六話 前編

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六話 前編

 季節はあっという間に過ぎていく。  気づけば五月すらとうに過ぎ──響介は中間テストの成績のあまりの悪さに、白目を剥きながら頭を抱える羽目になり──六月下旬。  彼は期末テストを控えて、さらに重たくなった頭を机に押しつけて、突っ伏す事態になっていた。 「響介、大丈夫?」  前方から律の声がかかる。四月の後半に席替えを終えて、偶然にも響介と律は前後の席になっていた。  窓際の前から二番目が律、そして三番目が響介だ。窓際は一般的には“当たりの席”と呼ばれる位置だが、席の当たり外れなんか、今の響介にはどうでもいいことだった。 「大丈夫……じゃ、ない、かも……」  弱々しく返事を濁しながらも、響介ははっきりと絶望感を抱いていた。大丈夫じゃない、どころではない。  彼はまだ中学の復習レベルの内容が大半を締めているはずの、一学期中間テストですら赤点ギリギリの点数だったのだ。  一学期は中間テストの後から、急に新しく学ぶことが増え、途端に勉強が難しくなった。次は本当に全教科を赤点にしてしまうかもしれない。  万が一、期末テストで赤点を取ってしまったら……待ち構えているのは、夏休みの補習である。その上宿題も出るというのに、補習なんかになってしまったら、アルバイトどころか音楽活動をする暇もなくなってしまう。意地でも赤点は免れたかった。  しかし──響介は顔を少し上げて、自分のノートへと目をやって、それからやはりまた突っ伏した。  そもそも授業内容のまとめすら、てんでなっていないのだ。前の授業が理解しきれていないまま、授業の方がどんどん先へと進んでしまう。  自宅で復習をしてなんとか追いつこうとしているものの、そうしているうちにも授業はさらに進んでいく。響介は置いていかれる一方だった。 「えっと……響介。僕、教えようか? 今やってるの、数学だよね」  律は心配そうに眉を下げて、響介の顔を覗き込んだ。  もう放課後だというのに、彼は残って復習している響介を、わざわざ待ってくれている。それだけでも有難いのに、教えてもらうのは流石に申し訳がない。 「いや、やっぱ大丈夫。多分……なんとかなるから。律は先に帰ってくれよ。俺、もう少し残っていくからさ」  あからさまな作り笑いだったが、律は納得した様子で頷いた。席を離れていく律の背中を眺めながら、響介は不甲斐なさに目頭を熱くさせた。  律にはただでさえ、音楽のことも一から教わっているのだ。楽譜もまともに読めず、音楽記号が何なのかすらわからない響介に、律は毎日のように昼休みや放課後の時間を使って一から付き合ってくれている。  その内容は、音階・音程・和音の種類、調判定、楽語などの基礎的な音楽知識や、音楽史の解説に加えて、参考になる別ジャンルの音楽についての話まで、様々だ。何もかも彼から教わることだらけで、あまりにも後ろめたかった。  熱くなった目頭を、窓から入ってきた初夏の風がひゅうと冷やしていく。 「はぁ……」  響介は思わずため息をついた。重くなった胸中から、少しでも苦心を吐き出そうとしてついた息が、却って響介の周りの空気も重くしてしまうようだった。  どうやら天候すらそんな彼の気持ちを察したらしい。梅雨の曇り空がぽつぽつと雨を落とし始めたので、響介は席に座ったまま手を伸ばし、気だるそうに窓を閉めた。 「なぁにため息なんかついてんだよ、成谷」  湿気た空気を吹き飛ばすような、快活な声がかかった。響介は振り向いた。 「沢根? お前、残ってたのか?」  沢根は相変わらず軽薄そうな笑みを浮かべて、響介のことを見下ろしていた。 「あぁ。誰かさんが泣きべそかいてっから、つい心配になってさ」  言いながら、沢根は律の席の椅子を引っ張り出し、そのまま背もたれに手を組むようにして座ってしまった。 「そこ、律の席だぞ」と響介が思わず口を挟むと、沢根は笑いながら「あいつはもう帰っただろ?」と手を振ってみせた。 「それより勉強、詰まってんだろ。教えてやるから見せてみろよ」  沢根はまるで当然そうにそう言うので、響介は却って驚いた。慌てて作り笑いを見せる。 「いいって。このくらい自分で……」 「出来てねえだろ。お前の顔見りゃわかるぜ。いいからノート見せてみろって」  沢根の顔から笑みが消えた。彼は真剣だった。そのあまりの気迫と強引さに、響介は慌てて支離滅裂の数学ノートを差し出した。  