六話 後編

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六話 後編

 放課後の勉強会はその後も何日か続いた。  響介は最も苦手な数学を沢根の教えに頼ることで、自力での学習を得意科目に絞ることができた。特に現代文や日本史は、共高のレベルでは中の下程度とはいえ、響介にとっては得意科目だ。彼は確かな手応えを感じつつあった。  少しづつ自信を取り戻していたのが、表情にも出ていたのだろう。明くる日の朝、前の席から振り向いた律も、響介の顔を見て微笑んだ。 「響介。調子はどう? 前より良くなったように見えるけど」 「おう。まだ期末テストが大丈夫……かはわかんねーけど、前よりは大丈夫な感じだぜ」  響介も笑顔を見せた。が、その表情は話しながら次第に曇っていった。 「……っつーか俺が勉強遅れてるせいで、音楽の方……全然進んでなくて、ごめんな」 「そんな」  律は目を見開いた。そもそも自分から響介のことを支援したいと言い出したのだ。本当は勉強の方だって、全て自分が響介に教えたいくらいだった。  しかしどうにも彼とは学力に差がありすぎるらしい。律には響介が、どこをどう“できない”のかがわからなかった。  もどかしい気持ちが律の心中を渦巻いていく。彼はあえて見ぬふりをしていたが、響介が急に苦手科目の数学を克服できた理由は、あのザネリの協力があったからだと知っていた。  律は二人が時折、並んで帰っているところも見かけていた。あれがザネリにはできて、自分にはできないのだろうか。律の腹の底では、薄暗い影が色を濃くしていくようだった。  いいや。律は影を振り払うように、首を横に振った。  自分にだって何かできるはずだ。自分からパトロンになると言い出した以上、本来なら響介を全面的に支援するべきなのは、自分の方のはずだ。  先日は響介本人の後ろめたそうな遠慮に負けてしまったが、ザネリが彼に関わっていると知った以上、もう後に引きたくはなかった。それはもはや、ただの意地に近い感情だった。しかし律にとっては、意地でも何かを成したいと思うのは、久方ぶりのことだった。  律は響介に尋ねた。 「響介、やっぱり僕にも教えさせて。他に躓いてる教科はある?」 「えっ? ええと……」  やはり思った通り、彼は律に対し引け目を感じている様子だった。しかしザネリはこれを強引に突破して、彼を導いたのだ。  ザネリにできて、自分にできないことがあるものか。律は胸の奥が熱くなるのを感じながら、拳を握って続けた。 「音楽、やりたいんでしょ。学校の勉強なんかで突っかかってる場合じゃないよ。夏休みになったら、一緒にもっと音楽の勉強もしよう」  響介は息を呑んだ。律が自分にここまで積極的に関わろうとしてくるのは、流石に意外だった。いつもは物静かで落ち着いた印象を受ける彼だったが、今、その目は何かに燃えたぎっているようだった。 「そう、だな……それなら、英語かな。担任の先生にも心配されたけど、単語を覚えるどころか文法からさっぱりで……」 「わかった。任せて」  律は眉を釣り上げて、自信ありげに笑みを見せた。  英語は響介達の属している、一年二組の担任教師の担当科目だ。彼女は響介の英語の成績の悪さをよく知っており、彼のことを最も気にかけている人物である。そのことは律も知っていた。  ならば先生からも力を借りよう。律は頭の中で、響介の英語克服のための作戦を建て始めていた。  律はその日早速、英語の授業前の休憩時間に、担任教師の元へと向かった。  エレン先生の愛称で親しまれている江連永子(えづれながこ)先生は、おっとりとした雰囲気の優しい女性教師で、生徒からの人気も高い。他の生徒から話しかけられてしまうよりも先に、律は彼女に声をかけた。 「先生、すみません。少しお話できますか」 「あら。どうしたの? 椀田くん」  江連先生は少し驚いた顔をしてから答えた。普段は泰然として、常に一人で過ごすことが多い優等生の彼が、自ら話しかけてきたのは初めてだった。  律は真剣な顔を崩さないまま話を続けた。 「うちのクラスの成谷くんに、英語を教えたいと思っています。