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冬が明け、春に向かうさなかの、昼と夜の長さが等しくなる日。昼を司る太陽の男神ヒェリオと夜を司る月の女神チャリコを信仰するこの国では春の大祭が行われる。二柱の神に捧げ物をし、これから訪れる季節での実りを祈願する、一年に一度の祭りだ。 その祭りの最も盛り上がる場面が、《月の女神の踊り子(チャリコーラ)》による舞の奉納。十の頃の俺は、父とその舞を見た。薄く軽そうな衣装を翻し、装身具の触れ合う微かな音や足音すら演舞の一部として利用し、霞のような薄絹のショールを優美に操りながら、艶やかに踊る姿に目を奪われた。後になって思えばその頃にはもう母もなく父とふたり暮らしだったから、少しばかりの憧憬も含まれていたのかもしれない、とも思うのだが、あの日、確かに俺はチャリコーラの踊りに憧れた。その憧れが「俺もチャリコーラになってあの舞台で踊りたい」に変わるまで、さほどの時間はかからなかった。俺はあの踊りに目を奪われた時から今に至るまで、チャリコーラに心を奪われている。 ざわめきがそこかしこで起きている。女性たちはよく喋り、よく笑う、と言われることが往々にしてあるが、ここにいると本当にそう思う。けれど彼女たちのすごいところは喋っていても笑い転げていてもきちんと身体は仕事をしているところだ。話しながら、笑いながら。軽やかに、彼女たちは席の間を縫うように歩き回り、仕事をこなしてゆく。 踊り子の踊りを見たり、彼女らと話をしたりしながら食事ができる店は王都にもいくつかあり、この(トゥルクオイ)もその中の一軒。女社会の踊り子の世界で、男の俺を踊り子候補として受け入れて育ててくれた店はここしかなかった。とはいえ、一人前の踊り子として店に立てるようになっても俺の立ち位置は微妙なまま。女性同士のような気軽さで関わってもらえるわけでもなく、だからといって煙たがられるでもなく、当たり障りのない距離感が保たれている。だから俺は今も彼女たちの世間話や噂話に入り込まず、黙々とテーブル席の清掃をし、開店準備をしていた。 「——おはよう、みなさん!」 手のひらを打ち付ける音と良く通る声が、ざわめきを打ち破って響く。その声の主、この《トゥルクオイ》のオーナーであるミセス・ディオーペの姿を認めた店の踊り子たちがほとんど同じタイミングで「ごきげんよう、ミセス・ディオーペ」とあいさつを返す。俺もそれに倣ってあいさつを口にし、視線をそちらへ向ける。俺を含め、この店の踊り子たちは皆「そうしなさい」と最初にしつけられている。そうして向けた視線の先には、元踊り子で、今でも年齢不詳のスタイルを保つミセスと、若くて身なりの良い男がいた。 「レスティ、ちょっと来なさい。他の子たちは開店準備を続けて。今日の演出プランは昨日打ち合わせた通りでね」 ミセスに名を呼ばれて手招きされた俺は、掃除の手を止めてそちらへ向かう。ミセスと見知らぬ男、二対の目に凝視されていたたまれない気分になりながらその前に立つ。 「お呼びですか、ミセス」 「お客様にあいさつをしなさい」 「——失礼しました。俺はレスティ、と申します。ミスタ」 男にそう言って微笑みかけ一礼をする。胸に右手のひらを、背中に左手の甲を添えて、片足を一歩引いて頭を下げる、踊り子に特有の一礼の仕方で。 「旦那様。旦那様もご存じの通り、この子は男の踊り子ですが……」 「ええ。でも、私は彼がいい」 「……?」 チャリコーラの役目を源流に持つ踊り子の世界は女性社会だ。月の女神は、夜や女性を象徴する。故に、その踊り子は属性を合わせるため、原則として女性であることが求められてきた。男性の踊り子は記録上にも幾人か散見されるらしいが、女性ほどの華々しい活躍は記録にないし、男で現役の踊り子は俺が知る限り俺ひとりだけだ。 「レスティ、こちらは、」 「フィル。そう呼んでくれ」 フィル、と名乗った男は言いながら手を差し出した。握手を求められているのだろう、と理解して手を握ると、顔を凝視された。頭半分ほど背の高い彼にそうされると見下ろされているような心地がして落ち着かない。 「——この方は、アンタが欲しいんだってさ」 「……!?」 「どうか、私と一緒に。