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ふと目が覚めた。天地の区別が上手くつけられなくて混乱する脳をどうにか回転させて、いま視界に入っている茶色いものが床面であり、踏み固められた地面であることを理解した。腕と足を動かそうとしたが、どうやら椅子かなにかに縛り付けられているらしく、手首と足首が痛んだのでやめた。 そもそも、俺はどうしてこんな倉庫のような場所で、こうして拘束されているのか。少しぼんやりする頭で思い出したのは、意識を失う直前までの記憶。景気付けに外で食べようと言ってくれたフィルと待ち合わせるため広場に出向いて、彼の到着を待っていたところまでは思い出せる。 ――その途中で、背後から腕が伸びてきて。 どうやらそのまま昏倒させられ連れ去られたらしい。 サクサクと地面を踏む音がいくつか聞こえて、ぎくりとする。両手足を拘束されて身動きが取れない今、正体不明の存在が間近にあるという状況は怖い。チャリコーラの最終選定を目前に控え、危険が及ぶかもしれないと警戒をしている今は特に。 「起きたか」 「起きたな」 こちらの様子をうかがっているのか、絞られた声が背後で聞こえる。声の主らは知らない男の声。わずかに間が開いたのち、片方が「起きました」と誰かに状況を報告する声が聞こえた。 「――そう。ありがとう」 その男の声に応えた声は女のもの。この声の主を俺は知っている。 「ごきげんよう、レスティ。ごめんなさいね、手荒なまねをして」 「……ミメッティ……」 言いながら俺の前に姿を見せた彼女は、もうひとりのチャリコーラ候補、ミメッティだった。 「こうでもしないと、外野がうるさくって。あたし、貴方と一度きちんとお話がしてみたかったの」 拉致しておいて、こんな風に拘束をしておいて「お話がしたいだけ」などという悠長な話ではないだろうということは察しがつく。けれど、そこに噛みついて彼女の機嫌を損ねればなにをされるか分からないというのもあって、悪態をつきたくなる口は閉ざした。 「話というのは他でもない、チャリコーラ候補のことよ。ねえ、貴方。あたしにチャリコーラの座を譲ってくださらない?」 「…………」 「だんまりじゃ分からないわ。ひとこと、「貴女にチャリコーラの座を譲る」と言うだけよ。そうして辞退するなら、貴方を自由にしてあげてもいいわ」 ミメッティは口元を扇で隠しながら、人受けの良さそうな和やかな言いぶりでそう口にしたが、俺に向ける視線は和やかとはほど遠い。彼女の側に控える男ふたりに至ってはにこりともせず俺を見下ろしていた。 「断る」 拒否を口にした途端、パン、と皮膚を打つ音がして、頬に痛みが走った。 「お願いではないのよ。男がチャリコーラになるなんて認めないわ」 認めていないのよ、と彼女が唸るように言う。 「貴方は生まれた瞬間からチャリコーラたる資格がないのよ」 「……それを言うなら、俺をこうしている時点でアンタにも資格はないな」 チャリコーラに求められる「潔白であること」の中には、人柄、身の潔さともうひとつ、非暴力的であることが必要だとされている。それを満たすのならば男であっても女であってもチャリコーラの候補にはなれる。チャリコーラの選定基準に性別は求められていないからだ。ただ、月の神チャリコが女神であるがゆえに、チャリコーラ、ひいてはその候補となりうる踊り子は女性の仕事でなければならないとする差別は存在している。 扇という道具を使ってではあるが俺の頬を叩いた彼女は「非暴力的である」という基準から逸脱している。それを指摘するとミメッティは再び俺の頬を張った。 「お前が話さなければいいだけのこと。ここにいるものはあたしがチャリコーラになることを望んでくださっている方々ですもの」 「――譲ろうが譲らまいが、俺は口封じに殺されるか、殺されなくとも話せない程度の状況にはされるんだろう?」 ミセスの前やトゥルクオイでチャリコーラ候補から下りることを宣言するのだと約束をしたところで、それが確実に守られる保証はない。むしろ逆にこんな状況に追い込まれて脅迫された、ミメッティはチャリコーラ候補にふさわしくない、と証言をされる可能性もある。それならばトゥルクオイに戻れないように、口を開けないようにしてしまう方が確実だろう、と自分が置かれている状況ながらに気づいてしまった。 「勘がいいのね、貴方」 ミメッティが嫣然と微笑む。その言い方からして、彼女がこちらを見下していると実感する。異端の踊り子として見下されるのにも笑い者にされるのにも慣れている俺は、怒る感情も持たなかったが。 「俺が消えたら得をするのはお前しかいない、と誰もが分かっている今の状況でこんなことをすれば、疑われるのはお前だ。今すぐに解放してくれるなら、黙っていてもいい」 「チャリコーラの座を譲るというのなら、すぐにでも」 「譲らない。欲しいのなら平等に御前選定で競って奪い取るべきだろう」 言うと、ミメッティが笑い出す。