ほんの少しでも構わないので、先生にもご助力を仰ぎたいのですが、お時間を頂くことは可能でしょうか」  律の明瞭な態度に、江連先生はまたも驚いた。担任教師としては、自分のクラスの生徒同士が勉強を教えようとしてくれるのは、存分に嬉しいことだった。  そして律に対して、どこか孤独そうな印象を抱いていた彼女にとっては、彼が響介に対し、勉強を教えられるほどの関係であることも喜ばしかった。 「ええ。勿論よ。ホームルームの後でも大丈夫かしら?」 「はい。ありがとうございます」  まずは第一関門の突破だ。自ら教師へ話しかけるなんて、ずいぶんと久しぶりのことだった。律は緊張に胸を高鳴らせながら、彼女に頭を下げた。  律が考えた英語克服作戦は、基礎からやり直す沢根のやり方とは真逆のものだった。  そもそも英語は基礎からやり直すには、あまりにも覚えることが多すぎる。反面、期末テストでの出題範囲は殆ど決まっているため、比較的テスト対策はしやすい科目だ。  まずは目の前の期末テストへの対策に要点を絞り、確実に点数を取れる問題を重点的にこなしていく。それが律の考えた作戦だった。担当教師への協力を仰いだのも、対策範囲をできるだけ絞るためだ。響介の苦手な英語が、彼の担任の担当教科だったのは不幸中の幸いだ。  律は響介に音楽を教える最中で、彼の地頭の良さにも勘づいていた。響介は少々世間知らずなようだが、一度覚えたことはしっかりとこなせるのだ。英語だって、覚えることが多すぎるために苦手意識を持ってしまっているだけで、的確に範囲を絞れば必ず点数を取れるはずだ。  律は沸き立つ使命感に強ばる手を、堅く握りしめた。 「そういえば、二人共部活には入っていないのよね?」  ホームルームの後、江連先生はふと響介と律に尋ねた。共高の部活動は強制ではないものの、部活に入っていた方が進学にも有利に傾くため、帰宅部を選ぶのは少数派だった。  律は彼女にどう返事をしようか迷ったが、後ろに座っている響介が代わりに応えた。 「俺たち、音楽をやってるんです。今はまだ趣味の範囲なんですけど、本気で活動したいって考えてるので、部活をやってる暇がなくて」  響介は苦笑いをしながら、「流石にテスト勉強は優先してるつもりなんですけど」と付け加えた。音楽にかまけて授業を疎かにしている、という風には思われたくなかった。  江連先生は照れ臭そうに苦笑する彼の顔と、緊張した様子で強張っている律の顔を交互に見ると、納得した様子で頷いた。 「それなら、音楽も勉強も両方頑張ってもらわないとね。椀田くんから話は聞いていたから、私もこういうのを作ってみたの」  彼女は二枚のプリント用紙を、二人にそれぞれ手渡した。英語の練習問題がいくつか載っている、問題用紙のようだ。  響介は渡された用紙を呆然と眺めていたが、律はその内容に驚いた顔をしていた。 「先生。これ、良いんですか?」 「他の子達には絶対内緒。それも今回限りの特別よ。それから確実に同じ問題が出るわけじゃないから、その点も気をつけてね」  響介は律の様子から、江連先生がどうやら何か凄いことをしてくれたらしい、ということだけは理解した。 「ありがとうございます、先生!」  表情を明るくしながら感謝を述べる律を見て、響介も慌てて「あ、ありがとうございます」と頭を下げた。  すると江連先生は響介に向けて、長いまつ毛を重ねるようにして、にっこりと微笑んだ。 「頑張ってね、成谷くん」  小さくガッツポーズを見せて応援をしてくれた彼女に、響介は思わず心臓が高鳴るのを感じた。 「は、はいっ!」  声を上擦らせながら返事をすると、どうやら江連先生は時間が押しているらしく、頷きながら律の方へと話しかけた。 「それじゃあ後はよろしくね、椀田くん。先生、二人とも応援してるから」  去り際に、彼女は教室のドアの前で振り向くと、二人へ手を振ってみせた。若い女性教師のお茶目な仕草に、響介の鼓動はますます早まった。  先生が去っていった後、響介は開口一番に律に話しかけた。 「なあ律。江連先生って、すっげー可愛いよな⁉︎」 「はあ⁉︎」  律は思わず素っ頓狂な声を上げてから、大きくため息をついた。