一目惚れなんだ」 そのまま握った手を持ち上げて手の甲に口づけようとしたフィルに気づいて、俺はその手を振り払った。 「な、な、な……!? ば、馬鹿な!?」 店の踊り子が、客に見初められることはままある。むしろ、チャリコーラやトップレベルの踊り子を目指さず、ほどほどに踊って賃金を稼ぎ、ゆくゆくは金持ちに見初められて玉の輿に、と思ってこの世界に入ってくる踊り子もそれなりにいるくらいなので、それ自体は珍しいことではない。ただ、男で愛想もない俺には関係のないことだと思っていた、が、物好きはどこにでも存在するらしい。 「っ、お断り、します……!」 自分は男で、相手も男。法に触れるわけではないし偏見もないが、それでも突拍子もない話であることには変わりがなかった。 「なぜ?」 気に入りの踊り子を客が手元に置くことを《買い入れ》と言うが、踊り子側にも拒否権がきちんと与えられている。本来ならば、店で話をしたり、食事をしたりしてお互いを理解し、お互いがお互いに対して手ごたえを持ってから契約が成立するものなのだが、俺はこのフィルと名乗った男と話したことも、もっと言うなら店で見かけたことすらなかった。相手の素性もちゃんとした名前も、好みのひとつも、どうして俺なのかすら知らない男からの申し出は受けられない。 「なぜ、もなにも。俺はアンタを何も知りませんし、俺は男ですし」 「ふむ」 男に問われて、思ったままを答える。その答えを聞いた男はわずかに口角を持ち上げて小さく首を傾げた。その彼の耳元で金製の耳飾りが品よく揺れて輝く。 「それに、俺は、まだ踊り子としてやりたいことがあります。だから」 十の頃の俺はチャリコーラに憧れた。チャリコーラになりたくて十五で踊り子の世界に足を踏み入れた。そして、俺はまだ、チャリコーラにはなっていない。 「レスティ、この方は……」 ミセス・ディオーペが何事かを言いかけたが男に止められる。「アンタにとっても悪い話じゃないよ」とだけ言って彼女は黙った。 「貴方が知っているかは分かりませんが、来年のチャリコーラはこの店、トゥルクオイの踊り子から選ばれます。俺にとってはきっと最初で最後のチャンスなんです」 「あぁ。そうだってね」 踊り子を抱える店はいくつかあって、その年ごとに決まった店からチャリコーラが輩出される。それは続けざまに同じ踊り子がチャリコーラに選ばれることがないように、だったり、小さな店の踊り子たちにも平等にチャンスが巡ってくるようにするためだったりという店同士の取り決めの結果であるらしい。そして、俺が踊り子として在籍するこの店トゥルクオイの踊り子は、先日終わったばかりの祭りの次の日から来年のチャリコーラ候補として選定を受ける立場となった。 「チャリコーラになるためには、太陽神ヒェリオの代理人とされる王に認められた、潔白な者でなければなりません。ですから、俺は今、誰かのものになるわけにはいきません」 一番の理由を述べると、男は小さく笑った。 「君がチャリコーラにかける熱意はよく分かったよ。私も、君がチャリコーラとして祭りの舞台に立つのを見てみたい」 「それなら……」 「だから、どうだろう。将来的に君を買う者かその候補として君の時間を少しもらう、というのは。もちろん君の夢の邪魔はしない」 具体的に言うと、時々君と食事がしたい、と男は言った。 「食事……ですか?」 「そう。食事をして、会話をして、君の人となりをもっと知りたい。君が嫌だということはしないし、もしそれが信用できない、というなら誓約書を書こう。君がチャリコーラの座に夢中であるように、私は君に夢中なんだ」 猛烈に推してくる男への返答に困って、ミセス・ディオーペの方へ視線を向けると、彼女は目線で「うなずきなさい」と訴えてきた。この男、どうやら相当な上客であるらしい。 「……誓約書、は、いりません。ただ、チャリコーラ候補のひとりだと思って扱ってくれれば、それで」 「それは、了承の意味にとっていいんだろうか」 「俺で良ければ。それから、食事するだけでいいのなら」 もちろん、と笑顔で手のひらを差し出してきた男の手を恐る恐る取る。彼——フィル、は、その手を取って握手をしただけで、初対面の時のように手の甲に口づけようとする仕草すら見せなかった。
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