九話 前編

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九話 前編

 夏の空は高く青い。五日間のアルバイト体験を経て、響介も律もその志を僅かにあの空へ近づけたようだった。  アルバイトを終えてから数日後。二人は“律へのお駄賃”として徳野さんから譲り受けた、中古のエレキギターを持って楽器店へと向かっていた。アルバイトの最終日、徳野さんは二人が音楽活動をしているという話を聞いて、彼の祖父が愛用していたギターを響介へと譲ってくれたのだ。  勿論二人共驚いたし、はじめは断ろうとした。親族の遺品と言われると、その価値は物以上に重く感じられる。その上ギターは見るからに傷一つない良い状態のもので、それは素人目に見ても、アルバイトの対価としては高すぎると思える品だった。  しかし徳野さん曰く、思い出深い遺品のため売るわけにはいかず、楽器に詳しくないため使うこともできず、ただ保管しておくだけでは劣化してしまう。そのため信頼できる知人に引き取ってもらうのが一番良い、とのことだった。  響介は独学でアコースティックギターを弾いた経験こそあるものの、エレキギターに関しては触るのも初めてだった。しかし──彼は長考の末にギターを受け取った。本気でロックの世界へ向かうのなら、このギターは自分が受け継いで使うべきだと思ったのだ。  徳野さん本人が言う通り、楽器の扱いを知らない家庭でこのまま壁飾りにされているくらいなら、たとえ響介のような素人だろうと、人に演奏される方がきっとギターも幸せだろう。  初めて触った木製のエレキギターは、ずっしりと重く感じられた。アコースティックギターとは違い電気系の部品が備わるため、より重いのは当たり前なのだが──それ以上に、人の遺品を譲り受けるということが、響介の体だけでなく心へも重圧をかけるようだった。  響介はその重さに緊張感をおぼえると共に、どこか心が昂るように思えた。ギターの赤いボディは古い品であるにも関わらず、艶やかな光を情熱的に放っている。  徳野さんの祖父は一体、どんな風にこのギターを弾いていたのだろう。仏壇に飾られた古びたレコードジャケット──徳野さん曰く“ビートルズ”という、響介の英雄達よりも更に昔の洋ロックバンドらしい──を見て、遺影に手を合わせてから、響介はふとそんなことを想像したのだった。  楽器店では、まずギターのメンテナンスを勧められた。古いギターはいくら見た目が綺麗でも、弦の劣化やパーツの緩みがあるため、交換とクリーニングの必要があるそうだ。  アンプも古い電化製品のため修理ができず、買い替えを勧められた。少々値は張るが、エレキギターに関しては響介も律も素人だ。二人共、素直に店員の勧めに従うことにした。  メンテナンスを待つ間、二人は店の中を見て回っていた。市内で随一の老舗楽器店なだけあり店内は広く、弦楽器だけでなく管楽器や打楽器、ピアノ等の鍵盤楽器も数多く揃っている。  その他に楽譜や教本などの書籍が並んでいる棚もあったので、響介はひとまず“エレキギター入門”と書かれている初心者向けの入門書を手に取った。  入門書にはエレキギターの発音の仕組みから、演奏のために必要なもの、そして具体的な音の出し方やアレンジの仕方に至るまでが丁寧に書かれていた。  写真やイラストが載っているページが多いためかこちらもやや高価だが、せっかく音楽活動のためにアルバイトでお金を稼いだのだ。こんなところで出し惜しみをするわけにもいかないだろう。響介は入門書を買おうと決めて、ページを閉じた。  そうしてふと顔を上げると、律が少し離れた場所で鍵盤楽器のコーナーを見つめているのが見えた。その横顔がどうにも物憂げに見えるので、響介は思わず胸中がざわつくのを感じた。  鍵盤楽器には未だ詳しくないが、律が見ているのは恐らくキーボードやエレクトーンの類だろう。中にはギターのようにネックストラップが付いた、肩掛けできそうな形状のキーボードもある。  それらを眺めながら、律は今、一体何を考えているのだろうか。響介の中に疑問が浮かぶと同時に、胸のざわつきは更に増してきた。  