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八話 後編
沢根──ザネリの言う『渡したいもん』に、律は心当たりがあった。八月十日。今日は響介の誕生日だった。
アルバイトの忙しさのせいか、当の本人は自分の誕生日を忘れてしまっているようだったが、律はしっかりと覚えていた。今日は仕事が終わって旅館に戻った後、サプライズとして彼を祝うつもりでいたのだ。
しかし、そこへ先にザネリの奴がやって来てしまった。律は内心焦っていた。よく考えれば、あいつの方が自分から響介の誕生日を尋ねていたのだから、あいつが彼の誕生日を祝うこと自体は当然なのだが──まさかザネリが、熱海にまで直接訪れるとは思っていなかったのだ。
彼の言う『渡したいもん』が響介へのプレゼントなら、自分よりも先を越されてしまうことになる。
そして律の嫌な予感は、そっくりそのまま当たってしまうことになった。
律は店の裏から掃除を続けているフリをしながら、こっそり彼らのことを覗き見ていた。すると来店したザネリはやはり、響介にプレゼントが入っていると思われる紙袋を渡していた。
店の賑わいの中で、ザネリの方はなんと言っているのか聞き取れなかったが、それを受け取った響介の「うわぁ! 覚えてたのか!」という大きな声は、否が応でも律の耳に届いていた。
紙袋を受け取った響介が嬉しそうに笑うのを見て──そこで律は目頭が熱くなるのを感じて、覗くのをやめた。
悔しい。律は苛立ちを握っている雑巾に込めて、床に黒くこびり付いたシミをひたすら擦り続けた。しかし油でも染み付いてしまったらしいその汚れは、なかなか取れてくれそうになかった。
そのうち右腕のほうが痛くなってきてしまったので、律はようやく諦めて手を止めた。しつこい油汚れには、確か重曹が効くはずだ。
清掃に集中しているうちに、律の気持ちはだんだんと落ち着いてきた。その代わりに今度は、自分でも馬鹿馬鹿しいと感じるほどの不毛さが押し寄せて来た。
一体自分は何に対して、こんなに苛立ってしまったのだろう。たかが嫌いな奴が、友人の誕生日を祝いにきただけじゃないか。
そう思う一方で、律はやはり心の底の遺憾さを拭いきれずにいた。一緒にバカンスに来たなどと謳っている“連れ”達のもとへ戻っていくザネリは、それこそ響介のことは彼らと同じ、友達の一人として接しているに過ぎないのだ。
反面、自分の方はどうだろう。響介一人のことでこんなに一喜一憂して、響介との仲ではあんな奴に負けたくない、などと器の小さい考えに囚われ続けている──
「……田くん、椀田くん」
ふと自分を呼ぶ声が聞こえて、律は顔を上げた。徳野さんが心配そうに眉を下げて、床に這いつくばっている律のことを屈んで見下ろしていた。
律が返事をするのも忘れてぼんやりしていると、徳野さんは憂うように苦笑しながら話を続けた。
「そろそろ休憩したらどうかな? 椀田くんは“お手伝い”なんだから、そんなに一生懸命頑張らなくても大丈夫だよ」
律は彼に心配をかけてしまっていたことに気づき、急いで背筋を正した。
「いえ、僕は大丈夫です。それより、お店の方は良いんですか?」
「そろそろピークが過ぎて客足も落ち着いてきたし、こっちは大丈夫だよ。椀田くんの方こそ、あんまり頑張られすぎたら俺の方が困っちゃうよ? これじゃ無賃でこき使ってるみたいになっちゃうじゃないか」
へらへらと笑ってみせる徳野さんに、律は強張った肩の力がすっと抜けていくのを感じた。
「わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」
