十話 後編

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十話 後編

---  あれは確か、中学に上がる少し前のことだった。  律は夏休みが終わる前になると、よく父から誘われて、ベランダで打ち上げ花火を眺めていたものだった。幼い頃は病気がちで体が弱かった律は、人の多い場所に行く機会が殆どなく、代わりにこうして家族と過ごすことが多かった。  鳴り響く破裂音に驚いて思わずフォルテにしがみつくと、背後から笑い声が上がった。当時のフォルテはまだ仔犬だったにも関わらず、大きな音にも一切動じることなく、悠々と尾を振り夜空に咲く大輪の光を見つめていた。  ベランダの柵の隙間から通りを覗き込むと、夏祭りへと向かう人々が道へ列を成しているのが目に入った。その光景はなんだか花火よりも眩しく見えて、小さな胸がぎゅっと締め付けられるように感じたのを、今でもよく覚えている。  思わずフォルテを抱きしめる腕に力を込めると、彼女は律の様子を伺うように頬をクンクンと嗅いだ。  後ろの父から「一緒に行ってみるかい?」と聞かれたが、律は首を横に振って嫌がった。彼は幼いながらも、既にああいった輝かしい世界は、まるで自分には身の丈に合わないものだと考えていたのだ。  こうして遠く離れたベランダから、空に打ち上がった花火を眺めているだけでじゅうぶんだった。  夏祭り当日。一足先に準備を終えた響介は、自転車を漕いで椀田家へと訪れていた。律は予定より早い時間にインターホンが鳴ったことに、驚きながらも出迎えた。  すると、響介のあまりにも分かりやすく期待に満ちた顔が視界に飛び込んだ。口元の緩みを隠しきれていない彼に対し、律は笑いを堪えながら支度を終える。  二人が家から出る頃には、響介は顔どころか身振りにも期待が漏れはじめたのか、はやる気持ちを抑えられず、律より一歩前をソワソワと走り始めるのだった。  神社に近づくにつれ、道を歩く人の数が増えていき、律は胸の内がざわつき始めるのを感じた。かつて身体も心もまだ小さかった幼い頃の自分が、畏れを感じていたあの喧騒が近くなっていく。  霞んだように遠かった祭囃子の音は、だんだんと賑やかさを増して耳へと響いてきた。楽しげに拍子を打つ太鼓の音に、律の心臓もつられて拍を打つようだった。 「律! 早く行こうぜ!」  前方から聞き慣れた声が律を呼ぶ。響介は提灯の暖かな明かりの下で手を振って、その金の瞳も明々と輝いていた。 「待って、響介!」  律は緊迫した胸の内から、熱い空気を吐きながら走り出した。周囲の人々が派手にはしゃぐ響介を微笑ましそうに眺めていたが、そんなことには目も暮れず律は響介の元へと駆け寄った。  ようやく彼へと追いつくと、律は思わず響介の腕を掴んでいた。 「わっ、何だ急に?」  響介は驚いたが、律の心境は知って知らでか、突然のボディタッチに満更でもない様相で頬を赤らめた。呑気に紅潮している響介に対し、律は青ざめた顔で答える。 「置いていかれるかと思った」 「置いていくわけないだろ?」  響介はさも当然そうに、平然と笑ってみせた。律はそんな彼の笑顔を見て、冷えかけていた胸の奥がじんわりと暖まるように感じたのだった。  屋台の列へと入っていくと、人の数もどっと増えたので、二人ははぐれないよう並んで歩き始めた。隣の律と周りの屋台をいっぺんに気にしているのか、響介は落ち着かない様子で辺りをきょろきょろと伺っている。  律は小型の扇風機のように首を振っている響介の隣で、ぼんやりと過去の記憶を思い返していた。あの頃、まだ自分と同じくらいの大きさだった愛犬に、必死にしがみついて怯えていた自分。