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十一話 前編
「成谷、この前は悪かった」
「えっ? 何が?」
九月一日の朝。新学期の登校初日、真っ先に響介へ声をかけたのは沢根だった。いきなり頭を下げられたのでわけもわからず呆然としていると、沢根は拍子抜けした様子で顔を上げた。
「おいおい成谷、まさか覚えてないのか? 夏祭りの事だよ。俺、成谷にひでえこと言っただろ」
「あー……そんなことあったっけ」
響介は首を傾げた。あの日彼は確かに、夏祭りに二人で訪れていた響介と律へ向けて、煽るような態度をとっていた。
あの時の沢根は狡猾そうににやにやと笑みまで浮かべていた。しかし今は何故か、急に別人になってしまったかのように弱気な様相で眉を下げている。
「……成谷はそういうの、あんまり気にしねえタイプなんだな」
そう呟く沢根の顔は、むしろ自分の方が悲しんでいるかのように見えた。
「けど、埋め合わせはさせてくれよ。何か奢るでも良いし……この借りは必ず返すからさ」
言うが早いか、沢根は気まずそうにそう告げると自分の席に戻っていってしまった。
響介が彼の背へと向けて「ああ、うん」と煮え切らない返事を投げかけると、沢根は黙って手を振り返した。やはりその背もどこか影を負っているようで、沢根のほうが余程落ち込んでいる様子だった。
響介は入学したばかりの、まだ隣の席の友人だった頃の彼を思い返した。あの頃の沢根からは、気さくな明るい人物という印象ばかりを受けていた。
しかし、ここ最近の彼はどこか様子がおかしい。先日は響介の背筋を冷やすほどの悪意をちらつかせたかと思えば、今は気づまりした様子で顔を青くしているのだ。
鞄の中に入れていたギターピックを取り出して、響介は再び思案した。沢根が響介の誕生日にくれた贈り物だ。
響介は沢根のことを、少なくとも悪い人物ではないと考えていた。けれどあの夏の夜に垣間見えた悪意も、確かに彼の一部なのだろう。恐らく律がかつてそうだったように、沢根もどこかに不器用な問題を抱えているのではないだろうか。
ただ一つだけはっきりとわかるのは、その問題は響介にはどうすることもできないということだった。
午後のホームルームを終えた後、ふと前の席からため息が聞こえ、響介は顔を上げた。
「どうしたんだ、律?」
「どうしたもこうしたも……体育祭だよ。出ないと駄目かな……」
振り返った律はあからさまに疲弊しきった顔で呟いた。先程ホームルームで議題に上がった体育祭の話だ。彼にあまり体力がないという話は以前から耳にしていたが、律がここまで露骨に厭そうな顔を見せるのは初めてだった。
「駄目っていっても、最低一種目だぜ? 一個ならなんとかなるんじゃないか?」
共高の体育祭は一人一種目以上の出場が原則として決まっていた。体育が得意な者は複数目出場することもあり、響介もたった今どの種目に立候補するかを悩んでいた所だった。とはいえ、その悩みの方向は律とは真逆のものだ。
「その最低一種目が問題なんだよ。僕は走るのも遅いし、筋力もないし、コントロールも下手だから……リレーも綱引きも玉入れも、どれを選んでも憂鬱だ」
「ううん……」
響介はむしろ、どの種目にも出たいくらいの心持ちだった。とはいえ、体育が苦手な律の気持ちを全く理解していないわけではない。
「その中なら、一番手を抜いてもバレなさそうなのは綱引きだけど……」
意見を述べたものの、響介には気がかりなことがあった。共高では、体育会系の人物は少数派だ。そのため綱引きは競争率の高い種目であり、抽選で選ばれなかった場合は第二希望、第三希望へと繰り下がってしまう。
何より響介は、律が日頃から運動を嫌だ嫌だと避け続けていることも懸念していた。彼は他所の高校より少ないはずの共高の体育の授業さえ、教師の隙をついて手を抜いているほどだった。
運動音痴は運動を避ければ避けるほど悪化してしまう。このままだと律の運動不足は日常生活にまで支障をきたすかもしれない。それならいっそ、と響介は手を叩いてみせた。
「律、短距離リレーにしようぜ。俺が走り方とバトンタッチのコツを教えるからさ!」
「えぇーっ!?」
リレーという単語を聞いた瞬間、律はこれまでにないほどの嫌悪感を顔に滲ませた。
放課後、早速河川敷で練習が始まった。練習といっても軽いジョギングと、走る姿勢を少々正す程度のものだ。
しかしそれでも律はものの数分もしないうちに疲れてしまい、息をきらせながら立ち止まってしまった。
「はあ……やっぱり無理だよ。こんなに走るのが遅いのに……リレーなんて、クラスで恥かいちゃうよ」
対して響介はというと、未だ元気が有り余っているのか、膝に手をついて項垂れている律の周りをうろうろと走り回っていた。
持久力には心肺機能も関わるというが、響介の体力は相当のものだった。あれだけ大きな歌声を安定して出せるのだから、相当の肺活量を持つのだろう。