ノートを一瞬見ただけで響介の学力を察したらしい。沢根は「あちゃあ」と声を漏らした。 「こりゃまずいな。解き方わかんねえのに、とりあえず板書をそのまま写しただけって感じだ。中学の基礎問題からやり直した方が早そうだな」  直球の発言だったが、まるで沢根の言う通りで、響介はぐうの音も出なかった。  彼にとって、数学は中学の頃から苦手な科目だ。教師が何を説明しているのか、授業が何を進行しているのかが全く理解できず、ひたすら黒板の文字を写しながら唸ることしかできなかった。  それでも中間テストで赤点を免れたのは、数学教師が文章問題でオマケの点数をくれたからだ。あのオマケ点がなければ、響介は間違いなく赤点になっていた。数学は期末テストにおいて、響介の最も高い壁だった。 「うう……けど、中学基礎からやり直したら、とんでもない量にならないか? 期末テストまでもう時間が……」 「そこは大丈夫だぜ。俺はこう見えて数学には自信あるんだ。効率良く覚える方法を知ってっからさ」  不安に駆られる響介に、沢根は得意げに笑ってみせた。頼り甲斐があるのは嬉しいが、やはり人にばかり頼るのはなんとなく申し訳がない。 「いやあ、そういうの、教えてくれんのは有難いけど……」  響介は思わずまた遠慮をしてしまった。すると沢根はやはりまた笑うのをやめ、真剣な目つきへと変わった。 「成谷。お前、バイトの件、やるって言ったよな?」 「うっ」  響介は反射的に身構えた。彼の言う通り、遠慮をしているどころではなかった。  それは以前より沢根から誘われていた、夏休みの観光地での泊まり込みアルバイトの話だった。 「補習になったらバイトどころじゃなくなるだろ。前にも言ったけど、あそこ俺の伯父さんの知り合いの店なんだって。今更反故にされたら困るぜ?」 「た、確かに……」  響介は律と本格的に音楽活動を始めるにあたり、沢根にあのアルバイトの件を、やると伝えていた。  音楽活動にはやはり資金が必要不可欠だ。楽器に教材に備品にと、とにかくお金がかかる。アルバイト申請も委員長に手伝ってもらい、すでに学校の許可も下りていた。ただし、それは期末テストを乗り越えることが前提の条件だ。 「そういうことだから、無理矢理にでも教えさせてもらうぜ。教えてもらってるからって気に病むのもやめだ。このぶんの借りはバイトの方で返してくれよ」 「えっ、もしかして給料何割か取られたりするのか⁉︎」  響介は真面目に怯えたが、沢根は本心から愉快そうに笑い飛ばした。 「おいおい。俺がわざわざ金に困ってるやつからふんだくるような甲斐性無しに見えるか? よく働いて売り上げ伸ばしてくれってことだよ」  それもそうだ。響介は胸を撫で下ろした。だがそう思うと同時に、今度は別の疑問が頭の中に浮かんできた。 「なるほど……そういや思ったんだけど。沢根って、やけにその伯父さんの知り合いの店……っていうか、伯父さんのことに拘ってるよな。意外と親戚を気にするタイプなのか?」 「意外とって何だよ。まあ……そうだな。伯父さんにはかなり世話になってるっつーか……いや、“成谷になら”言ってもいいかな」  どうやら沢根側にも事情があるようだ。響介は無意識に背筋を正した。 「俺、結構前から伯父さんと伯母さん夫婦のとこで暮らしてんだ。俺には伯父さん達がもう、家族同然なんだよ」  家族同然という言葉に、響介はやはり引っかかりをおぼえた。それなら彼の実の親は、一体どこでどうしているのだろう。  しかしその疑問をぽんと口に出してしまうほど、響介は無神経ではなかった。自分の家庭環境だって、他人事とは言い難い状況なのだ。  家の事情に勝手に口を出されたり、気を遣われたりするのは嫌だ。そのことは響介が一番よく知っていた。 「そういうことか。じゃあ俺もバイトの件、頑張んないとだな」  響介が腕を組んで笑みを作ると、沢根も悪戯っぽく歯を見せて笑い返した。 「おう。つーわけで一旦そのノートは閉じろ。新しく一からまとめ直すぜ」 「えっ⁉︎ 一からやり直すの⁉︎」  響介は絶句した。沢根は確かにいい奴であることは間違いないが、時折彼の大胆な言動は、常人を逸しているように感じられた。  通学路の途中、アパートへの帰路を大きく逸れた二人は、近所の大型ショッピングモールへと寄っていた。  響介はあまり訪れることの少ない場所だが、地元住民には馴染みの深い商業施設だ。店内はそこそこ混み合っており、中には制服姿のまま寄り道をしている他校生の姿もあった。  