「うんうん。好きな飲み物はあるかい? ついでにオヤツも食べていくといいよ。今日のぶんのお駄賃だと思って、遠慮なく頼んでくれ」
「……じゃあ、あのミックスフルーツアイス、っていうのを頂いていいですか?」
律はちょうど頭を冷やしたい気分だったので、冷たいデザートを頼むことにした。
徳野さんは彼に向けて、親指を立ててウインクしてみせた。
律は休憩室で一人、ぽつんと座って冷たいアイスクリームを口に運んでいた。甘酸っぱいアイスクリームは滑らかな舌触りをしており、律の昂った気持ちを冷やしてくれるように感じた。
閉店間近の客席の方には殆ど人はおらず、響介も徳野さんの奥さんも、片付けの方に注力している様子だった。
響介達は客席を拭いて周り、奥さんはレジの精算作業に取り掛かっている。よく見ると、その中に徳野さんの姿が見当たらないことに気がついた。
律が不思議に思っていると、不意に背中に何かが触れる感触がした。
「うわっ!?」
驚いて振り向くと、そこには手をひらつかせて無邪気に笑う徳野さんの姿があった。
「あはは、ごめんごめん。びっくりした?」
「……なんですか、急に」
驚きのあまり呆然とする律をよそに、徳野さんは隣の席に腰掛けた。
「なんだか浮かない顔をしているみたいに見えたから、気分転換にって思ったんだけど。逆効果だったかな?」
先程のことを未だに引きずっているのが、顔に出ていたらしい。気まずくなって頭を下げた律に、徳野さんは落ち着いた調子のまま話を続けた。
「ああ、責めてるわけじゃないんだよ。もしかしたら、成谷くんのことを気にかけてるのかなと思ってさ」
「響介を?」
律は思わず顔を上げた。店内はあんなに混雑していたのに、彼が仕事をしながら律の様子を細かく見ていたことに、率直に驚いた。
「うん。日中も彼のことを見ていただろう? 心配なのかなとか、何かあったのかなって思ったんだけど……お節介だったかな?」
「……いえ。ちょっと、友人関係のことで悩んでて。ごめんなさい。僕、手伝いにきたのにこんな風に悩んでばかりで……」
口をついて謝罪が出ると、さらに申し訳ない気持ちが増してくるので、律は流れるような早口で謝り倒してしまった。
一方徳野さんは、相変わらず優しげな笑みをたたえたままだった。
「いやいや。謝らなくていいさ、むしろ助かってるんだから。俺で良ければ話を聞くよ? これもお駄賃みたいなもんだと思ってさ」
そう頷きながらも、「もちろん話しにくかったら無理に話さなくても大丈夫だ」と徳野さんは付け加えた。
律は暫く悩んだ。徳野さんは律にとってはあくまでも赤の他人で、その上手伝いとはいえ雇い主と言える関係だ。更に悩みの種は彼の親戚の子との人間関係であり、それを徳野さんに話してしまうのは酷だと思われた。
しかし──律は長考の末に、やはり彼に悩みを話そうと決めた。昨日の響介との会話と、その後の仕事の進み方の経験から、律は抱え込むよりも打ち明ける方が、上手くいくだろうという考えに至ったのだ。
「あの……もしもの話なんですけど。徳野さんにとって一番嫌な相手が、徳野さんにとって一番大事な人と仲良くしていたら、僕みたいに……こんな風に辛くなったりしますか」
話しながら、律はやはり自分は会話が下手だと痛感した。今の自分が抱えているものを、これ以上上手く打ち明ける表現が思いつかなかった。これでは自分が何に困っているのか、徳野さんには伝わらないだろう。
やはり申し訳ないと思い、眉を下げて肩を縮める律に対し、徳野さんは途端に真摯な顔つきをし始めた。
「ええと……単刀直入で悪いけど、それはもしかして英くん……英里くんのことかな」
「……っ」
