午前八時の甲羅干し

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午前八時の甲羅干し

 ぼくは、学校を退職二ヶ月前に辞めて、退職金と年金をもらいながら、暮らしている。六十五で年金が出るまで、普通の人なら、給料は減るといえども、再就職の道があるが、パーキンソン病という難病にかかったぼくには、あと五年教師の激務に耐えられるわけもなく、寝たきりの生活を余儀なくしている。  妻と娘が二年前に出て行った。家の周囲は森を開いた新興住宅地ということもあり、もともと静かだったが、ますます静かになった。朝の小鳥のさえずり、昼間の家を建てる音、夜の遠くのバイパスの車のかすかな音ぐらいしか聴こえない。  4LDKの家は、一人きりで住むには広過ぎる。床に少しずつほこりが溜まり、古びたスリッパが細かい傷をつけていった。ピカピカに光り輝いていたキッチンのシンクも茶渋で黒ずんでしまった。  お風呂掃除やトイレ掃除など自分でやったことが今までなかったので、やり方がわからず1度もやらなかった。  トイレはずっと便秘気味で1ヵ月に1度ぐらいしか便通がなかった。そのため、そんなに汚れずに済んだ。  お風呂もだんだん入るのが億劫になり、2日にいっぺんになり、3日にいっぺんになり、ついには1週間にいっぺんになった。そのため、そんなに汚れずに済んだ。  それでも、トイレの便器には少しずつ黒い汚れがつき始めた。また、お風呂には湯垢がつき、入ったときに気になりだした。トイレは、トイレットペーパーで拭き取ったが.すぐまた黒いのがついた。お風呂はお湯を抜くとき、ささっとスポンジで吹いたが、すぐまた池の中の苔のようになった。  お風呂が1週間ごとになり、洗濯も1週間にいっぺんになった。洗濯物を出さないように、着るものは毎日同じだった。夜寝るときも、寝間着は着ないようにした。  冬の寒さに耐えられずに、お風呂を1週間にいっぺんにしたのだが、夏を迎えるにあたって限界がやってきた。1週間同じシャツを着ていると、汗でシャツが黄色く汚れてしまうと言うことに気がついた。どうしても我慢できない時は、シャツを脱いでタオルで背中を擦った。タオルも洗いたくない時は、そのまま体をタンスに擦りつけた。1週間の洗濯物は、シャツ1枚、パンツ1枚、Tシャツ1枚、靴下1足、タオル2枚だけで、物干し台に1週間に1日だけ、それらが干されるだけだった。  ベッドは汗でぐしょぐしょになり、寝ているのが不快だった。それでも布団を干すこともできずまるで水につかっているような感じだった。  シーツだけいちど洗濯してみたが、無駄な努力だった。夜普通なら寝床に入ってほっとするものだが、起きている時よりかえって気持ち悪くて寝れなかった。仕方がないので、寝る向きを変えて汗で濡れてない部分で寝ようとしたが、向きを変えるとかえって寝れなかった。  月に1度病院にだけは弟が車をレンタルしてくれて連れてってくれた。その時弟と一緒に暮らしている母もついてきてくれた。  その数少ない外出の機会も、体が動かないことを理由に嫌がっていた。母は、車に乗ってしまえば動かなくても連れてってくれるのだからと何とか病院にいかせようとした。しかし、行くギリギリまで携帯で行く行かないと、迷っていた。薬が切れてしまえば、本当に動けなくなるので、弟母母も病院だけは行かなくてはと言う考えだった。  病院に行っても、最初の頃は自分で会計をして自分で薬をもらいに行っていたが、次第に会計も薬をもらうのも.弟任せになってしまった。  病院の待合でいつも小一時間は待つので、最初の頃は弟はその間図書館に行って時間をつぶしていたが、母が付き添うようになってからは一緒に待ってくれるようになった。  そもそも母は90近くで足が悪く、弟が一緒に住んで面倒を見ている。そんな母に面倒を見てもらうのは、本当に心苦しい。  母は血圧が高く、階段や上り坂では息がハァハァと切れて、見ていてもかわいそうだ。それなのにこんな私のために、下着やら服やらを自分のアパートの近くのパシオスと言う店で買ってくる。手で荷物が持てないので、リュックに背負って持ってきてくれる。買ってきてくれても使うものは1枚しかないので、結果大量に下着や服が押し入れの中に残る。  6月の通院の日、今まで行く行かないで迷っていても、最終的には車に乗って行けていたのに、ついに当日キャンセルをしなくてはならないことがあった。  その日はいつも便秘で半月位、大便が出ないのに、珍しく朝から便意を催していた。母から電話で近くまで来ていると伝えてくる頃、トイレに入った。いつもは水道管が詰まる位に、硬くて長い便が出るのに、その日は出そうで出ない感じが続いて、拭いても拭いても次から次へと. ちょっとずつ便が漏れた。  母が玄関のチャイムを鳴らした時も、まさにその最中で、パンツが汚れるのでパンツを下ろした状態で玄関に出た。それでも母は何とかズボンを履かせて病院に連れて行こうとしたが、さすがにこの状態では車にさえ乗れない。パンツにトイレットペーパーをシートのようにして大便が漏れても大丈夫なようにして、必死の思いで病院に電話をして、薬のためにキャンセルはできないので日程を変えた。弟がトイレットペーパーと下痢止めの薬と弁当を買いに行ってくれた。私は下の和室で、母の買ってくれた厚手の毛布を畳の上に引きながら、漏れた大便で汚れたパンツをはいたままで横になって弟の帰りを待った。  「もう1人じゃ暮らしていけないよ。入院させてください。」  本当は施設に入りたいが、そこまで母の面倒になるのは悪いので、せめて入院だけでもとお願いした。病院にキャンセルの電話をし、次の週の水曜日に予約を入れ、次回は入院を担当にお願いすることにした。  水曜日がやってきた。暑さと極度の心配で憔悴しきった私はやっとの思いで迎えに来た弟の車に乗った。フラフラしてようやく待合の廊下にたどり着いた。糖尿の検査の採血をするともう何も栄養が残っていないような気がした。ようやく名前が呼ばれ母は状況説明した。深刻な状況を伝わらなかった。体の動きは結構いいですねと言う。担当医の黒野さんも施設に入るんだまだ若すぎると言った。自宅で1人でやっていくのならヘルパーさんを頼んで助けてもらうのが1番だと言う意見を言った。
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