最近の自分は何かがおかしい。律のことを考えると、つい気持ちが浮ついたり、逆に胸騒ぎがしたり、どちらにせよ落ち着かなくなるのだ。 「どうしたの、響介?」 「えっ」  不意に振り返った律に尋ねられ、響介は慌てて我に帰った。 「いや、なんでもない……あっ、これ。買おうかなって思って」  響介はつい律のことばかり見入ってしまったことを、勝手に気まずく感じた。咄嗟に手に持っていた入門書を話題に出して誤魔化しながら、その脳裏では彼に不審がられていないかを心配していた。  しかしその不安はどうやら杞憂に終わったようだ。律は入門書を見ると、「いいね。僕もエレキギターには詳しくないし、基礎から頑張ろう」とにっこり笑って答えた。  響介は彼の笑みに安堵すると共に、今度は胸の内にふわふわとした熱が込み上げてくるのを感じた。思わず顔がにやけそうになるのを堪えつつ、入門書をカウンターへと持っていく。  そうして購入した入門書を、数ページほど読み耽っている間に、楽器店の店長がメンテナンスの完了を告げに来た。彼からいくつかのアンプや付属品を勧められ、それぞれの音を実際に弾いて聴かされながら──響介も律も、結局どのアンプが“良い”のかはよくわからなかったので、ひとまずその中で一番安価な小型のコンボアンプを買うことにした。  安価とは言ったものの、家庭用とライブ用を兼ねられる性能のコンボアンプだ。響介が泊まり込みで稼いだアルバイト代の、おおよそ半分程度の値段がついていた。家にある、あのプラスチック製のギターが五本分……という貧しい考えをつい頭に浮かべつつ、響介はメンテナンス後のギターと、購入したアンプと付属のケーブル、クリップチューナーを受け取った。  メンテナンス代と先程の入門書の金額も合わせて、この買い物でアルバイト代の殆どがなくなってしまった。たった五日間とはいえ、あんなに汗水を流してくたびれて得た成果が、わずか一瞬で消費されてしまったのだ。十代半ばの少年は、労働と経済の儚さをいっぺんに感じることとなった。  それからメンテナンスを受けてますます輝きを取り戻したギターを、黒く光るギターケースに納めた後、響介達は店の外で椀田家の迎えを待つことになった。  その日彼らは朝早くに出発し、午後は受け取ったギターを早速試し弾きしてみよう、という話になっていた。律曰く、彼の実家には防音室があるらしい。律はいつもそこでピアノを弾いているのだと言う。  律が自宅にスマートフォンで連絡するのを横目に見ながら、響介は高鳴る胸を押さえるように、抱えているギターケースをぎゅっと抱きしめた。  律の自宅へ招かれるのは初めてだ。その上、横で話している彼の口調を察するに、通話相手は恐らく律の母親だろう。これから迎えに来るという彼の母は、どんな人なのだろうか。律の部屋はどんな内装なのだろうか。そんなことを想像すると、思わず期待と緊張がない混ぜになって、響介の鼓動はますます早まるのだった。 「響介、あと数分で着くって。……大丈夫?」  通話を終えた律に不意に話しかけられ、響介は高まっていた鼓動が急ブレーキをかけたかのように驚いた。 「えっ!? いや、なんでもない……大丈夫!」  響介の露骨な反応に、流石の律も疑問を感じたようだ。彼は心配そうに眉を下げ、首を傾げたので、響介は気まずくなって目を逸らした。 「大丈夫なら良いんだけど。もし体調が良くないなら、無理はしないでよね」 「うん、ありがとう……」  響介はギターケースに顔を埋めるようにして縮こまった。やはり最近の自分はどうも変らしい。  動悸がするなら呼吸器内科か、循環器内科に診てもらうべきだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、彼は空返事をしたのだった。  暫く待つと、いかにも高級そうな銀色のセダンが、駐車場へと緩やかに徐行してきた。  律は車が停車線内に停まるのを確認すると、フロントドアの方へと駆け寄った。 「ありがとう、母さん」 「いいえ。お帰りなさい」  律の母が、ドアウィンドウを開きながら答えた。落ち着いた、品のある印象を受ける声だ。