律は驚きのあまり目を見開いた。徳野さんの洞察力には驚かされてばかりいたが、誰のことを考えているかまで言い当てられるとは思っていなかった。
気まずさに硬直する律を、彼は慌てて宥めた。
「ああ、思い詰めないで。大丈夫だよ。むしろちょっとわかるなって思ったからさ」
意外な言葉が返ってきたので、律は思わずきょとんと目を瞬かせた。
「あの子、たまにちょっとピリピリしてるっていうか、あれじゃ仲良くなれなくても仕方ないっていうか……あ、これじゃあ俺、英くんのことすごく悪く言ってるな?」
徳野さんは首を傾げながら、「俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……」と唸り始めた。
もしかして困らせてしまっただろうか。やはり話すべきではなかっただろうか。律がまた口をついて謝ろうとしたその時、先に口を切ったのは徳野さんの方だった。
「例えば、俺はピーマンが食べられないんだ」
「えっ?」
話が思わぬ方向に逸れたので、律は素っ頓狂な声をあげてしまった。徳野さんはそれでも大真面目な顔をして、ピーマンの例え話とやらを続け始めた。
「けれど、俺がピーマンが食べられないからって、誰かに責められる謂れはないだろう? しかし、世の中にはピーマンが好きな人や、ピーマンを大切に育てている農家や、ピーマンの存在ありきの青椒肉絲なんて料理もあるよね」
律には彼が、何のことを語っているのかわからなくなってしまった。しかし話を続ける徳野さんの様子は、真剣そのものだ。むしろここからが大事だと言わんばかりに、彼は顔をしかめ、人差し指を立てて訴え始めた。
「でも、どれだけピーマンが誰かに大事にされようが、愛されようが、俺がピーマンを食べられるようにはならない。それは俺がピーマンを嫌いだからだ。仕方のないことなんだ」
眉間にしわを寄せていた徳野さんの表情が、ふと緩んだ。「だからね」、彼の顔つきは元のにこやかな笑みへと戻った。
「嫌いなものは、嫌いで仕方ないんだよ。俺や成谷くんはたまたまあの子と仲良くなれただけで、椀田くんはたまたまダメだっただけさ。そのことで椀田くんが悩む必要なんてないよ」
徳野さんは慣れた顔つきでウインクをした。
彼の例え話は、律にはあまりしっくり来なかった。しかしその振舞いを見ていると、不思議と心が安らぐように感じた。それはきっと、接客業をこなす大人のなせる技なのだろう。
「聞いたよ。今日、成谷くんの誕生日なんだろう? 旅館に戻ったら思いっきり祝ってあげなよ。彼、きっとすごく喜ぶよ。仕方のないことは一旦置いといて、もっと楽しいことを考えよう」
---
その日の晩、響介は旅館への帰り道を、一人のろのろと歩いていた。
仕事はあと三日間あるというのに、響介はぐったりと疲れてしまった。そのため今日は徳野さんに勧められるがまま、彼の店で暫く休んでから帰ることになったのだ。
丁重にもてなしてくれた徳野さん曰く、律は先に旅館へ戻って待っているらしい。早く律の元へ帰りたいと思う気持ちとは裏腹に、疲れた足は重く、なかなか歩みは進まなかった。
沢根のくれた誕生日プレゼントは、タオルやティッシュなどの軽い消耗品の詰め合わせだったが、それすらも今は重たく感じられる。響介は紙袋をぎゅっと抱えて、坂道をゆっくりと上っていった。
休憩時間の終わり側に、沢根が『成谷が欲しいもんがわからなかったから、大したもんじゃないけどさ』と言いながら、この紙袋を渡してくれたことを思い出す。中に衛生用品ばかりが入っていたことに最初は笑ったが、響介はたとえタオルでもティッシュでも、誕生日にプレゼントを貰えたこと自体が嬉しかった。