彼に今の自分の状況を話したら、信じるだろうか。  そんな空想を脳裏に浮かべていると、ふと律の視界にきらりと艶めく赤い光が映り込んだ。 「ねえ響介、あれって美味しいのかな」  思わず屋台を指さして尋ねると、隣の響介も興味深そうに首を傾げた。 「りんご飴か。どうだろう。俺も食べたことないなあ」 「半分こしようよ」  律は言うや否やりんご飴の屋台へと向かった。ベランダの上から眺めているだけだった幼い自分が、密かに憧れていた人々の行列。そのうちの何人かが、棒に刺さった綺麗な赤い珠を持っていたことを覚えていたのだ。  会計を終えて実物を手にすると、律は思わず感嘆のため息をついた。遠くから見ているだけだった景色が、今は目の前に広がっている。それどころか、その真っ只中に自分がいるのだ。  りんご飴を手にしたまま呆けていると、響介が浮かれた様子で尋ねた。 「なあ、それどんな味なんだ?」  律は頷いて、試しに一口齧り付いた。薄く包まれた飴がぱりんと割れると、続いてりんごのしゃくりという感触がした。 「……甘い」  律は目を見開きながら呟いた。味はとにかく甘いとしか言いようがなく、正直美味かと問われると微妙な所だった。しかし律は落胆するどころか、不思議と愉快な気持ちで満たされていた。  物欲しそうに視線を向けていた響介にりんご飴を渡すと、彼は律の齧った方の反対側へと豪快にかぶりついた。 「ほんとだ。これ甘いなあ」  もごもごと咀嚼している響介の頬に、赤い飴の片が付いているのを見て律は笑みをこぼした。「飴、くっついてるよ」と指摘すると、慌てて顔を拭い始めた響介に「律もついてるぞ」と言い返されたので、むしろ律の方が焦る羽目になってしまった。  ハンカチで顔を拭いている間にも、響介は「今度は塩っぱいものが良いなあ」と次の屋台を探し始めた。残りの飴を、再び顔に付いたりしないよう慎重に齧りながら、律も後に続く。  食べ進めていくうちに飴はぐらつきはじめ、いまにも棒から取れそうになってしまった。飴を落とさないように悪戦苦闘している間にも、響介は前へと進んでいく。  彼の背中と、こぼれ落ちそうな飴。両方に意識を向けていると、律はそれ以外の景色を眺める余裕がなくなってしまった。  急いで食べ終えてしまおう。落ちそうな飴を、ハンカチを赤く汚しながら支えて噛みしめる。律の意識はすっかり手元に向いていた。前を歩く響介が、誰かを見つけたらしく、人の名前を呼んだことにも気づかなかった。 「よお成谷! お前も来てたんだな!」  忌々しいほど聞き慣れた声が耳に入り、律の意識は一瞬で前方へと向いた。響介の背中越しに伺うと、やはりその声の主はザネリ──沢根英里だった。沢根は相変わらず数人の友人達を連れて、軽薄な笑みを浮かべながら愉快そうに響介へと話しかけている。 「成谷も来るなら誘えば良かったぜ。それとも……ああ。そっちに先約が居たんだな」  どうやら沢根の方も響介の後ろの存在に気がついたらしい。彼の表情が露骨に険しくなったことに、流石の響介も気まずい空気を察したようだ。 「ああ、ええと……」  響介は眉を下げ、上手い返事も思いつかず、狼狽えるばかりだった。律は残った飴を一気に噛み砕き飲み込んでしまうと、顔を拭きながら彼の前へと乗り出した。  律の様子が以前と違い、やけに威勢がいいことに、沢根は怪訝そうに顔をしかめる。 「そう。今日は先約が居るの」 「ほう」  凛と言い放つ律の澄ました顔を見て、沢根も意外に思ったのか口角を上げた。彼とまともに言葉を交わしたのは、果たして何年ぶりのことだろうか。律も沢根も、互いにそう考えていた。 「そういうことだから。もう行こう、響介」  律はわざとらしく微笑むと、冷えた空気を振り払うように翻して、響介へと手を差し伸べた。