響介も恐る恐る彼女の元へと近寄って、頭を下げた。 「こんにちは……」  律の母は響介の姿に気づくと、はっとした様子で声を上げた。 「あぁ、こんにちは。初めまして。あなたが律のお友達ですね。こんな所からごめんなさいね、今降りますから」  おっとりとした様相は保ったまま、慌ててドアを開けて車を降りる母の姿に、律は苦笑した。彼女は律にとって自慢の、立派な優しい母親なのだが、時折こうして悠長なのかそそっかしいのかわからない行動をとるのだ。 「息子がお世話になっています。改めて、よろしくお願いしますね」 「あっ、はい。こちらこそ……」  車を降りた律の母は、響介に負けじと頭を下げた。息子によく似た、品行方正な雰囲気の女性だ。  緊張した面持ちでまごついている響介を見て、律は困った様子で笑ってみせた。 「母さん。僕、別に響介に世話なんかされてないよ」  律の母は、息子の冗談にむっと顔をしかめた。 「何言ってるんですか。つい昨日だって、『一緒に出かけるような友達ができたなんて、生まれて初めてだ』って、あんなにはしゃいでいたじゃない」 「ちょっと母さん!」  狼狽える律の顔が、羞恥でみるみる赤く染まっていく。そんな様子を見て、響介は却って安堵したのだった。  車で送られている間に、響介は律の母へ、軽い自己紹介と挨拶を済ませた。  改めて名乗ると、彼女の口から「いつも律から聞いていますよ」という言葉が返ってきたので、響介は思わず笑いを溢してしまった。隣の席に座っている律は、気恥ずかしそうに目を逸らしている。 「いつもって。俺、律からどんな風に言われてるんですか?」  響介は好奇心から思わず尋ねた。素直な母が「ええと……」と話し始めるのを、律は慌てて止めに入った。 「母さん!」 「……だそうです。ごめんなさいね、成谷くん」  運転席からふふふと可笑しそうな笑い声が聞こえて、響介もつられてにやついた。横から視線を感じて振り向くと、律は不機嫌そうに頬を膨らませて、響介のことを睨みつけていた。  その顔がやたら紅潮しきっているので、今度は響介の方が急に恥ずかしくなってしまい、彼は慌てて逆側のドアウィンドウへ顔を逸らした。 「……浮かれてたのは事実だよ。友達……いなかったから」  後方から律が小さく呟くのが聞こえて、響介は「そっか」と頷いた。車窓の外へとわざとらしく目をやって、気にしていないふりをしていたが、その内心では律が浮かれていたことを『嬉しい』と感じる自分がいた。  ふと見ると、人のことを言えないほど浮かれた自分のにやけ顔が、窓に反射して視界に入った。居た堪れなくなった響介は、目を閉じることにした。 「うわーっ! 家でけー! すげー!」  椀田宅に到着して、開口一番に響介がそう叫んだので、親子揃って噴き出すのを堪えることになった。特に律は、前にもどこかで聞いたような、語彙力のない響介の反応が面白く感じてならなかった。  二人の様子に気づいた響介は、振り向くとはっと口を塞いで気まずそうに俯いた。律の母はそんな彼へ和かな笑みを向けると、家の中へと案内した。  響介は自宅のアパートと同じくらいの大きさがある戸建てに、少々緊迫した気持ちを抱きつつ、彼女の後へついて行った。  アール・ヌーヴォー風の流線型の装飾が施された、いかにも高価そうな玄関扉が開かれる。黒く艶めいている玄関床は、大理石か何かでできているのだろうか。その向こうの白い廊下は寸分の汚れも見当たらず、まるで貴族の邸宅のような様相だ。  こんな豪邸に自分が足を踏み入れてもいいものだろうか。思わず響介が躊躇っていると──どこかから、カタカタと小さな足音が迫ってくるのが聞こえてきた。 「フォルテ!」  律がそう言うと、廊下の曲がり角の向こうから、金色の毛並みの大型犬が「ワン!」と一声鳴いて飛び出してきた。  フォルテと呼ばれた犬は、ふさふさの大きな尻尾を嬉しそうに振りながら、律へと飛びついた。 「ワフッ! ワンッワンッ!」 「ただいま。こらこら、わかったからはしゃがないで。今日はお客さんがいるんだよ」  律から“お客さん”という言い回しをされたことに、響介は気恥ずかしいような、むずかゆいような気持ちになった。  