なにしろ彼の誕生日は夏休み真っ盛りなので、今までは母以外の人物から祝われたことがあまりなかったのだ。その上──ふと苦い記憶が蘇りそうになり、響介はかぶりを振った。
そんなことよりも、だ。響介は紙袋の底にひっそりと入れられていた、小さな封筒のことを思い出した。
封筒の中には、誕生日祝いのメッセージカードと、数枚のギターピックが入っていた。響介はギターを弾き鳴らす趣味を沢根には話していなかったはずだが、そこは色々と聡い彼のことだ。ロックが好きだという響介の自己紹介を覚えていて、プレゼントにギターピックを忍ばせてくれていたのだろう。
プレゼントに隠されていたギターピックに気づいたのは、沢根がとっくに店を後にして、響介が閉店後に休憩をしている最中のことだった。お礼を言う暇がなかったが、沢根なりに響介のことを想っていてくれていたのが、響介はいっとう幸せだった。
そうだ。今日は仕事で体こそくたびれたものの、心はこんなに幸せな一日だ。
響介はそう思って浮かれるあまり、重い足を無理やり引きずって駆け出した。ふくらはぎが少々痛むが、そんなことは気にせず坂を駆け上がる。
お陰で旅館へたどり着く頃には、彼の足は筋肉痛でかちかちになり始めてしまった。
紙袋を抱えたままフロントへ赴くと、ロビーに旅館のスタッフが数人集まっているのが見えた。何かあったのだろうかと不思議に思い、目を凝らすと、その集まりの中に律が混ざっているのが目に入った。
まさか、律が何かしでかしたのだろうか? いやいや、あの品行方正な社長令息が、問題なんか起こすはずがない。
響介はあまりに気になって、受付を早々に済ませて集まりの方へと向かった。見れば律は、どうやらスタッフと何かを相談している様子だった。その表情は何かをしでかしたどころか、むしろ楽しげだったので、響介はひとまず安心した。
「はい。急な話だったのに本当にありがとうございます。よろしくお願いします」
律は笑顔でスタッフに頭を下げ、スタッフも「とんでもないです」とまた頭を下げた。彼らは一体、何の相談をしていたのだろう。
「なあ律、何の話をしてたんだ?」
響介は無邪気に尋ねながら駆け寄った。
すると、先程まで柔らかな笑みをうかべていた律の表情が、響介の姿に気づいた途端、凍てつくように固まった。
「あっ……響、介……」
「え……えっ? どうしたんだ律? ……俺、今なんかした?」
響介は、自分が“うっかりや”だということをすっかり忘れていた。
たった今、プレゼントを抱えて帰路を走っていたのに、今日は自分の誕生日だという意識が頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。
そんなこんなで、律のサプライズ作戦は失敗に終わってしまった。客室で普段よりもさらに豪華になった夕食を囲みながら、彼は気まずい気持ちで俯いていた。
せっかく徳野さんに響介を引き止めてもらい、その間に旅館のスタッフへサプライズを更に華やかにできないかと相談していたのに、まさかその最中に本人がやってきてしまうとは。せめて目立つロビーなんかではなく、隠れて相談するか、気づいていない響介にあのまましらを切り通せば良かったものを。
律は狼狽の末に──事前に誕生日祝いのコース付き予約をしていたことも含めて──全てを洗いざらい彼に話すことになってしまった。自分なりに必死に立てていた計画が、何もかもうまくいかなかった。
落ち込みのあまり、律は思わず本来の目的である『響介を祝って喜ばせたい』という気持ちを忘れかけていた。
「な、なぁ律。これってカニだよな? 何ガニなんだ?」
そんな律の杞憂はつゆ知らずか、ちゃぶ台の向こうの響介は無邪気に目の前の馳走へと視線を釘付けにしていた。卓上七輪で焼かれているカニがそんなに珍しいのか、彼は期待と緊張で瞼をぱちくりと瞬かせている。
