自分のコートのポケットに突っ込んだ。 「あ、ちょっと!」 「このくらいセーフ、セーフ」  大好きだ。  もう、離れたくない。  そう思って、僕は彼の指に自分の指をそっと絡めた。 「ふふ」  彼は笑いながら、僕の手をぎゅっと握り返してくれた。  久しぶりに感じる彼の体温はとても熱い。  もう、誰にも、渡せない――。  僕は少しだけ彼に寄り添った。  次の彼の歌詞は、失恋では無く甘い恋のものになるのかな。そんなことを考えながら、僕はポケットの中の温度をどきどきしながら感じていた。  また、僕を選んでくれてありがとう。  これから先、ずっとずっと、よろしくね。
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