七話 前編

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七話 前編

「電車って、結構高いところも通るんだなあ」  響介は車窓にへばりつくようにして、外の光景を眺めていた。  電車は切り立った崖の上を、悠々と走り進んでいく。少し顔を上げれば、見慣れたはずの富士山がいつもよりも大きく見えていた。  遠方の富士山はどっしりと構えたまま、崖近くの住宅街の屋根は颯爽と通過していく。初めて観る光景に響介は心を躍らせていた。  その向かい合わせの席で、律はスマートフォンの乗り換え案内を確認しながら呟いた。 「もうすぐ次の駅だよ、響介。その後は五分もしないうちに終点だ。降りる準備をした方が良いんじゃないかな」 「うん、わかってる」  口ではわかってると言いつつ、響介は窓縁の狭いスペースに置いたスナック菓子を、もう一つつまみ始めた。本当にわかっているのだろうか。律は小さくため息をついた。  八月初旬。夏休みはまだ始まったばかりだ。響介と律の二人は、ワンマン電車のセミクロスシートの窓際で、向かい合うようにして座っていた。  二人の目的地は、響介の短期アルバイト先の観光地、熱海市だ。  本来なら響介は、一人で熱海へと赴き、泊まり込みでアルバイトをする予定だった。しかし観光地へ行くことはおろか、電車に乗ることにすら慣れていない彼は、急遽同行者として律を誘ったのだった。  響介はあのテスト勉強での成功を皮切りに、自ら律のことを積極的に頼るようになっていた。律も人からこんな風に頼られるのは初めてで、至って満更でもなかった。  むしろ彼は、響介から同行の話を聞いた途端、響介のアルバイト先へと連絡をとり──もちろん律は学校にアルバイト許可の申請をしていないため、ただの手伝いという名目だが──店舗までの同行と、彼の宿泊先の変更の提案を申し出た。  泊まり込みに使う部屋の空間に限りがあるため、通常は響介一人で働かなければならないところだったのだが、宿泊先を律が二人分提供するのなら、ということで特別に許可が降りたのだ。  響介は律が旅館の予約まで済ませてしまったことに驚いたが、彼が『熱海に行くのは久しぶりなんだ』と観光地に目を輝かせているのを見たら、何も言い返せなくなってしまった。  宿泊費も食事代も、律が二人分を負担するらしい。響介は金額について尋ねようか迷ったが、律の方はお金のことなどこれっぽっちも気にかけていない様子だった。彼もまた、テスト勉強を共にしたことをきっかけに、響介に対して積極的に接するようになっていたのである。  なるほど、確かに律は自分で言った通り、パトロンとしての役割を成そうとしているらしい。響介は期末テストの後、こっそりパトロンという言葉の意味を調べていた。  パトロンは、後援者、支援者、賛助者、奨励者……といった意味を持つ言葉だ。特に十八世紀のクラシック作家の多くは、貴族や権力者の支援に支えられながら、数々の名作を生み出してきた。律がパトロンという言葉を使ったのは、彼のクラシック好きが高じてのことだろう。  つまり、それだけ彼は響介の音楽に期待をかけてくれているのである。それから響介は、遠慮や後ろめたさよりも、律の期待に応えたいという気持ちを強く抱くようになっていた。あの日『君には才能がある』と命を賭すように言ってくれた律の気持ちを思えば、それにはもう、音楽で応える以外の選択肢はないのだ。  しかし観光地でのアルバイトに関しては、もちろん自分の資金が欲しいという理由もあるが、何より沢根との事前の約束がある。そのため、音楽よりも優先順位が上となった。  だが、律はその事も『インプットも必要だよ』と前向きに捉えている様子だった。  アルバイトであれ観光地であれ、感じたことのない経験を得ることは、必ず音楽の表現のどこかで役に立つ。芸術はそういうものだ、というのが律の考えらしい。  それにしても、だ。律は目の前の、まだ芽吹いてもいない音楽家の種のような同級生が、まるで遠足に行く幼い子供のようにはしゃいでいるのを見て、苦笑した。  確かにインプットも必要だと言ったのは自分の方だ。