フォルテは律の言うことを聞いたのか、相変わらず尻尾は元気そうに振り回しながらも、大人しくその場に座ってみせた。賢い犬なのだろう。  律がよしよしと頭を撫でると、フォルテは嬉しそうに舌を出した。 「はじめまして、フォルテ。俺は響介だ」  響介は自分もフォルテを撫でようと思って、手を下から差し出した。  すると驚くことにフォルテは、小さくワンと吠えながら、響介の手に自分の手を乗せてみせた。挨拶のつもりの“お手”なのだろうか。響介は目を丸くして驚いた。 「偉いなぁ、お前。えっと、なんちゃらレトリバー?」 「ゴールデンレトリバーだよ。響介よりも賢いかもね」  まさか犬と比較されるとは。隣の律が悪戯っぽく笑ってそんな冗談を言ったので、響介は顔に熱が昇ってくるのを感じた。  廊下を少し進むと右手側にリビングがあり、その反対側に律の部屋と、隣に防音室があるらしい。トイレやシャワールームは廊下のさらに奥、寝室は家の中心に堂々と佇む吹き抜けの階段を上がって、二階にあるそうだ。  二階には広いベランダや書斎、さらにはフォルテの部屋もあると聞き、響介は椀田家のあまりの広大さに目眩がしそうになった。犬専用の部屋がある家庭なんて、初めてだ。  律の母は一通り家の案内を終えると、「お茶を用意しますね」と反対側のリビングの方へ向かっていった。一方、律は目的の防音室へ行く前に、一旦荷物を置くため自分の部屋へと入っていった。  響介はこっそり彼の後ろから部屋を覗き込んだが、その想像以上の簡素さに驚いた。律の部屋はよく言えば整理整頓されており、綺麗だった。しかし自分と同級生の少年の部屋としては、やや殺風景に感じられる。  床にはカーペットが一枚敷かれ、その上に何も置かれていないローテーブルが一つと、壁際にシンプルな木製のベッドが一つ、そして窓辺にノートパソコンが一台置かれたラック付きのデスクが一つ、計三つの家具がぽつんと置かれているのみだ。  よく見ると壁に収納スペースの扉らしきものがあるので、着替えは恐らくそこに入っているのだろう。それにしても、真っ白な壁紙にはポスターの一枚も貼られていないし、デスクにはペン立てとパソコンとマウス、ラックには恐らく勉強に使われているであろう教科書と参考書くらいしか見当たらない。  いくら眺めても、おおよそ趣味や嗜好といったものを感じられない部屋だった。響介はあまりに質素な彼の部屋に、どこか切なさを感じてしまい、ひっそりと眉を下げた。来る前はどんな部屋なのか、律は何が好きなのだろうか、と色々勝手な想像を巡らせていたのだが、実際は何もなかったのだ。  そう思ってから、自分は彼と数ヶ月も行動を共にしていたのに、律のことを──彼が好きなものすら、何も知らなかったのだと思い至った。 「響介、どうしたの?」  目の前を律の白い手がひらひらと横切って、響介は我に帰った。 「ああ、ごめん! ちょっとボーッとしてた」 「なら良いけど……僕の部屋、変だった?」  律が苦笑いを浮かべながらそう言うので、響介は慌てて首を横に振った。 「いや、変じゃない! むしろすげー綺麗だよ。俺んちぶっちゃけ散らかってて汚いから、律ってすげーなって思ってさ」 「そうかな。だと良いんだけど。家族以外の誰かに部屋を見せるのは初めてだから、ちょっと緊張してたんだよね」  律は困ったようにはにかんだ。彼が無邪気に苦笑してみせるので、響介はまた胸が締め付けられるような気持ちになったのだった。  それから律の部屋を後にして、二人は隣の防音室へと入ることにした。  響介は部屋へ入るとまた驚いた。部屋の中に、さらに小さな部屋が鎮座しているのだ。箱の中に箱が入っているかのような奇妙な光景だった。律曰く、元々使わずに空いていた部屋に、後から防音室を設置したのだという。  フォルテが健気について来ようとするのをやんわりと交わし、くうんと寂しげに鳴く彼(彼女かもしれないが)へ「ごめんね、後で遊ぼうね」と一声かけてから、律は部屋の扉を閉めた。  部屋の中には、防音室の他に一台のデスクトップパソコンと、そして何やらボタンやツマミのようなものが沢山ついた、いかにも近代的な様相の鍵盤が置かれていた。  