一連の光景に動揺しきっていた響介は、思わず彼の手を握りしめた。  するとそれを見た沢根が、まるで囃し立てるようにヒュウと軽快な口笛を吹いてみせた。 「へえ。ずいぶん“仲良し”になったんだな、お前ら」  響介は沢根の煽るような発言に、血の気がすっと引くのを感じた。にやにやと狡猾そうに浮かべられた笑みから、初めて彼の悪意を感じられた。沢根の隣の友人達も流石にどよめきはじめ、部長に肘で小突かれた彼は「ああ、悪い」といかにも悪びれない謝罪を述べた。  対して律は、臆することなく堂々と、響介の手を堅く握り返す。 「そうだよ。僕らもう友達になったんだから。じゃあね」  律に腕を引かれ、響介も小さく別れの挨拶をこぼしながらその場を去った。心臓がばくばくと鼓動する音が、耳の中で反響しているようだった。  背後からは「頑張れよ」という野次と、挑発するような口笛が再びヒュウと飛んでくる。気づけば響介は顔を真っ赤にして、泣き出しそうなほど瞳を潤ませていた。 「どうしたの響介? 大丈夫?」  人気を逸れて木陰に入った律は、響介の顔を覗いて驚いた。 「ああ、うん。大丈夫。ごめん……律、手……」  律は響介の手を離した。握っているうちに汗ばんでいたのか、夜風が熱を奪って冷えていくのを感じた。響介も律も、ようやく緊張が解けて、深くため息をついた。 「響介は悪くないよ。僕の方こそごめん」  律の言葉に響介は首を傾げた。 「どうして律が謝るんだよ? さっきのは……」 「さっきのは」  遮るように言い放った律の顔は、何かを思い返しているのか、遠くを見るように目を伏せ、俯いていた。 「……元を正せば、僕が悪いんだ」  響介は返す言葉が出て来なかった。彼が何かを言うより先に、律は「今度ちゃんと話すから」と話題を逸らし、顔を上げた。 「だから、今日は一旦忘れてくれないかな。夏祭り、最初で最後かもしれないから」  律の切なげな笑みを見て、響介も同じように微笑み返して頷いた。  ヒュウ。あの耳障りな口笛の音は、数年以上の時が経った今でさえ、頭から離れそうになかった。律がまだ小学生だった頃──同じく幼かった彼は、よく律を揶揄うときにあの口笛を吹いていた。  律が良い成績をとって教師に褒められたとき。持病のせいで授業に出られなかったとき。事あるごとに何処からかあの甲高い音が飛んできて、律はその度に苛立ちを覚えたものだった。あまりに不快だったので、律は教師に沢根を叱るよう頼んだこともあったが、事態が良い方へ向くことはなかった。  当時周囲の人々は、大人だけでなく同級生も含め、どこか皆が沢根のことを避けている様子だった。彼が何かをしでかしてもまともに叱る者はおらず、その矛先は殆どが自分へと向かってくる。『あの子は可哀想な子だから仕方ない』という理由で、律は幾度も我慢を強いられた。  幼かった律には、あの頃の大人達が何故沢根を庇うのかが理解できなかった。しかし数年が経った今は、あの頃の大人達が何を考えてあんな対応をとっていたのか、少しは予想がつくようになっていた。  大方、大人達からすれば、あの頃の彼は“面倒な人物”だったのだろう。噂に聞いた程度で詳細は知らなかったが、当時の沢根は家庭に深刻な問題を抱えていたらしい。裕福で円満な家で育った律には想像もつかない状況だ。クラスでさほど交友関係を持たなかった律にすら、噂話が耳に入ったほどなのだから、彼の置かれた環境は相当酷かったのだろう。  大人達は優しさから彼を庇っていたわけではなかった。ただ問題を抱えている人物への対応が面倒で、より恵まれた環境にいる律の方が、少し我慢をすれば良いだけのことだと考えていたのだ。  