「えっと……そっちの細身の方がズワイガニで、表面がでこぼこしてるのはタラバガニだと思う」
話しながら、律は不思議と落ち込んだ気持ちが上向いてくるのを感じた。
「ズワイガニ……タラバガニ……」とまるで七輪へ呪文をかけるように復唱している響介からは、初めて見る料理へ心を弾ませているのが聞かずとも見てとれた。今日は誕生日祝いコースのため、旬ではない冷凍ガニをわざわざ取り寄せて貰ったが、響介が嬉しそうな様子で何よりだ。律はほっと安堵した。
その後も二人は焼きガニを剥くため、火傷をしかけたり、指を痛めたり、手を汚したりと悪戦苦闘した。しかしそれすらも顔を見合わせて「難しいね」などと笑い合えば、たちまち五畳ほどの和室は楽しげな空気で満たされた。
予定通りには行かなかったものの、響介の喜ぶ顔を見ているうちに、律の気持ちは少しづつ晴れやかに変わっていった。
夕食の後、食器を片付けているスタッフからデザートに付くドリンクを選ぶよう言われたので、二人は揃って紅茶を頼んだ。
すると響介は、目を輝かせながら律に尋ねた。
「もしかして、ケーキとか出んの?」
律はほんの少し気まずそうに、顔を赤くして頷いた。
「うん。本当はカットケーキが二つ出る予定だったんだけど、さっきホールケーキにしてもらえないか相談してたんだ。その方が誕生日っぽいと思って……」
響介もぶんぶんと首を縦に振った。
「ホールって、丸ごとのやつだよな!? すげーな、そんなの食うの久しぶりだ!」
ホールケーキといっても、実際は二人でも食べられる、四号ほどの小さなケーキだ。
それでも名前の書かれたプレートが乗ったケーキが、色とりどりのろうそくと一緒に出されると、響介は手を叩いて喜んだ。律は照れ臭くなって「そんなに騒がないでよ」と水を差したが、響介の活気は留まる所を知らないようだった。
ろうそくは好きな数だけ差して火をつけていいとのことだったので、響介は何を思ったのか、直径十二センチしかないケーキにろうそくを歳の数だけ刺してしまった。小さなケーキに対してろうそくを十六本も刺してしまったので、なんだか見た目は不恰好になってしまったが、本人は至って楽しそうだった。
律はそんな彼の様子を見て、ふとろうそくの火をつける際に、部屋の灯りを消すよう思いついた。
これもまた“父さんの受け売り”というやつだが、海外ではろうそくの火を消すときに、願いごとを唱える文化があるのを思い出したのだ。部屋を暗くして、ろうそくの灯りのみの景色にすれば、より雰囲気が出るのではと考えた。
ろうそくに点火棒で火をつけながら、律は響介に願いごとを考えさせた。
リモコンで部屋の灯りを消すと、暗くなった和室の中で、ケーキとちゃぶ台と、そして二人の顔だけがぼんやりと赤く照らされる。その小さな灯りは、響介の緩みきった気持ちを引き締めてくれるようだった。
「願いごと……うーん……」
響介は願いを真剣に考えているようだった。ろうそくが溶けだしてしまったので、律は「なんでもいいんだよ、抱負みたいなものだから」と後押しした。
抱負という言葉を聞いて決心したのか、やがて薄明かりの向こうの響介は「俺、いつか律と一緒にでっかい舞台に立ちたいな」と願いを唱えた。暗がりの中赤く照らされた彼の顔が、あまりに真っ直ぐだったので、律は我知らず息をのんだ。
“律と一緒に大舞台に立ちたい”──響介の願いを聞いた途端、律の脳裏に、二人が並んで壇上へと上がる空想が過ぎっていった。響介一人の前でピアノを弾くことすら、あんなに苦心した自分が、いつか彼と共に舞台に立つ。そんなことが可能なのだろうか?