「大丈夫だよ律。本番はたったの百メートルだぜ? 短距離なんだから体力がなくたって、コツさえ掴めばずっと早くなるって」
「そうかなあ……百メートルって、僕には結構長く感じるんだけど……」
響介の体力の高さも相当だが、律の体力のなさも相当だった。これでは先が思いやられる──律は早くも挫折しかけていたが、響介は正反対だった。
次の日も、その次の日も、響介は嫌がる律を文字通り引きずって練習へと駆り出した。とはいえ、走りに慣れない律の脚が痛まないよう、あくまでも軽い練習に留めていた。
走りを上手くするコツは継続だ。急がず焦らず、律が少しでも運動嫌いを克服できるよう、響介は毎日懸命に彼に寄り添った。
響介はあまりにもやる気に満ちており、律が少しでもその気を見せると大はしゃぎして褒めたてた。律の方も満更でもないのか、次第に興が乗ってきたらしく、日が経つにつれ練習を嫌がらなくなっていった。律の心境の変化に伴い、響介もまた満たされていくのだった。
一学期の頃は、勉強も音楽も響介のほうが律から教わることばかりで、今まで彼は一方的に与えられるばかりの立場だった。これで少しは律に報いられただろうか。
練習時間も走行距離も少しづつ伸びていくことに、響介は充足感を感じていた。
「そうそう。上半身は力を抜いて、視線は意識して前に……だいぶ良くなってきたんじゃないか?」
「そ、そうかな? でも、確かにあんまり疲れなくなってきたかも」
律は、走りながらでも顔色を明るくさせられる程度には、運動に慣れつつあった。響介は予め目標にしていた木の横を彼が横切ると、ストップウォッチのスイッチを切った。
「おう! 記録もまた更新してるぜ。すげーよ律! どんどん出来るようになってるじゃんか!」
やや大袈裟な褒め方だったが、律は彼の言葉に照れ臭そうに口角を上げた。
そもそも酷く苦手意識を持っていた運動を、これだけ長く続けられたのは、隣にずっと響介がいたからだ。思わず顔を綻ばせて頷く律に、響介も眩しいほどの笑顔をみせた。
「じゃあ次はランニングの走り方だな! それが出来るようになったら、バトンタッチの練習だ!」
「ええっ……」
追いついたそばから引き離されたような感覚に、律は思わずまたため息をついてしまうのだった。
「椀田くん」
数日後の放課後のことだった。律はいつも通り練習に向かうべく、荷物を片付けて響介を待っていた。すると、不意に見覚えのある少女から声をかけられた。
「……飯野さん」
飯野長月──確か彼女は、委員長というあだ名で呼ばれていたはずだ。特徴的なポニーテールの髪型をした少女は、律へとにこやかに笑みを向けた。
「あはは、話すの久しぶりだね。話しかけて大丈夫だったかな?」
「ううん。別にいいけど」
彼女と会話を交わすのは、中学以来のことだった。一度だけ、三年の合唱コンクールの時期に話したことがあったはずだ。
当時の律はあまりいい返事をしなかったはずだが──委員長の方は、律が彼女のことを覚えていたのを嬉しく思っている様子だった。
「成谷くんから聞いたよ。体育祭に向けて練習してるって。頑張ってるんだね!」
「あはは、まあ……」
律は思わず苦笑した。響介の口が軽いのか、彼女の口が上手いのか。いずれにせよ、練習のことは響介以外の人物にも伝わってしまっているようだ。
一方、愛想笑いといえど律が笑みを見せたことに、委員長はますます喜びを感じたようだ。彼女はトンと手を叩いて、花を咲かせたように笑顔をみせた。
「椀田くん、最近すごく明るくなったよね。なんだか私、勝手に嬉しくなっちゃった」
「そうかな……」
律は彼女の言葉にわずかに戸惑った。昔の自分だったら、明るくなったなんて言われたら『そんなことはない』と言って突き放していただろう。そう思えば、今は戸惑いつつも受け止められるだけ、確かに進歩しているのかもしれない。
律の心の内にも、ほんのりと嬉しさが込み上げてきた。
「文化祭も頑張ってね。楽しみにしてるよ。椀田くんの演奏、すっごいもん!」
「えっ、文化祭?」
晴れやかにそう語られた彼女の言葉に、律は急に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてしまった。
「あれっ、舞台に出てくれるんじゃなかったの? 成谷くんがすごく乗り気だったから、てっきり……」
きょとんと目を瞬かせる委員長の姿に、律は思わず頭を抱えた。どうやら、“響介の口が軽い”が正解だったようだ。
「ごめん、律……やっぱり舞台に立つのは無理そうか?」
律が文化祭のことを問うと、響介はあっさりと自分の非を認めた。委員長と文化祭の舞台の参加枠について話をしているうちに、つい盛り上がってしまい、勝手に『舞台に出たい』と話してしまったのだそうだ。
共高の文化祭の舞台演目には、部活動やクラス活動以外にも、いわゆる個人枠が存在する。実行委員会による選考を通過すれば、誰でも舞台に上がることができるのだ。