しかし当時の律には、そんなことは理解ができなかった。むしろ、理解している今でこそ納得がいかなかった。あの頃の自分が大人達の考えを知っていたとしても、その後とった行動は変わらなかっただろうし、彼との関係も今とちっとも変わらなかっただろう。  小学四年生の頃──あの失態の舞台の少し前のことだ──いつものように口笛と野次を飛ばしてきた沢根に対し、律はついに我慢ならなくなって言い返した。  当時の律が正論だと信じて放ったその言葉が、沢根には相当“効いた”らしい。急に泣きじゃくって取り乱した彼は、その後中学に進学するまで、学校に来なくなってしまった。  たった一言、言い返しただけなのに。これでは自分の方が悪者みたいじゃないか。『お前は賢いし能もある。常に正しいことを判断し主張できる。けれどそれだけで人生が上手くいくと思ってはだめだよ』──父の言葉を思い返す。  一体、自分は何を間違えたのだろうか? 「律!」  隣にいた響介に名前を呼ばれ、律は我に帰った。顔を上げると、ちょうど花火が打ち上がったところだった。  真っ黒い空の宙で、輝く灯が盛大な音を鳴らしながら弾け飛んでいく。綺麗だ──次々と上がってくる花火たちは、さっきまで律の頭の中を覆っていた靄のような考えを、全て吹き飛ばしてしまうかのようだった。  するとどこからか、誰かがわあっと歓声を上げるのが耳に入った。提灯の薄明かりに、花火の鮮彩が明滅しながら入り混じる。辺りはすっかり賑やかさを増していた。 「やっぱ花火って、でっけえ方が綺麗だな」  ふと響介が呟いた。先日の手持ち花火のことを思い出したのだろう。横目に見やると、彼の金色の瞳は、まるで現れては消えていく光の一粒一粒を、全て収めようと瞬いているようだった。  自分も今にも過ぎ去っていくこの楽しいひと時を、しっかりとその目に焼き付けよう。律は響介へと一歩近づいた。 「うん。打ち上げ花火をこんなに近くで見たのは初めてだ」  自宅から遠目に眺めていたときよりも、よほど大きく見える花火の下で、律は輝く空を仰ぎ見た。次々と色を変えていく光が、律の暗灰色の視界を彩っていく。 「本当に綺麗だ。……けど僕は、やっぱり響介とやった河原の花火も綺麗だったと思うよ」  響介は律の言葉に驚き、思わず隣の彼の顔を覗き見た。律にとっては、響介と遊んだあの河原の手持ち花火も、今しがた眺めているこの大輪の打ち上げ花火も、どちらも比べようがないほど美しく見えているのだろう。  ブルーグレーの瞳に花火の色彩が反射して、いつもは伏せがちな律の表情はきらきらと明るく灯っていた。夏の夜の暑さでほんのりと赤く染まった頬を少し上げ、律は楽しそうに微笑んでいる。  彼の笑顔を見ていると、やはり響介は心が昂り、どこか気持ちが落ち着かなくなるのだった。先程沢根に煽られたときとは違う意味で、またも心臓がばくばくと高鳴り始めた。 『ずいぶん“仲良し”になったんだな』──今は空いている右手から、さっきまで繋がっていた律の温もりを思い出す。この胸騒ぎは、やはり恋心なのだろうか? ああしかし、彼は自分と同じ男性じゃないか! 男の子に恋なんかしてしまったら、母さんにどう説明したら良いのだろうか。  “ママ、貴女を泣かせるつもりじゃなかったんだ”──不意に、放浪者の狂詩曲が脳裏を過ぎる。“どのみち風は吹くんだ”──揺れる響介の背中を押したのは、やはり英雄その人だった。 「なぁ、律」  無意識に上ずる声で尋ねると、律は無邪気そうに笑って振り返った。 「どうしたの?」 「あ、あのさ……俺、言いたいことが……」  緊張で張り裂けそうな胸を押さえて、響介は必死で言葉を選ぼうとした。何から伝えるべきだろうか。