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 日は高く上っていたけれど、暑いというよりは温かい程度で、ツムギはベンチに座り、スマートフォンで音楽を聴いていた。それは後任の魔璃亜が出した新曲で、ツムギが歌うよりもずっと伸びが良く、音程もリズムも上手い。けれどあの頃、ツムギを熱くしてくれたものはそこには感じられなかった。  公園の入口脇にタクシーが停まったのが見えた。下りてきたのは高そうな仕立てのチェックのスーツを着た彼だ。 「久しぶり、だね」 「もう新居の方、落ち着きました?」 「あ? ああ。全然片付かないよ。新しい魔璃亜のバックアップをしなきゃならなくて……こっちも色々大変でね」  彼は座ろうとはしない。一度腕時計を見たが、あの頃にはそんなものしていなかった。その左手の薬指にはシンプルだけれどリングが光っている。 「今日は契約解除、の話でしたっけ」 「スポンサーから幾つか話があったけれど、後任の子が上手くやってくれているし、違約金とか、そういった話はしない方向でいこうということになった。まあ突然引退を発表した時はどうしようかと思ったけれど、みんな忙しすぎて気持ちの方までフォローできてなかったんだよな。もっと僕が目を向けていればと思ったけれど、今更言っても遅いよね。悪かった」 「謝罪しに来たんですか」 「魔璃亜を世に出してくれたのは君だ。だから僕も、うちの他のスタッフも感謝してる。ただそれを台無しにしてしまいそうになったのも君だ。付け上がったんだとか、天狗になってたんだとか、色々言ってる人間もいる。記者が家に来たりもしたと聞いた。迷惑を掛けたね」  この一月ばかり、外にアパートを借りてそっちで暮らしているのはそういう事情もある。 「迷惑はお互い様、でしたから」 「そうか。そう言ってくれるなら、まあ、両成敗ということで」  色々とツムギの気持ちを気遣ってくれているのがよく分かった。それなのにどうして肝心のツムギの気持ちには気づかないのだろう。 「引退の理由を聞く気はないけど、他に何かやりたいこととか見つかった?」 「ちょっとのんびりしたら、探そうかなって」 「そっか」 「わたしの方も一つだけ、いいですか?」 「ああ」 「引き留めようとか、考えなかったんですか?」  マネージャーからは何度も連絡があった。ツムギも最初の頃は色々と言われるのを覚悟した。けれど電話で針元さんが確認してきたのはツムギが無事かどうか、体に異常があったりしないかどうか、だけだった。 「そんな簡単に辞めるって言い出す人じゃないことは、分かってたから。それに一応僕自身も、似たような決断をしたことがあったしね」  声優を引退する。  そう彼が決めた時の気持ちはツムギには分からない。続けていく選択だって出来ただろうに、それでも諦める、自分からその列車を降りるというのは、どんな気分なんだろう。 「辞めた時はね、少しくらいは自分だって必要とされていたと思っていたところがあったんだ。けど、代わりは沢山いて、特別じゃなかったから誰も何も言わなかったんだなって分かって、寧ろすっきりしたというか、ああやっぱり才能っていうのはごく一部の人たちにしか与えられないものなんだなって身に沁みたよ」  ツムギの手を離れた魔璃亜だって、もう立派に後任の誰かが演じている。  気を抜けばいつだって背後に新しい代役がいる世界だ。  そういう息苦しさを、ツムギよりもずっと長い時間耐えてきた彼の言葉は、ツムギが思っていた以上にずっしりとお腹の奥まで響いた。 「もう、大丈夫です」 「ん?」 「お時間取らせてすみません。今日は色々聞けてよかったです。ありがとうございました」  ツムギはベンチから立ち上がり、頭を下げる。長く伸ばした髪は後ろで一つに括っていたけれど、それがだらりと垂れ下がったのが分かった。 「いや、こちらこそ。正式な契約解除の書類は送るから、サインをして返してくれればいい。あと、退職金というか、引退発表をした日までの給料はちゃんと払うように言ってあるから、安心して」 「別によかったのに」 「こういうことをきちんとするのが社会人だよ」  そう言って先輩は笑った。それはあの日、ツムギに声を掛けてきた日に「飯は食えてないけど、楽しんでる」と言った彼の表情を思い出させるものだった。 「じゃあ、これで」 「うん」  そんな別れの言葉で、針元はツムギの前から離れていく。 「あの、もうひとつだけ」 「ん? 何?」 「先輩の好みの髪型にしたの、気づいてました?」 「え?」  ツムギは思い切り笑顔を浮かべ、それから走って彼の横をすり抜け、公園を出て行った。(了)
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