しかし、これから自分達はアルバイトの遠征に向かうというのに、響介はまるで旅行気分で車窓を眺めながら、オヤツまでつまんでいるのである。 「なんだ律、これ食べたいのか?」  律の視線に気づいた響介は、呑気にもつまんだスナック菓子を一つ、彼の方へと向けてきた。  パッケージに“えだまめ味”と書かれているうぐいす色のそれを、律は「そうじゃないんだけど」と言いつつも受け取った。  たかが高校生の、たかが短期間の非正規雇用といえど、一応は賃金が発生する立派な仕事のはずだ。ただ遊びに行くわけではないのだが。  スナック菓子をサクサクと口の中で砕きながら、律は早くも響介のアルバイトの行く末が心配になり始めていた。 「なぁ、律」  苦笑いを浮かべていた律に、響介はふと、視線を車窓の向こうへと向けたまま話しかけた。 「俺、友達とこんな風に出かけるの、初めてなんだ」  流れていく景色に無邪気に笑みを向けている響介は、やはり遠足気分の子供のようだった。律は思わず苦笑を綻ばせる。 「友達って……僕たち、友達だったの?」 「えっ⁉︎ 友達じゃなかったのか⁉︎」  思わず口をついて出た言葉だったが、それに対して響介は、本当に驚いた様子で振り向いた。  二人の視線は、彼ら以外に乗客のいない真昼の車内で、ぴたりと交差した。 「俺、てっきり律とはもう、とっくに友達だと思ってたんだけど……違うのか?」  そう言う響介の瞳が、思いの外真剣な光をたたえていたので、律は背筋が強ばるのを感じた。  友達。それは今までの律の人生には、恐らくずっと存在していなかったものだ。響介は自分のことを、友達だと思ってくれていたのだろうか──そう実感すると、何故か律は心が締め付けられるような気持ちになった。  友達? 彼は友達なのだろうか。律は改めて疑問に思う。律には友達という言葉の定義がわからなかった。  わからないが、目の前の同級生に『違うのか?』と悲しげに問われれば、その疑問は否定したい、という気持ちが湧いてきた。 「違わない。と、思う……多分」 「っはは。なんで“多分”なんだよ。そこは自信持って、友達だって言ってくれよ」  律のおぼつかない言い方に、響介は冗談めかすように笑いながら答えた。  しかしながら、それでも律には未だ彼のことを『友達だ』と断言できる自信はなく、ただ照れ臭そうに頷き返すことしかできなかった。  律の言った通り、電車は次駅を発ってから、ものの数分で終点へと到着した。着くのが思いの外早かったので、響介はスナック菓子の残りを慌てて口の中へと放り込み、咀嚼しながら路線を乗り換えることになった。  想定通りの彼のそそっかしさに、律は笑いながら先にホームの階段を駆け上がる。焦った響介が後ろから小走りで追ってくる気配を感じつつ、彼は熱海方面のホームへと真っ直ぐに向かった。  東海道線の乗り場は夏休み期間のためか、平日の昼間にしては人が多く、混雑していた。人混みがあまり得意ではない律は、緊張感に思わず荷物の肩紐をぐっと握りしめた。 「ちょっ、早えーよ律! うおお、混んでるな⁉︎」  先程までの閑散さとは打って変わって、急に人が増えたことに響介も驚いたようだった。  振り向くと、彼が落ち着かない様子でそわそわと周囲を見回していたので、律はむしろ肩の荷が下りたような気持ちになった。 「響介、向こうのほうが少し空いてるよ。あっちに並ぼう」 「おう! あっちってどっちだ? うわーっ律! 待ってくれ!」  大声を出して慌てる響介が、周囲の注目を集めるのを尻目に、律は笑いを堪えながら歩みを進める。  彼らが列に並ぶのと同時に、ちょうど良くアナウンスがホームに響き、熱海方面行きの列車がやってきた。ぞろぞろと動く列に着いていきながら、二人は荷物を抱えて車両へと入っていく。  車内はロングシートのため、先程乗ったようなセミクロスシートの車両より、空間は広い。しかし混雑しているぶん、むしろ狭くなったように感じられた。  他の乗客も旅行者や出張中の社員など、遠出の人物が多いのだろう。周囲の皆が大きな荷物を持ち、それぞれ網棚に置いたり、座席に座っている者は場所を空けるよう、抱えたまま座ったりしている。  