響介としては、あくまでも希望として口にしたに過ぎなかったらしい。しかしそこに自然と自分の存在が含まれていたことに、律は二重の意味で顔をしかめた。
響介は少々勝手なところがある。だが自分が音楽を共にする者として、当たり前のように一緒に数えられているのは、やはり満更でもないことだった。
手を顎に当て、深く考え込む。響介の隣で音楽がしたい──先日、律は自分でそう宣言したばかりだった。“舞台に立つのは無理そうか?”──自分の心に、再度問いかけてみる。
考えた末に、律はかぶりを振った。
「一緒に出よう、響介。僕……頑張ってみる」
過去の失態が怖くはないかというと、それは嘘になる。しかし律は、今の自分なら、そして響介と一緒なら、舞台にだって立てそうな気がしていた。苦手な運動を克服しつつあることで、多少は自信をつけているのだろう。
「律‼︎」
「うわっ」
顔を上げると、響介が急に腕を広げて飛びかかってきた。気づけば律は響介の腕の中にすっぽりと収まっており、嬉しさが有り余っているのか、彼は律に抱きついたまま飛び跳ねて喜びはじめた。
「俺もすっげー頑張るから! 律も頑張ろうな! 体育祭も文化祭も、絶対成功させるぜ!」
ゆさゆさとなす術もなく体を揺すられるがまま、律は苦笑した。しかしその後に響介の口から飛び出た発言によって、律の笑みはますます苦々しくなるのだった。
「俺、実はもうバンド名も考えてあんだ! 早速実行委員に申請してこねーと!」
「えっ、バンド名?」
嫌な予感がする。そして律の予感は見事に的中してしまった。
「ワンダ&ナリヤ! シンプルで逆にカッコいいだろ⁉︎」
「だっっっさ‼︎」
脱力のあまり崩れ落ちかける律を、響介は慌てて抱き上げた。
しかし、自分達の名前をバンド名に組み込むという発想は悪くない。試行錯誤の末、ワンダの部分はそのままもじり、後半は響介の名前の『響く』という字をとって、レゾナンスと付けることにした。
ワンダーレゾナンス──直訳するなら、不思議な共鳴といったところだろうか。二人だけでロックを奏でようとするのは、確かに不思議なことだ。
昨今は打ち込み音声の技術発展に伴い、ロックをデジタルで表現すること自体は難しくなくなった。しかしそれでもロックバンドの主流は四、五人以上のグループだ。それも舞台で演奏するとなると、響介のギターと打ち込み音声の音響だけでは迫力に欠けるだろう。
帰宅後、律は早速響介に通販サイトの写真を添えたメールを送った。夏休みに楽器店で見ていた、あのショルダーキーボードだ。ギターのように肩掛け出来る形状のキーボードなら、表現の幅も広がりそうだと考えたのだ。
とはいえ、若かりし頃の“先生”のように、ショルダーキーボードを舞台に叩きつけてぶっ壊す──というレベルの派手なパフォーマンスは、律には到底不可能だ。しかしショルダーキーボードを上手く使いこなせば、響介と一緒に立ち位置を変えたり、少しステップを踏んでみるくらいは出来るだろう。
何より律は、響介の隣に立ちたくて仕方がなかった。明るく快活な彼を真似て、自分も少しくらいは弾けてみたかったのだ。響介と一緒に、壇上でどんなパフォーマンスをしてみせようか──いやいや、先に実行委員の選考を通らなければ。はやる気持ちのまま、まるで律の心も跳ねるようだった。
律はすっかり浮かれ気分でいた。あまりにも調子が良すぎたのだ。最近は何をしても上手くいっている。隣に響介がいるおかげだ──引っ込み思案だった彼は、やっと前を向くことができるようになっていた。
だからだろうか。律は前ばかりを気にするあまり、自分の体調の変化に気がつかなかった。
体育祭本番を控え、予定通り代表に選ばれた律のリレー練習は、佳境を迎えていた。ラップの芯をバトンの代わりに使い、律から響介へ、そしてまた律へと、二人は交互にバトンタッチの練習を繰り返す。
体力こそなかったものの、律は手先が器用で要領も良い。コツを掴んだ途端タイムはぐんと縮んでいき、その度に二人は声を上げて喜んだ。
「後は本番だな! あっ、緊張しないためのおまじないの練習もしとくべきかな?」
呑気にそう言う響介に、律は何気なく頷いて返事をしようとした。しかし、声を出そうとした途端むせてしまい、返事の代わりに乾いた咳の音を出してしまった。
「おわ、律? 大丈夫か?」
「っん……ちょっとむせたみたい。大丈夫だよ。あはは、緊張してるのかも」
「ううん……なら良いんだけど。熱が出たら無理せず休めよ?」
笑顔を見せた律に向けて、響介も笑顔で返す。律が響介を信用するのと同じくらい、響介も律の『大丈夫』という言葉を信じていた。
その時、無邪気そうに笑っている律の顔からは、不思議と少しの不安さも感じられなかったのだ。
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