響介は決して不真面目なわけではないが、時折こうして何かに興味を惹かれるあまり、やるべきことを疎かにしてしまうのだ。 「変なこと言ってないで、それよりプリントを見てよ。凄いよ、これ」  響介はもう一度配られたプリント用紙を見た。“一学期期末試験練習問題”と書かれていたが、それの何が凄いことなのか、響介はいまいち考えが及ばなかった。  首を傾げる響介に、律は念を押した。 「僕、今日の午前の授業のとき、先生に声をかけたんだ。今これを配ってくれたってことは、先生、昼休みから放課後までの時間で、わざわざこの問題用紙を作ってくれたんだよ」 「わざわざ⁉︎」  響介はようやく凄いことの意味を理解した。  江連先生は他にも仕事がある中で、貴重な時間を自分達の──というより、響介のために割いてくれたのだ。彼女の言った“絶対内緒”と、“今回限りの特別”という言葉が身に染みた。  しかし、そうだと知れば尚のこと、むしろ響介の胸のときめきは増してしまうのだった。 『頑張ってね』と笑顔を見せてくれた彼女の顔を思い出し、響介は思わず顔を綻ばせた。 ---  結果として、沢根の“基礎から復習作戦”も、律の“テスト対策特化作戦”も、どちらも功を成した。  七月の上旬、響介は全ての教科の点数を伸ばし、無事に期末テストを乗り越えることができた──にも関わらず、その日の彼の表情は、あまり喜ばしそうではなかった。 「いつまでしょげてんだよ、成谷」 「だってさぁ……」  響介はテスト対策成功の打ち上げという名目で、再び沢根に連れられてコーヒー店に訪れていた。隣のカウンター席に座る沢根は、“例の白い劇物ドリンク”を飲みながら、肩を落としている響介を笑い飛ばしていた。  それもそのはずで、響介が期末テストを無事終えたにも関わらず、浮かない顔をしている理由は、彼からすれば取るに足らないものだったのだ。 「テスト前はしてなかったじゃんか、指輪……」  響介の発言に沢根は堪えきれず、ついに声を出して笑ってしまった。 「笑うなよぉ」と情けない声を漏らす響介がますます面白くて、沢根は申し訳ないと思いながらも笑うのをやめられなかった。 「だってお前、今時高校生が担任教師に片思いって……ひひひっ。少女漫画みてえじゃねえか」 「わかってるよ!」  響介は半ばべそをかきながら答えた。  彼はテスト期間の最中、担任の江連先生に対し、淡い想いを抱き続けていたのだ。テストの点が良くなれば、先生に褒めてもらえるだろうか、と下心じみた期待も抱いていた。  そして答案が返ってきたとき、確かに彼女は響介の期待通り、彼のことを『よく頑張ったね』と愛らしい笑みで褒めてくれたのだ。  ただ──答案を手渡した彼女の左手の薬指には、高価そうな指輪が嵌められていた。指輪の意味くらいは、響介にだって瞬時に理解できた。  響介の儚い好意は、恋にすら成る前に打ち砕かれてしまったのである。 「わかってるって、あんな美人の先生に恋人がいないはずがないってことくらい……けど、わかってても落ち込んじまったんだもん。仕方ねーじゃんか」  響介はせっかく自腹を切ったアイスカフェラテには一切口をつけずに、カウンターに突っ伏してしまった。  どうやら思っていたよりも自体は深刻らしい。沢根はようやく笑うのをやめた。 「まあ、その……なんだ、成谷。恋なんてもんはさ、星みてえなもんなんだ。叶わなくたってそのうちまた新しい恋が巡ってくるぜ」 「星みてーなもんって、そりゃ手が届かねーって意味じゃんか。俺は一生片思いばっかすんのかよぉ」  適当に慰めようとしたが、どうやら彼には逆効果だったらしい。ますます落ち込んでゆく響介は、もう木製のカウンターへとめり込んでいってしまいそうなほど、重い気を纏い始めていた。  その様子には流石の沢根も驚き、彼は甘いフラペチーノは側に置いて、響介の方へと向き直った。 「まぁ、あんまり深く考えるなよ。っつーかそんなに落ち込むって……お前、まさか初恋だったのか?」 「さぁ……どうだったんだろう」  思いがけない曖昧な返事に、沢根は目を丸くした。しかし続く響介の言葉は、さらに予想外なものだった。 「俺、中学の頃まともに学校通ってなかったんだ。だから恋とか、全然わかんない。