響介と律は二人揃って、荷物を抱えながら車両の隅へと移動した。座席が空いている箇所はあったものの、並んで座れる場所はなかったため、二人共立ったまま乗車することにしたのだ。  そうして彼らは暫くの間、手すりを掴んでつっ立っていたのだが、数駅ほどを過ぎてから後悔し始めた。熱海駅は思いの外遠かったのだ。  各駅停車のためか、距離以上に時間が長く掛かっているように感じる。響介が思わず「あと何分くらいで着くんだろう」と尋ねると、律はスマートフォンを眺めながら「あと三十分くらいかな」と答えた。  揺れる電車の中であと三十分。それも少し重めのリュックサックを、背負ったまま立ち続けることになってしまった。まだ十代中頃の響介は、体力には自信があると自負していたが、ひたすら立って待つだけというのは流石の彼にさえ酷だった。  結局熱海駅に着く頃には、二人共へとへとに疲れてしまい、半ば猫背になりながらホームの階段を降りることになった。  しかし改札口を出ると、響介は疲れに曇りきっていた表情を途端に明るくした。  伊達に県内有数の観光地を名乗っているだけはある。ホームでは錆びついた屋根や古めかしいベンチが、少々田舎めいた雰囲気を醸し出していたが、駅構内は煌びやかな電光掲示板や多数の土産屋が並び、多くの観光客で賑わっていた。  響介の地元の無人駅の、寂れた空気とは大違いだ。 「ようやく着いたね、響介」  隣の律も久しぶりの観光地に笑みを浮かべている。響介は大きく頷いた。  二人は予約していた旅館まで、駅から送迎バスで移動することになっていた。  熱海は坂や狭い道が多い。路上にも多くの露店が並んでいる。バスの座席から観る景色も地元のものとは大きく違い、響介はまるで違う世界にでも訪れたかのように心を弾ませていた。  彼はバスの窓から何かを見つけるたびに、「あれって何の店だろう」だの「あそこ行ってみたいな」などと呟くので、律はまたも苦笑いをしながら「僕たち一応、働きに来てるんだよ」と指摘した。 「うん、わかってるって」  本日二度目の空返事に、律は呆れながらスマートフォンの時間を確認した。  旅館のチェックインには予定通り間に合いそうだ。今日はこのまま一晩を旅館で過ごし、仕事に行くのは明日の朝からの予定だった。  きっと旅館に着いた後の響介は、これ以上に羽目を外すに違いない。今後の彼が騒ぐ姿を想像して、律は思わずくすくすと笑みを漏らした。  窓の外の景色に夢中になっている響介は、律が笑ったことには気づいていない様子だった。 「うわーっ! すげー! でけー!」  想像以上の語彙力のない反応に、律はもう笑いを堪えられなかった。噴き出す彼の反応を見て、響介は恥ずかしそうに口をつぐんだ。  律が予約していた旅館は、敷地も建物も大きく部屋の数が多い、いわゆる大型旅館だった。老舗の旅館や伝統ある民宿とは違い、あまり趣のある雰囲気ではないが、五泊以上の長期宿泊ができる施設はそれだけ限られていた。  建物の周辺や庭の方まで見に行こうとする響介を引きずって、律は真っ直ぐフロントへと向かう。  外観や建造の雰囲気は和風の旅館らしい作りだったが、設備の新しさやスタッフの多さは、旅館というよりはホテルのような様相だ。チェックインの手続きも殆どスタッフの指示によって滞りなく済んだので、律はひとまず安堵した。今まで両親と一緒に旅行をした経験なら何度かあったが、自分と同年代の未成年者だけでの宿泊は初めてだった。  エレベーターで二階へと上がり、二人はルームキーに書かれている番号の部屋へとやってきた。  廊下やドアの雰囲気はやはりどこか和洋折衷といった様子だが、引き戸を開けるとそこはやはり旅館らしく、畳に障子に襖にちゃぶ台と、おおよそ想像した通りの和室が広がっていた。 「おおーっ! 俺たちここで泊まんのか!」 「響介、うるさいよ。静かにして」  またしても響介が大きな声をあげたので、律は仕方なく口元に指を当てて、水を差すことになった。  響介は「おっと、悪い」と慌てて口を塞いだが、本当は律の方も感嘆をあげたい気分だった。  