響介がふうと息を吹きかけ、ろうそくの火が消えていく。一度の息では全部の火を消しきれなかったので、彼は必死にケーキへ息を吹きかけ続けた。
一方律は、部屋の灯りがなくなり暗闇に包まれていく中、呆然としていた。
「おーい律、灯りつけてくれよ。真っ暗になっちまったぞ」
「ああ、うん。そうだね」
律は慌ててリモコンのボタンを押し、部屋の灯りをつけた。響介はへらへらと笑いながら、「へへ、抱負って言われたから勝手に願っちまった。ダメだったかな?」と照れ臭そうに身をよじった。
「ううん。凄く……いい願いだと思う。僕が叶えてあげられるかはわからないけど……」
そう答える律の表情は、肯定しているはずなのにどこか切なげだった。
響介は彼のそんな顔を見て、思い出したようにあっと声を上げた。
「なぁ、律。俺、お前にちゃんとお礼を言うの忘れてた」
お礼なんて、と律が遮ろうとする前に、響介は背筋を伸ばして言い立てた。
「ありがとう。俺と一緒に音楽始めてくれて。バイトも一緒に来てくれて、こんなに祝ってくれて……」
真剣に、緊迫していた響介の表情が、徐々に緩やかな笑みに変わっていく。
四月のあの夕方から約四ヶ月。今までのことを噛み締めるように思い返しながら、響介は感謝を述べた。
「本当に、ありがとう。俺、たぶん今日が今までで一番幸せだ」
響介はにっこりと歯を見せて、満面の笑みを浮かべた。
彼の笑顔を見て、律はふと自分の中で何かがすとんと──文字通り、腑に落ちる感覚がした。
「そうだ……僕、ずっと響介のそんな顔が見たかったんだ」
「え、俺?」
律は頭の中で、西陽の差す春の教室を思い返していた。
四月の放課後、初めてお互い名乗り合い、震える自分の手をかたく握った響介の手。太陽みたいに金色に瞬いていた瞳。自分がこんなにも躍起になって、彼に報いたいと思った理由を納得し、頷いた。
「うん。僕も多分、響介のそういう顔が見たくて……こんなに必死だったんだ」
律は「必死すぎて、色々失敗しちゃったけど……」と気まずそうに笑いをこぼした。
あの日、自分はわけもわからず楽しくて思わず笑ってしまい、響介からは『多分お前のそういう顔が見たくて、お前に話しかけたんだ』と言われていた。律はあれからずっと、自分も響介のことを笑わせたいと思っていた。
やり方の巧拙はさておき、響介は今日の誕生日を心から楽しんでくれたようだ。それで充分だった。
響介の方は、律が恥ずかしそうにはにかむのをぼんやりと眺めながら、彼がたった今口にしたことを心の中で反芻していた。自分のことを笑わせたい一心で、不器用ながら頑張っていた彼のことを思うと、不思議と胸が高鳴るのを感じた。
何よりあの春の日──自分が何気なく言ったことが、律をこんなに懸命にさせていたのだ。彼がその時のことを大事に覚え続けてくれていたという事実が、響介には嬉しくて仕方がなかった。
響介は自分でも感じとれるほど、全身に暖かな多幸感が巡ってくるのをおぼえた。思わず正座したまま膝を握っていると、律は微笑みながらナイフをとった。
「響介、ケーキ食べよう。半分にするから、プレートが乗ってる方が響介のぶんだよ」
響介が頷くと、照れ隠しをしているのか、律は早々にホールケーキのろうそくを取ってしまい、半分に切りはじめた。その間も、彼は嬉しそうに口角を上げている。響介は自分の誕生日に、家族以外の誰かがこんなに嬉しそうな顔をするのを初めて見た。
プレートが乗っている方の半分を器用に取り皿に乗せると、律はケーキを響介へ手渡した。やはりその笑みはどこか気恥ずかしそうだったが、今は彼のそんなぎこちない様子でさえ、響介の高揚した心をますます昂らせるように感じられた。
「改めて、誕生日おめでとう。響介」
律の照れ笑いがゆっくりと、穏やかな微笑に変わっていく。
ああ──本当に、今日が今までで一番幸せだ。響介はまるで、脳裏に銃声が轟くような衝撃を受けていた。
“俺はお前を愛するために生まれてきた”──英雄の愛の歌が、彼の胸中に響き渡る。響介は返事をすることも忘れて、思わず律のブルーグレーの瞳に見入っていた。響介の身体中が熱で満たされていく一方で、律の瞳は美しい清涼感を放っている。
響介には、見慣れていたはずの友人が、突然世界ごと姿を変えてしまったかのように思えた。
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