こんなにつらくて寂しいなら、俺、もう誰も好きになんかなりたくないよ」  沢根はかける言葉を失ってしまった。自分も──自分で思うのも何だが──波瀾万丈な人生を送ってきたつもりだったが、響介も相当な苦労をしてきたのだろう。  沢根は登校初日に、彼に初めて抱いた印象を思い返した。  あの日、一人だけ初日から遅刻してきた響介は、見るからに明るそうに振る舞っていたものの、どこか他人と違う雰囲気を纏っているように感じたのだ。それが、過去の自分に似ているように思えたのかもしれない。  今更ながら、自分が響介に対して抱いていたものは、友愛というよりは同情だったのだろうか。不意にそんな疑問を抱いてから、沢根は首を横に振った。 「なぁ成谷。失恋だったら、俺も中学の頃にしたことがあるぜ」  沢根の思わぬ告白に、響介はようやく顔を上げた。 「一番好きだった女の子が、一番嫌いだった奴のことを好きでさ。そのまま付き合っちまったと思ったら、その二人、すぐに別れちまったんだ」  沢根の話が予想外の方へと向き始めたので、響介は目を見開いて続きを聞き入った。 「今思うと恥でしかねえんだけど……当時の俺、チャンスだって思って、その子の相談に乗ろうと話しかけたんだ」  響介の頭の中で、中学時代の沢根が、失恋した少女に声をかけるイメージが浮かんできた。気さくで口の上手い彼のことだ、傷ついた異性も上手く慰められたのだろう。 「そうしたらその子、俺に向かって『彼の代わりに付き合って』って言ったんだよ。それ聞いた瞬間、俺、その子のこと好きじゃなくなっちまった」  自嘲げに笑って話す沢根に、響介は息をのんだ。 「それが初恋で、あれからずっと恋はしてない。ずっと好きだった子から、付き合ってって言われたのに、その瞬間好きじゃなくなったんだ。それなら俺が今まで好きだったのは、一体誰だったんだろうって思っちまった。それからは恋が何なのか、もうずっとわかんなくなった」  響介は頭の中で、当時の沢根の気持ちを汲もうと想像を巡らせた。  自分の一番好きな子が、自分の一番嫌いな奴の代わりになってほしいと言ったのだ。嫌いな奴の代替にされるなんて、どんなに悔しいことだろう。  考えているうちに、響介も沢根と同じように、恋が一体何なのかわからなくなり始めてしまった。 「けど俺……恋はわかんねえけど、愛ならわかるぜ。前にも話しただろ、伯父さんと伯母さんの話」 「あぁ。あの、家族同然だって言ってた……」  沢根は深く頷いた。そして胸いっぱいに溜め込んでいたものを、ゆっくりと吐き出すように話し始めた。 「俺、伯母さんの妹の子なんだ。他所から知らされるまで、ずっとそのことを理解してなかった。二人とも、俺のことを本当の息子として育ててくれたんだ。そういうのは、愛だと思うんだよ」  響介は彼の言葉になんと答えていいかわからず、口をぽかんと開けて黙ってしまった。ただ、沢根の言葉は響介の想像よりも重く、心の深くまで突き刺さるように感じられた。  呆然とする響介に対し、沢根は真摯だった表情を元の軽薄そうな笑みに変え、わざとらしくおどけてみせた。 「悪い。今のは反応に困るよな。つまり俺が言いてえのはさ、“恋と愛は違うもの”ってことなんだよ。愛は不変だ。そして重いもんだ。けどよ、恋なんかは俺だって適当だぜ。だからそんなにくよくよしなくていい、ってコトだ」  言い終えてから、沢根は頭をかいて「これじゃ、何言いてえのかさっぱりだ」と照れ臭そうに笑って誤魔化した。  彼らしくない纏まりに欠けた話だったが、沢根なりに自分を元気付けようとしているという思いは、響介にもしっかりと伝わっていた。 「そうだな。くよくよしても仕方ないよな」 「おう。あと数日もしたら、もう夏休みだ。楽しもうぜ、成谷」  ウインクしながらフラペチーノを飲み干す沢根に、負けじと響介もカフェラテのストローへ口をつけた。  コーヒーの香りとミルクのほのかな甘味が、響介の喉を冷たく潤しながら通っていく。爽やかで香ばしい匂いは、これから訪れる夏への期待を膨らましていくようだった。
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