先程は働きに来ているのだと自分で言っておきながら、実際に宿泊する部屋を見ると、律の心中にさえ期待が込み上げてきた。何より隣にいる同級生があまりにも楽しそうに浮かれているので、自分の方もつられて旅行に訪れた気分になってしまうのだ。  響介は早速フロントで借りた雪駄を玄関へ脱ぐと、畳の上を駆け抜けて窓側の障子を開いた。  律が響介の脱ぎ捨てた雪駄を揃えていると、広縁の方から「うわーっ」という響介の声が聞こえてきた。あまりの落ち着きのなさにやはり苦い笑みをこぼしつつ、彼も響介の元へと向かう。 「もう、何があったの?」 「見ろよ律! 街がぜーんぶ見えるぜ!」  広縁の窓はガラス張りの掃き出し戸になっており、昼下がりの熱海の景観を一望することができた。  流石に海が見える位置の部屋は人気が高く、予約をとることができなかった。しかしこうして、傾斜のある独特の街並みを眺められる景色も、なかなか趣があった。 「わあ、綺麗だ」  流石の律も、この光景には心を動かされた。  小さな露店から大きな宿泊施設まで、様々な建物が山沿いの森に囲まれて集っている。中には先程通った商店街のような、賑わった場所も見えた。 「へへっ。俺、旅館に泊まるのも初めてだ。今日すっげー楽しみだったんだよ」  隣の響介が、満面の笑みを浮かべてそう言った。 「初めてって。修学旅行とか、もっと大きなところに泊まらなかった?」 「ううん。俺、修学旅行は行ってないんだ」  さらりとそう答えられてしまったので、律は何と返していいかわからなくなってしまった。  律の絶句した様子に気づいた響介は、慌てて話を続けた。 「いや、確かに金がなくて行けなかったんだけどさ。ぶっちゃけ学校で行く修学旅行なんか、そこまで楽しそうじゃねーだろ? 別に行けなかったの、後悔とかしてないぜ」 「……確かに、修学旅行はあんまり楽しくなかったな」  律は中学の頃の自分を思い返して、眉をひそめた。京都には幾度か観光で訪れたが、修学旅行は中でも最もつまらない旅行だった。  教師が勝手に組んだ班の中で、律は誰とも会話すら上手くできず、ひたすら気まずい空気の中、寺や神社を巡るばかりだった。あれなら確かに、行かないほうがマシだった。 「けどさ。俺、今はすっげー楽しい。きっと一緒に来たのが律だからなんだろうな」  響介の言葉に、律は心臓がどきりと脈打つのを感じた。彼は本当に、何の理屈もなさそうにそう言ったのだ。しかし律には、響介がどうして自信満々に楽しいと断言できるのか、理解ができなかった。  律は無意識に、昼の電車で響介と話したことを思い返した。『とっくに友達だと思ってた』──友達だから、彼は自分と観光地に訪れたことを楽しんでいるのだろうか。  僅かに脈拍を上げる胸に手を当てて、律は自身の気持ちを感じ取った。自分も今、この時間を楽しいと思っている。これが友達なのだろうか。律は、今まで自分の中のずっと抜けていた空白に、探していたパズルのピースが嵌まったような感覚をおぼえた。  自分はあくまでも支援者(パトロン)で、響介とは仕事への同行という名目でついてきたはずだ。  だが、今やそんな建前上の考えは、掃き出し戸の向こうで広がっている空の青のように散っていった。  残るのはただ、初めて出来た友達との宿泊を楽しみに思う、純粋な好奇心だけだった。  その晩、個室での宿泊に豪勢な夕食が出てきたことに、響介は先ず驚いた。宿泊といっても、食事はてっきり安価なバイキングか、外食の持ち込みのどちらかだと思っていたのだ。  律はまるで当然のように個室の電話をとり、旅館のスタッフもまた当然のように夕食を個室へと運んできた。ちゃぶ台の上に様々な料理を乗せた和皿が、色とりどりに並び始めるのを眺めながら、響介は座布団の上で思わず縮こまっていた。  宿泊は五泊六日の長期の予定だった。律本人曰く、五泊の間に夕食だけがこうして毎晩用意されるプランらしい。  朝食と昼食はついていないため、それほど高価なわけではないと彼は言うが──高級そうに波打つ四角い陶器皿の上で、きらりと輝く刺身の群に、様々な文様の描かれた小鉢のおかずが複数、さらに汁物の椀にさえ金色の模様が施されている。