施設の中にはさまざまな店舗が並んでおり、二人はその中の格安雑貨店へと入っていった。新しいノートを買うと、その後はそのまま真っ直ぐに隣のコーヒー店へ向かう。  沢根は慣れた様子でコーヒー店へと入って行ったが、響介は店の大人びた雰囲気に僅かに気怖じしていた。  既に注文カウンターの前に立っていた沢根に手を招かれ、響介は慌てて彼の横へと並ぶ。彼らは帰りがけにこのコーヒー店に寄り、勉強会をしてから帰宅する予定だった。  もちろんこれは沢根の提案だ。彼曰く、勉強はいかにもな雰囲気の教室や自宅より、こういった洒落た店の空気の方が捗るのだという。信憑性は定かではないが、響介も今時のコーヒー店とやらには興味があった。  まずはお手本、と言わんばかりに沢根は自分のドリンクを注文した。 「バニラクリームフラペチーノのトールサイズエクストラホイップにエクストラキャラメルソースホワイトモカシロップの追加とブレベミルクライトアイスに変更で」 「えっ……ええっ⁉︎」  響介は沢根の顔を二度見した。彼はただでさえ横文字には疎かったが、沢根の長々とした注文は、もはや魔法の呪文を唱えているようにしか聞こえなかった。  店員は「かしこまりました!」と明るい笑顔で答えた。どうやら店員の方も、この呪文のような長い注文に慣れているようだ。  一体沢根は何を頼んだのだろうか。響介は狼狽えながらカウンターのメニューを覗き込んだが、結果として彼は更に混乱してしまう羽目になった。  このコーヒー店は、ドリンクの種類だけでもとんでもなく多かった。響介にはそもそも、フラペチーノというものが何なのかすらよくわからないのだ。  その上エスプレッソだのラテだのモカだのといった、恐らくコーヒーの仲間であろう横文字達の違いも殆どわからない。響介の頭が段々と真っ白になっていく。 「ええと……じゃあ俺も同じの……」 「待て、成谷。お前甘い物好きだったか?」  空っぽの思考で、とりあえず沢根と同じものを頼もうとした響介に、待ったの声が掛かった。 「うーん、特別好きってわけでもないかな」 「なら俺のカスタムは相当甘いから、同じやつは頼まない方がいいと思うぜ。奢るから、無難にアイスカフェラテとかにしとけよ」  言うが早いか、沢根は響介のぶんのアイスカフェラテをさっさと注文してしまい、そのまま支払いまで済ませてしまった。響介は奢られた肩身の狭さを感じる余裕すらなく、緊張で身体じゅうをカチカチにしながら彼の後をついて行った。  店内はシックなダークブラウンの内装に、やや暗めの照明が落ち着いた雰囲気を醸し出している。  二人はそれぞれ受け取ったドリンクを片手に、店の端のカウンター席へと並んで腰掛け、ノートを広げた。響介の方は、さっき買ったばかりの新品のノートだ。 「さて、勉強会開始といきますか。まずは成谷の苦手な基礎問題の復習からだな」 「ありがとう沢根。……お前、意外と字は下手なんだな」  響介は隣に広げられた沢根のノートが、案外雑然と書かれていたので、思わずそんなことを口走ってしまった。沢根は顔をしかめながら笑ってみせる。 「お前なぁ、教えてもらう立場でよくそんなこと言えんな? まあ俺のノートは読めなくていいぜ。口頭で説明するし、さっきも言ったけど数学には自信あるからな」  沢根は「こう見えて中間テストの数学の順位、学年二位なんだぜ」と響介にウインクして見せた。 「二位⁉︎」 「しーっ、声でけえよ」  響介は無自覚に大きな声をあげたので、沢根の手で口を塞がれてしまった。  共高のテスト順位は掲示板に貼り出されるようなことはないものの、試験成績表が一人一人に配られ、自分の順位だけはしっかりと思い知らされる仕組みになっている。  無論、響介は全ての教科において、下から数えた方が早いくらいの成績だった。彼には沢根が、急に雲の上の人のように思えてきてしまった。  しかし学年二位という好成績をとっておきながら、沢根はどこか腑に落ちない様子だった。 「ちなみに、あんま言いたかねえけど……一位が誰かの見当もついてる。多分、お前の前の席のアイツだ」  言いながら、沢根はさらに気落ちしていく様子で表情を曇らせていった。  響介は以前、彼が律のことを『あまり関わらない方がいい』と言っていたことを思い出した。律の方も確か、沢根のことを良いとは言えない意図で言及していたことがある。  二人の関係が良くないらしいことは、流石の響介も察していた。しかし今の響介にとっては、沢根は親しい友人で、律は音楽の道を共にする仲間だ。 