ひとしきり笑った彼女が、「平等?」と鼻白む。 「貴方がそれを言うの、レスティ。王家の後ろ盾がある、貴方が?」 「王家? 後ろ盾? ……なんのことだ?」 俺自身も、俺の両親も王家などというものとは無縁の生を送ってきた。母親は移民だったとかで、俺が物心つくより前に郷里に戻され生き別れたし、踊り子としてトゥルクオイに籍を置くようになってからは父親とも連絡を取っていないので、いまどこでどうしているのかも知らない、が、どちらにしても王家だとか王族だとかいうものには縁などありはしない。 「チャリコーラになろうがなるまいが、貴方にはラフィスラ第三王子の側妻の座が約束されているくせに……!」 「ラフィスラ……? ……フィル……?」 頭の中で耳慣れない《ラフィスラ》という名前と自分に関係のありそうな人物の記憶を転がして、思いついた人物はひとりだけ。しかも「なんとなく音の響きが似ている」というだけで確証はない。俺はフィルの本名も正確な身分もなにも聞かされていない。本人が「今は秘密」と言い張って、ミセス・ディオーペに口止めをしているからでもあるし、頑なに話そうとしないせいでもある。ただ、身なりや所作、言葉遣いや一度招かれた屋敷の様子から相当に裕福な家柄だろうとは推測をしていた。まさか第三王子だとは思ってもみなかったし、あまり実感もないが。 「ミセスが話しているのを聞いたのよ。ラフィスラ・ヴィシュ・ヒェリオス。その名を持つのは王家の第三王子しかいないわ」 「俺は知らない。何かの間違いだろう」 「……茶番をひっくり返すには、こうするしかないの」 「違う、そんな優遇は受けていない」 俺は固定客のひとりとして適切な距離でフィルと会っていたし、彼もチャリコーラになりたいと言う俺の夢を理解してくれていた。今の今まで気づきもしなかったように、フィルが本当に王子だと言うなら、王族としての権威を振りかざしたこともなければ、俺のことに関して余計な手助けをされたという実感もない。けれど、本当は俺の知らないところでフィル――ミメッティの言い分が本当ならばラフィスラ第三王子、が手を回していたのかもしれない、という不安は覚えた。「君なら間違いなくチャリコーラになれるよ」と言っていたあの言葉が、激励ではなく確定事項だったとしたら。 「お前はずるいわ! 媚びを売らなくても、男の踊り子という物珍しさだけで人が集まってくる! あたしは努力して今の地位を得たというのに、お前はなにもしなくても王家が付いてくるし、そうして恵まれていることに気づきもしないのよ! そういうところ、本当に腹が立つわ!」 感情的になったミメッティが扇ではなく平手で頬を叩く。両手足を拘束されているゆえにその衝撃をうまく逃がせず、口の中に鉄の味が広がった。ラフィスラ王子に手助けをされていたことが事実なら、俺はどう身を振るべきなのだろう。でも。 「俺が恵まれているかどうかはしらないが、お前のその立場はお前が自分で選んだ生き方だろう?」 「っ」 それが違うことは分かる。俺はミメッティのように人気がある踊り子ではない。ただただ踊り続けていたいだけで。 「俺は確かに、チャリコーラになることを夢としてここまで来たけれど、踊れるのならどこでもいいし、踊れるならば死んでもいい。それ以外に興味はないよ」 怒りの表情に目を見開いたミメッティが、脇に控えていた男の手から小ぶりのナイフを取り上げる。身動きが取れないながらに身を捩って、振りかざされた刃を避けるが、左の二の腕に痛みを感じた。 「それならば、もう二度と踊れないようにしてやるわ……!」 ミメッティは怒りを通り越したのか、泣きそうな顔をしてナイフを掲げた。鈍く光る刃が振り下ろされようと、して。 「抵抗するな、軍警だ!」 大きな破壊音と大きな声と、慌ただしくなだれ込んでくる複数の足音。彼女は掲げていたナイフを取り落とし、絶望の顔をした。 ミメッティの協力者だという男たちが、駆け寄った軍警に制圧され床に組み敷かれる。ナイフを手放したミメッティ本人は無抵抗のまま手首を背に回す格好で押さえられ、制圧は一瞬で完了した。 「——レスティ!!」 ミメッティたちは取り押さえられたものの未だに拘束されたままの俺の背後に迫る足音と声。振り向かずとも誰かは分かった。 「……ラフィスラ第三王子……」 「…………」 その呟きには答えず、ラフィスラ王子は縄を解いて俺を立たせてくれた。 「怪我は……深くないね」 左腕の切り傷の具合を見て彼が安堵の表情を見せる。 「……お手数をおかけして、すみません」 恐る恐る声にした言葉で王子はおおよそを察したらしく、困り顔を浮かべた。しかし、俺の投げかけた名を否定はしなかった。 「今まで通りでいてくれると嬉しいけどね。……でも、ともかく君が無事で良かった」 一度だけ許して欲しい、と言いながら、彼はそっと俺を抱きしめた。まるでガラス細工に触れるかのように優しく、慎重に。
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