その光景は響介の感覚では、とても“高価なわけではない”とは思えなかった。  一方律は、硬直する響介を不思議そうに眺めていた。昼間に旅館を訪れた時はあんなに大騒ぎしていた彼が、今は借りてきた猫のように大人しいのだ。  律はふと尋ねた。 「響介、もしかして魚料理苦手だった?」  響介は律の困惑した表情に、狼狽えながらかぶりを振った。 「いいや! 俺魚好き! 大好き!」  慌てて箸を掴み、刺身へと伸ばそうとして──挨拶をしていなかったことに気が付いて、また慌てて手を戻し──箸を持ったまま「いただきます」を言うと、響介は狼狽を隠せないまま夕食へと口をつけた。律の好意を無碍にしたくない一心だった。  が。一口食べた瞬間、彼の強張った心は、旬の魚の旨みに絆された。 「うんまっ!」  響介の表情に笑みが戻ったのを見て、律も安堵しながら食事へ手をつけた。地魚の鯵や鯛はもちろん、小鉢の煮物や出汁の香るお吸い物も美味しかった。  しかし律にとって最も喜ばしかったのは、それらの料理を「うまい!」と声を上げて食べる響介の姿だった。  夕食後、二人は旅館浴衣に着替えて浴場へと向かった。  旅館には室内風呂と露天風呂の二種があり、日によって男女を入れ替えて利用することになっているのだという。あいにく今日の露天風呂は女性用となっていたが、彼らはそれも明日の楽しみだと思うことにした。  当たり前のことだが、脱衣所には響介と律以外の利用者も訪れている。赤の他人の前で裸になることに、響介は僅かに抵抗を感じた。  しかし律の方は意外にも、堂々と浴衣を脱いでしまい、それを慣れた手つきで籠へと畳み入れると、さっさと浴室へと向かってしまった。 「響介、もしかして照れてる?」  浴室の入り口で振り向いた律が、急に悪戯っぽい笑みを見せたので、響介は耳まで赤くなりそうなのを堪えながら浴衣を脱いだ。 「別に、ちょっと慣れてねーだけだし!」  言葉とは裏腹に、籠へと雑に突っ込まれてしまった浴衣は、響介の動揺を表すようにぐちゃぐちゃになっていた。それを見て律がまた笑うので、響介はもう頬を膨らませながら律を追い越して、先に浴室へと入ることにした。  浴室には、響介が三十人──いや五十人ほどは入れそうな大きさの、大浴槽が広がっていた。  横には同時に十人ほどが使えそうな広さの洗い場が設けてあり、律は「浴槽に入る前にシャワーを浴びるんだよ」と先に洗い場の方へと向かった。響介も、慌てて彼の隣へついて行く。 「かけ湯でも良いんだけど、僕は先に身体を洗ってから、ゆっくり浸かる方が好きなんだよね」 「ふうん……」  シャワーを浴び始める律を横目に、響介も真似をするようにハンドルを捻った。  が、下の蛇口の方からお湯が出てしまい、慌ててもう一つのハンドルを捻ると、今度は冷たい水が出てきてしまった。  声を上げて狼狽えていると、見かねた律が水を止め、切替弁の使い方を教えてくれた。二つのハンドルの真ん中に、シャワーと蛇口を切り替えるレバーがついていたのだ。  何もかもが知らないことだらけで、響介は湯船に浸かる頃には、すっかりくたびれてしまった。ついには浴槽の縁に頭をもたげて、ウトウトと船を漕ぎ始めたので、律は響介が溺れないようそっと隣へ寄り添った。 「お風呂で寝たら危ないよ、響介」 「うん……わかってる……」  火照った顔でぼんやりと呟かれた本日三度目の空返事に、流石の律も学習した。響介の言う『わかってる』は、ずばり話を聞いていない、という意味なのだ。  律は仕方なく響介の頬を軽くはたいて起こしてやり、その後も気だるそうに目を細めている彼を、引きずるようにして部屋へと戻った。布団を敷いて床につく頃には、むしろ律の方が疲れ果ててしまっていた。  律は、隣で既にすやすやと眠りについている響介を眺めながら、これではパトロンというよりは、彼の親にでもなったような気分だと感じていた。  だが、気持ちよさそうに寝息をたてている響介の顔を見ていると、こうして親のような気分になるのも、たまには悪くない、という心持ちも湧いてくるのだった。
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