響介が物珍しげにそれらを眺めていると、律が「それがシンセサイザーだよ」と述べた。シンセサイザーからはケーブルが伸びており、パソコンに繋げられているようだ。 「あぁ、あれが前言ってたシンなんちゃら……これ、弾けるのか?」 「どうだろう。最後に使ったのは中学の頃だし、それからずっと触っていないから、もしかしたらどこか悪くなってるかも……」  律は言葉を濁しながら、「それより今は響介のギターだよ」と防音室の扉を開けてみせた。  防音室の中は思っていたよりも広さがあり、響介と律の二人が入ってもまだ多少の余裕がありそうだった。そしてその壁際にはまたしても鍵盤楽器が置いてあったので、響介は中へ足を踏み入れながら首を傾げた。 「あれ、律って鍵盤二つ持ってんの?」 「そっちはピアノだよ。前にも言ったけど、それがアップライトピアノってやつ」  律はコンボアンプのケーブルを繋ぎながら答えた。以前『ピアノが好きなんだ』と言っていたわりには、少々余所余所しい素振りの返答だ。  その様子に響介が僅かに気まずさを感じている間にも、律は防音室の扉を閉め、響介のギターケースを開いてしまうと、チューニングの準備をし始めた。 「さっきの楽器店で調整してもらったから、音は大丈夫だと思うけど……一応クリップの使い方も確認しておこう」  クリップチューナーをヘッドに挟むと、律はギターを響介に手渡した。試しに六弦を軽く弾いてみると、『ブン』と鈍い音が響き渡った。  コンボアンプから思っていたよりも大きな音が鳴ったので、二人は一斉に驚いた。思わず同時に跳ねるような反応をしたので、面白くなってしまい、二人共くすりと笑った。 「響介、チューニングの時は弾く弦以外をミュートするんだって」  律はいつの間にか響介が買った入門書を持っており、チューニングのページを覗いていた。彼は響介にも見えるようにページをこちらへと開いてみせたので、響介は入門書の教えに従って、六本の弦を順に弾いていった。  響介のあまりにも慣れない手つきに、今度は律の方が驚いてしまった。 「響介。アコースティックとはいえ、ギターは弾いてたんじゃなかったの?」 「だから言ったじゃん、俺は独学だって。チューニングってやつも知らなかったんだよ」  響介は顔を顰めつつ、一弦をポンと弾きながら答えた。 「弦の数は同じだけど……これとか、うちのギターと音程が違うんだ。こっちの方が正しいんだろ? うちのは確か半音くらい低かったから、俺の弾き方のほうを見直さないと……」 「何だって?」  律は思わず目を丸くした。今の発言が聞き間違いでなければ、響介は自宅のギターの音程を覚えており、今弾いた音と比較しているのだ。 「まあ、つまり……ほぼゼロからの初心者なのは認めるぜ。今まではそれっぽい音を真似して、適当に鳴らしてただけだし……むしろ独学って、変な癖付いてるわけだしなぁ」  響介は困った顔で俯いた。気まずさからか、彼は妙に口数が増えはじめていた。 「け、けど、これからはちゃんと勉強して基礎から頑張るから! 入門書だって買ったしさ!」 「ちょっと待って」  焦りながら張り切ってみせる響介を横目に、律は口に手を当てて、何やら考えている様子だった。  律の様相に響介が困惑し始めると、彼は途端に踵を返して防音室を出てしまった。 「待ってて、ノート取ってくる」 「えっ? ノート?」  響介は防音室に一人残された。そして律の唐突な行動の意味を、呆然と考えているうちに──彼は切迫詰まった様子で部屋に戻ってきた。 「こら、フォルテ。ごめんね、もう少し待ってて」  部屋のドアの傍で再度愛犬とのじゃれあいを終えた律は、片手にノートとペンケースを持って防音室へ入ってきた。 「響介、楽譜の読み方と書き方は前に教えたよね?」  律は珍しく興奮しているのか、白い頬を上気させて尋ねた。律の動機は読めないが、彼の様子が真剣であることは響介にも伝わっていた。  再び防音室の扉が閉められ、小さな空間は緊迫した空気に満たされる。 「う、うん。音符記号の種類はまだ覚えきれてないけど……」 「“音程さえ”わかればいいよ。