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あれからひと月が経った今日も店は盛況だった。ステージを終えたか出番がまだ先にある踊り子たちが、客にお酌をしたり、談笑しながら食事を摂ったりしている中、俺はその客たちが注文した料理や飲み物を給仕するべく、店内を忙しく動き回っていた。
男の踊り子を話し相手にしようという需要はほとんどない。気紛れに面白がって呼び止める者や披露した踊りへの感想が投げかけられるくらいで、ステージにあがっていない時の俺はただの給仕係に徹している。
「や」
入口にほど近い席への給仕を終えて厨房に戻ろうとした俺に声がかかる。視線を向ければ、そこにはフィルさんがいた。
「……どうも。ようこそいらっしゃいました」
「君のステージはこれから?」
戸惑いながら軽く一礼しただけの俺の無作法を気にした様子もなく彼が微笑む。「そうですね」と答えれば、「間に合ってよかった」と嬉しそうに言われた。
あの日以降、フィルさんは俺の客になった。週に一度くらいの頻度でやってきて、俺の踊りを見て、俺と一緒に食事をしていく。
「じゃあ、とりあえずラナ酒だけで。食事は君のステージが終わってからにするよ」
ステージになるべく近い席がいいと言う男を席に通して注文を聞くと、そう返された。ステージの直前には食事をしないことにしている俺に合わせているらしい。
「わかった」
本来、固定客として受け持った客には敬称として「様」をつけるべきだし、敬語を使うべきで、当初は俺もフィルさんをフィル様、と呼んではいたし、苦手ながらに敬語も使っていた。けれど、初回の会食で「様、ってなんか他人行儀じゃない?」とフィルさんが言ったおかげで「様」が「さん」に変わり、二回目の会食で「やっぱりさ、君、敬語が似合わないなって思うんだよね」とのたまうフィルさんに最低限以外の敬語を禁止されてしまった。本人が言うには「その「フィルさん」ってのもどうにかならない?」とのことなので、ゆくゆくは呼び捨てになるのだろう。こちらとしてもおそりには並々ならぬプライドとこだわりがあっても、接客に対しては「そこは決まりなので」と突っぱねるほどの信条もないから彼の言いなりだ。
「はい、ラナ酒」
厨房から受け取ってきたラナ酒をフィルさんのテーブルに運んで置く。その動きで柔らかな金色の液体がゆらりと揺れた。
「ありがとう。……ってもう行くの?」
「出番だから、そろそろ支度しないと」
いまステージに上がっているのは一番人気の踊り子ミメッティ。今日のプログラムだと俺の出番は彼女の2つ後だから、そろそろステージに上がる支度をしなければならない頃合いだった。女性陣と違って化粧がほとんど必要ないとはいえ、あまり遅くなると店お抱えのお針子たちに怒られる。
頑張れ、と無邪気な顔で送り出すフィルさんと別れて控えに引っ込めば、あれよあれよという間に給仕の格好の上にあれこれと装飾品を足され、肌の色を良く見せるための薄化粧を施され、乱れた髪を高く結い直され、踊り子としての俺に仕立て直されていく。
「——曲は『ユレクス・カプリ・ゾム』で」
楽士たちの方へ曲名を告げれば、リーダーが弓を掲げて承諾の意を示す。舞台は、揃った。俺の前に踊っていた娘が立ち去って無人になった半円形のステージに足を踏み入れる。
ステージの真ん中で、踊り子としての最敬礼を一度。顔を上げて客席を見れば、右手寄りの席に腰かけたままのフィルさんと目が合った。
『ユレクス・カプリ・ゾム』はひとりの浮気男を巡る、ふたりの女性の燃えるような嫉妬を表す楽曲で、速いテンポと重くて力強い旋律を特徴とする。俺はその曲に合わせて、踊りでふたりの女性の悋気を表現していく。
「——ッ!」
力強く最後の一歩を踏み込むと同時に曲が終わった。まばらな拍手を聞きながら上に掲げた右手を下ろし、わずかに乱れた息を整えながら客席にもう一度礼をしてステージを去る。これで今日の分のステージは終わりだ。一日に一度のステージでも手は抜かない。いつでも最上級の踊りを。それが踊り子としての俺のプライドだ。
「今日も格好良かったよ」
「どうも」
装飾を外してもらって、店での給仕に適う格好に戻された俺がフィルさんの席に向かうと、柔らかな笑顔で迎えられた。「良かったよ」と通りすがりに褒められたりすることはままあるのだが、こうやって面と向かって褒められることには慣れていないので、気恥ずかしくてどうしても不愛想な返答になってしまう。
「なにか食べますか?」
「それじゃあ頼もうかな。君の食べたいものを」
「…………はい」
まだ片手の数ほどしか会食をしていないし、店の外で食事をしたことはないのだが、この人はいつもそれしか言わない。美味しくなさそうに食べるわけでもないので食に興味がないことはないらしい、と思っているのだが。
「あの。俺の機嫌を取ってるつもりだったりします?」
「?」
なんとなく不快にさせてしまうのではないかと思って言えずにいたことを口にしてみると、男は首を傾げた。
「なにが?」
「いえ、いつも食事のメニューは俺にお任せ、って言うから……」
例えば俺に悪意があって、フィルさんを弄ぶだけ弄ぼうとしているような奴だったら、おすすめと称して高いものばかりを提供しようとするかもしれない。そんなことはないが、店と共謀してぼったくろうとしているかもしれない。そして、この人はそうされても気が付かなそうな人だということを、俺はこの数回の会食で理解してしまっていた。どこのお貴族様だか知らないが、少々危なっかしい、とも。
「トゥルクオイは良心的だし、どの料理も美味しいし。それに自分で選ぶとなると同じものばかり頼みがちになるからね。冒険をしたい、っていうのもあるかなあ」
というわけで、君のおすすめを。
そう言って甘く微笑まれたら、大抵の踊り子は胸を躍らせるのではないだろうか。この人は己の顔がそこそこに整っていることも、言動が柔らかく上品で人に受け入れられやすいことにも気が付いていない。
「っ、じゃ、じゃあ、なんか適当につまめるものを。酒はもう少し?」
「もらおうかな」
素性をきちんと知っているわけではないからなんとも言えないが、一般的には優良物件の部類に入りそうなこの男が、どうして俺なんかに執心しているのか。そう思いながら俺はわずかに赤らんだ顔を逸らして厨房へ足を向けた。
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