そもそも、この気持ちは彼に伝えてもいいのだろうか?  まごつく響介を見て何を思ったのか、律は微笑みながら首を傾げた。 「大丈夫? なんだか顔が赤いみたいだけど。夏風邪でもひいちゃった?」  響介は勢いよく首を横に振った。紅潮しているのが律にバレているとわかってしまうと、彼の焦りは余計に積もるばかりだった。このままでは更に気まずい空気になってしまうだろう。  勢いに任せて響介は口を開いた。 「律! 好き……」  瞬間、律が目を見開いたように見えて、彼は慌てて言葉を紡ぐのだった。 「……な、人とか、いる?」  言ってしまってから、響介は頭の中でがっくりと項垂れた。好きだとはっきり告白する度胸もなければ、言わずに留めておく理性もない。どちらにも転べず、つい中途半端なことを言ってしまった。  やっぱり今の言葉は聞かなかったことにしてほしい。そう言おうとする前に、律は突然けらけらと笑い始めてしまった。 「っふふふ……」 「な、なんで笑うんだよ?」  狼狽えている響介はさておき、律はかぶりを振った。 「ううん、ごめんね。馬鹿にしているわけじゃないよ。急に話が逸れたから笑っちゃった。あいにくだけど、僕は恋のアドバイスとかはできないよ」  どうやら律は、響介が恋愛関係の助言を求めているものだと勘違いしたようだ。彼はおかしそうに笑いながらも、その表情には少しづつ陰りが差していく。 「……律?」  響介が心配そうに眉を下げると、律は深く頷いた。 「僕、今まで人を好きになったことがないんだ。好きな人なんていたことがないし、参考になる話はできないよ」  何かを思い返しているのか、やがて律の表情が憂いを帯びていく。今の響介には彼のそんな顔さえも、どこか儚げで、愛しく感じてしまうのだった。 「昔……中学の頃だったかな。付き合っていた女の子がいたんだけど、すぐに別れちゃって。あれからもう、誰とも付き合わないって決めてるんだ」  どこかで聞いたような話だった。響介が思わず「どうして」と小さく尋ねると、律は神妙な面持ちのまま話を続けた。 「向こうから告白されて……最初は断ったんだ。僕は人付き合いが下手な方だし、うまく付き合える自信なんてなかったから。けれどその子はあんまり必死だったから……つい、可哀想かな、なんて思っちゃって。好きでもない子と同情心で付き合うなんて、僕の方が間違っていたんだ」  周囲が打ち上がる花火に沸き立つ中、二人の間の空気だけが静まり返る。響介は黙って律の話に聞き入った。  律の心境は痛いほどわかる。真面目で心優しく、不器用で臆病な彼のことだ。頼まれたらつい受け入れてしまうのだろう。それがたとえ律の本心ではなかったとしても。 「それに、もしかしたら付き合ううちに、本当に彼女のことを好きになれるかもしれないって思ったんだ。けれど、間違ってた。僕は付き合うどころか、手を握るのも怖かったし、会話をするのさえ苦しかった。彼女も僕が嫌々付き合ってるってことに、すぐ気がついたんだと思う」  律は脳裏に浮かんだ過去の記憶を、入れ替えるように深く呼吸した。屋台の食べ物と、火薬の匂いが入り混じる、少し湿った暑い空気が胸の内を満たす。律の顔色が再び明るくなった。 「『ちゃんと私のこと好き?』って聞かれて、その度に僕は心にもない『好きだよ』って言葉を言って。そんなことをしてたから、最後には『あなたを好きにならなければ良かった』なんて言われちゃった。そりゃそうだよね、僕なんか良い人のフリをしたくて、ずっと嘘をついていたんだから」  わざとらしくおどけて笑いながら、律は吐き出すように言いきった。彼の切なげな笑みに、響介は胸が締め付けられるような気持ちになった。 「ね、ひどいやつでしょ。