響介、予定を勝手に変えて悪いんだけど──」  響介は律から渡された五線譜ノートを、防音室内の小さなテーブルに開き、ピアノ椅子に座って背を丸めていた。  律が言うには、『今から鳴らすピアノのフレーズを、響介は五線譜へ書き込んでいき、聴き取った音程がどれだけ正確か確かめたい』のだという。  聴音という基礎練習の一つらしいが、響介が実際に行うのはもちろん初めてだった。緊張しなくていいと言われたが、ようするにこれは聴き取りテストなのだと思うと、響介の肩はどうしても強張ってしまうのだった。 「いい? これが五線の一番下の線、“ミ”の音だよ」  律は立ったままピアノをトンと鳴らした。響介は黙って五線譜へ“ミ”を書き込んで、頷いた。  続けて幾つかの音が次々に鳴らされていく。響介は上下する音の流れを、一つ一つ掴み取っていくように五線譜へと書き込んでいった。果たして自分が掴んだこの音達は、正しい音程なのだろうか。  律が演奏を終えると、響介も聴音を終えた。緊張のあまり硬くなった手を、膝にぎゅっと乗せたまま座り込んでいる響介を、律は後ろから覗き込んだ。  五線譜に書き込まれた印の位置を見て、後ろの律がはっと息を呑むのが聴こえてきた。その驚きはどちらの意味なのだろうか。響介が思わず視線を律へと向けると、彼はこれまでにないほど高揚した様子で目を見開いているのが見えた。 「凄いよ、響介! 初めてなのに完璧だ。趣味で耳コピしてるって聞いてたから、まさかと思ったけど……素人でこんなに音感が良い人、初めて見たよ」  律は気持ちが高ぶるあまり、矢継ぎ早に響介を褒めそやした。瞳を輝かせてうきうきと語る律を見ていると、響介の気持ちは不思議なことに、却って張り詰めていくようだった。  そんな響介の気持ちはつゆ知らずか、律は話を続けた。 「響介なら音大だって夢じゃないよ! 楽器科は流石に高校からじゃ間に合わないだろうけど……これだけ才能があるんだから、声楽志望ならきっと! もっと磨けば、プロのボーカリストだって!」  響介はいつの日だったか、彼に『音楽の才能がある』と同じように褒められた時のことを思い出した。  しかし、今日は何故かあの時のような、調子に乗る感覚が湧いてこない。それどころか、褒められているはずなのに、心の中に靄のようなものがかかってくるのだ。 「そうだ。響介にもっと良いプロの講師をつけて貰えないか、父さんに頼んでみようかな……響介ほどの才能なら、僕が教えるよりももっと伸び代があると思うんだ」  律の話がだんだんと飛躍していく。楽しそうに語る律に反して、響介は胸の内に名状しがたい陰りが差し込むのを感じた。  それでも返す言葉が思いつかない響介に対し、律の想いはさらに馳せ回っていく。 「父さんだって、響介のあの歌声を聴いたら、きっと投資を考えてくれるはずだよ。どうかな響介、一度父さんに……相談を……」  律は話しながら響介の方を向いた。そしてやっと気が付いた。  響介の表情は、他人の機微に疎い自分にすら見て取れるほど、すっかり曇りきっていた。それでも彼の口元だけは、律を困らせまいと笑っていた。  思わず言葉を詰まらせる。そんな律を見て、響介はようやく口を開いた。 「……なぁ、律。俺って、“お前と”上手くやっていけそうかな?」  響介なりに、選んだ言い回しだった。褒めたてられるあまり、響介はまるで自分が律から突き放されているように感じていた。  律に離されたくない一心で、響介は笑顔を作った。 「俺は……頑張りたいって思ってるよ」  響介の切なげな笑みに、律は凍りついたように固まってしまった。「僕は……」口を開きかけたものの、律はその後を何と続けていいかわからず、そのまま黙りこくってしまった。  空気が気まずさに澱んでいくのが感じられる。払い除けるようにかぶりを振ると、響介は殊更に満面の笑みをみせた。 「な! 一緒に頑張ろうぜ、律。 俺もエレキギターはゼロからだけど、頑張るからさ!」  律は“一緒に”という彼の言葉を、苦々しい顔で噛み締めると、黙って頷いた。
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