「……沢根ってさ、もしかしてあいつのこと嫌いなのか?」  響介はあえて包み隠さず尋ねた。沢根は意外そうに目を見開いたものの、入学初日の昼休みの時のような、嫌な顔は見せなかった。むしろ気まずそうに笑みを作って、「成谷には敵わねえな」と呟いた。 「そうだな。回りくどいのもお前に悪いし、正直に言うよ。俺と椀田は、色々あって仲が悪いんだ。つってもガキの頃の話だぜ。最近のアイツのことは俺もよく知らねえ」 「やっぱり。なんか俺もそんな気はしてたんだ。もしかして、俺が最近律と仲良いのって、沢根からしたら嫌だったりするのか?」  響介は何の気なくそう尋ねたが、沢根は却って狼狽した様子で手を横に振った。 「おいおい、変な気を遣うなよ。っつーか気を遣うべきなのは俺の方だったな。板挟みにしちまって悪かった」 「別に板挟みってほど、俺は困ってないぜ? 沢根が嫌じゃねーなら別に良いんだけど」  アイスカフェラテを口に含みながら、響介は堂々と答えた。  自分で言った通り、彼は人間関係の機微には鈍い方だ。たとえ二人の間柄が悪かろうと、響介は本人達が嫌がらない限り、沢根とは友達でいたかったし、律とは仲間でありたかった。  初めてコーヒー店で飲んだカフェラテは、瓶詰めのインスタントコーヒーとは明らかに違う、良い香りがした。この芳しさを都会的と言うのだろうか。響介は呑気にもそんなことさえ考えていた。 「成谷の器がデカくて助かったよ。俺だってダチの交友関係に口を挟むほどガキじゃないぜ。成谷が“上手くいく”ならそれでいいんだ」  沢根も響介を真似するように、フラペチーノのカップを手に取った。一口吸うと、途端に彼の表情が綻んだ。 「はは、喋ってるうちに溶けちまってら。ライトアイスにしない方が良かったな、コレ」  ライトアイスとやらが何なのかはわからなかったが、沢根は白いフラペチーノを「ウマい」と呟きながら飲んでいる。本人曰く『相当甘い』という代物らしいが、あの呪文のような注文で出てきたドリンクは、どんな味がするのだろうか。響介はふと気になった。 「なあ沢根。ソレ……美味いのか?」 「おっ。一口飲んでみるか?」  沢根は躊躇なくカップを差し出した。響介は彼の言葉に甘えてストローに口をつける。  が、瞬間彼の舌には、練乳を直接塗りたくられたかのような強烈な甘さが広がった。 「甘っっっ‼︎‼︎」  あまりの甘さに飛び退く響介に、沢根は歯を見せてけらけらと笑った。 「だーから言ったろ。甘党カスタムだって」  勉強会は一時間ほど続いたが、沢根は思っていた以上に人に教える事が上手く、響介は驚くほど長時間の勉強が苦にならなかった。  沢根曰く、数学は基礎の応用、その応用、そのまた応用と順を追って続いていくため、どこかの基礎理解が躓くと、その後の応用問題も全てわからなくなってしまうのだという。次の試験範囲の、さらに基礎にあたる問題から、沢根は懇切丁寧に説明してくれた。  彼は時折冗談混じりに、響介の興味を惹く話題を混ぜながら話してくれるので、苦手なものはなかなか覚えられない響介でも楽しんで学ぶことができた。 「すげえな、沢根って。もう一学期中間の問題まで追いついた。教師とか向いてるんじゃないか? あのメガネの先生の話よりよっぽど面白いぜ」 「はは、確かに石上先生の授業は真面目っていうか、ちょっと堅物って感じだよな。向いてるって言われんのは嬉しいけど、俺はもう目指してる職業があるんだ」  響介は彼の意識の高さに驚いた。沢根は一年の一学期も終わらないうちに、既に自分の将来像や、志望大学まで決めていた。  彼は都内の国立大学に進学し、情報工学を専攻したいのだと言う。彼がコンピュータに詳しそうなことは知っていたが、まさかそこまでとは。  口をあんぐりと開けている響介に、沢根は慌ててかぶりを振った。 「いや、目標の話だぜ⁉︎ まだ受かるかどうかすらわかんねえし。けど、目標は高ければ高いほどいいからな」  白いフラペチーノを飲み干しながら、沢根はにかりと笑った。響介には甘すぎて劇物のように感じたそれを、ぺろりと平らげた彼は、やはり常人を逸している。  本人曰く、『脳を使うときには糖分が要る』とのことだが、それにしても糖の過剰摂取がすぎるのではなかろうか。響介は彼の健康が心配になりつつも、自分もアイスカフェラテを飲み干した。  勉強会の間に氷が溶けたのか、最後の一口はコーヒー風味の水になってしまっていた。
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