ごめんね響介、せっかく聞いてくれたのに役に立てなくて」  まるで仮面を被って造った笑顔に、小さなひびが入っていくようだった。響介が何も答えられずにいると、律は取り繕うように空を仰ぎ、話をすり替えた。 「あぁ、そうだ。響介の言いたいことって何だったの? もしかして、また好きな人ができたの?」  期末テストの頃のことでも思い出したのだろう。律は今度は作り物ではない、純粋な笑みをして尋ねた。響介は俯きながらかぶりを振る。 「ううん。やっぱりいい。言う必要、なくなったから」  一体何のことだったのだろうか。律が呆気にとられていると、響介は振り払うように空を仰ぎ見た。律も今一度空を見上げる。頭上で花開く光の輪は、二人のぼんやりとした陰りを照らし、小さな窮愁(きゅうしゅう)なんかはかき消してしまうのだった。  ふと、いつの日か沢根が言っていた、『恋と愛は違うものだ』という言葉を思い出す。響介は、律に言いたくて仕方がなかった『好きだ』という気持ちを、心の奥へとしまい込んだ。  こんな欲求じみた恋心は、ほんとうに律のことを想うなら、隠しておくべきだ。優しい彼のことだから、もしもこの気持ちを打ち明けてしまったとしても、きっと拒まないだろう。そうしたら、彼には代わりにもっと辛い思いを強いてしまうのだ。  すると不思議なことに、響介の頭の中はすっきりと晴れて、心の中は暖かく満たされていった。これが恋ではなく、愛だというのだろうか。その暖かさがあまりにも胸の中をいっぱいに満たしているので、響介は少しだけ苦しいと感じていた。 「そうだ。僕も響介に言いたいことがあったんだ」  たった今思いついたように、隣の律が呟いた。 「響介、僕……やっぱり響介と一緒に音楽がしたいよ」  唐突な律の言葉に、響介は狐につままれたような気分になった。 「なんだよ改まって。もう、既に一緒じゃないか」  律は首を横に振る。響介と同じ夜空を見上げて、同じ光をその目に宿すうちに、彼の中にはある決意が溢れてくるのだった。 「ううん。僕の方は違ったんだ。僕は今までずっと、響介の音楽への熱意に、ただ便乗してついて行ってるだけだった。けど、本当は憧れていたんだ。響介みたいになりたかった」  律の口から自分に対し、憧れという単語が向けられたことを、響介は意外に感じていた。しかし言葉を紡ぐうちに律の声は強張っていき、さらに熱意が籠っていく。 「響介は、君自身はそんな風に思っていないかもしれないけれど……初めて君の歌を聴いたときから、ずっと凄いって思っていたんだ。響介のことは、自分なんかよりずっと上の人だって思ってた。だから今までは、響介の後ろからついていくだけで満足してたんだ」  そんな。そう声に出しかけて、響介は口をつぐんだ。律は響介が思うより、ずっと立派なはずだ。けれど彼は、ずっと勇気が足りなかったのだ。そんな律が、今は懸命に前に進もうとしている。 「今は、一緒にいきたいって思ってる。響介の、隣で音楽がしたい」  響介は思わず律の手をとった。堅く握り返す律の手は、前よりずっと熱くなったようだ。 「一緒にやろう、律。俺、やっぱりお前のことが好きだ」 「ありがとう、響介。一緒に頑張ろう」  響介の言葉に、律は嬉しそうに応えた。勢いで口から飛び出していった、響介の『好きだ』という言葉は、律には恋愛感情として受け取られなかったようだ。  それでも良い。むしろそうであって欲しい。響介は喉元いっぱいにまで込み上げる暖かさが、目蓋から溢れ出てしまわないように、視線をひたすら花火の光へと注いだ。  光の花びらが、音を立てて散っていく。夏が、終わっていく。
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