四話 前編

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四話 前編

 即興演奏というものは、案外不規則なものではなく、むしろコード理論の規則に則った知識や経験が必要なものだ。逆に言えばそれらがなければ、即興演奏が奏者のイメージ通りに奏でられることはないだろう。  響介と律。二人の即興演奏は、早くも規則から逸れ始めたようだった。  昨日の帰り際には『また放課後に』と約束を交わしたはずなのだが、どういうわけか現在二人は昼休みの音楽室に二人して忍びこみ、グランドピアノを囲んで問答を交わすことになっていた。  話はまた少々遡る。響介はやはり今日も、文武両道ならぬ文音両道について頭を悩ませていた。授業には集中しているものの、勉強について行くのに精一杯で、とてもじゃないが両道を行くような余裕はない。  これでは文と音のうち、音の方が遅れていってしまう。彼にとってはむしろ、音楽の方こそが本命のはずなのに、だ。  思わず昼食中にもため息をついてしまったので、沢根も部長も神絵師も、響介のことを心配した。  沢根は得意教科の数学なら「少しの基礎復習くらいは教えられるぜ」と提案してくれたが、響介としてはこれ以上、彼に借りばかりを作ってしまうのは流石に申し訳がなかった。  なんとかして、一人でも音楽の勉強ができる方法はないだろうか。そう思った彼がとった行動こそが、昼休みに一人で音楽室に忍び込む、という突拍子もない行為だった。  共高の音楽の授業は、選択教科の一つである。そして一学年で選択教科が始まるのは、五月以降のことだった。  もちろん響介は選択教科も音楽を選ぶつもりでいた。しかし正直なところ彼は、学校の授業で学ぶ音楽に、ロックや電子音楽といった大衆ジャンルの参考になるものは期待できないと思っていた。  その上選択教科の一つという括りの程度では、音大への進学に挑めるほどの勉強を、授業だけで賄うのは無理があるだろう。とはいえ、成谷家には音楽講師を雇うような金銭の余裕もない。  そこで自主学習という名目で、音楽室に何か参考になるものがないか、試しに覗いてみようと思った次第だった。  廃部になってしまったとはいえ、共高の過去にかつて有名バンドを輩出した軽音楽部があったことは事実だ。何かしらの資料は残されているかもしれない。  そう思ってこっそり教室を抜け出して、十分ほど辺りを探したところだったが、残念ながら響介の期待しているものが見つかりそうな気配はなかった。 「んー……なんもねえなー……」  おもむろに独り言を発しながら、響介は資料棚の楽譜本を手当たり次第に手にとってみたり、鍵のしまっている倉庫室をドア窓から覗き込んでみたり、果てには壁にかかったクラシック作家の肖像画を、順に眺めていったりなどの悪あがきをしていた。  そうこうしているうちに時間は過ぎていく。結局何の成果も得られそうにないので、響介は不意に、楽器でも触って帰ろうか、などと思い当たった。  黒板の近くに置かれている、響介が中に十人ほどは入れそうな大きさのグランドピアノへと、手を伸ばす。裏地の赤い、艶やかな光沢のあるピアノカバーへと手をかけた、その時だった。 「勝手にピアノに触るのは良くないよ」 「うわっ⁉︎」  振り向くと、入り口には昨日握手を交わして名を知ったばかりの、暗灰色の髪の少年が立っていた。 「な、なんだ律か……いつから居たんだよ?」 「『なんもねえなー』とか、独り言を言ってたあたりから」  律は平然とそう答えたので、響介は素直に驚いた。 「結構前から居たな⁉︎ なんで黙ってたんだよ……全然気配が無かったぞ、忍者かお前?」 「別に僕のことはいいでしょ」  いいわけがあるか。先日の放課後だって、そうして律に気配を消されたから、自分は教室に誰もいないものだと思ってあんな熱唱をしてしまったのだ。  そう言いたい響介を尻目に、律は目線を彼の顔から手元の方へと移した。 「それよりピアノ。繊細な楽器だから、素人が下手に触ると良くないよ」 「そうなのか?」  響介の疑問に、律はどう答えたものかと一瞬首を傾げ、 「二百万円」  と簡素に金額を述べた。 「にっ、二百万円⁉︎」  響介は仰天し、カバーをつまんでいた手を慌てて離すと、グランドピアノから飛び退く勢いで離れた。 「うん。学校にあるグランドピアノなら、大体そのくらいの金額だと思う。だから傷なんか付けたら大変だよ」  無人の教室に、こんなに堂々と置いてある“普通のグランドピアノ”が、二百万円もするというのだ。成谷家の年収と同じくらい──ということはさておき、響介には、小学校の頃から当たり前のように見知っていたこの楽器が、突如として高価な黒い宝石のように見え始めた。 「そんなにすんのかよ、ピアノって……俺のギターなんか五千円で買ったんだぞ」  響介は小学生の頃に、少ない小遣いをコツコツと貯めて買った、愛用の中古プラスチック製ギターのことを思い返していた。  単純計算で、あのギターの四百倍の値段だ。四百倍という大きすぎる数字に、却って響介の価値観は麻痺してしまうようだった。もう、それがどれだけ高価なのかすらわからない。 「随分と安いギターだね。というか、君ってギターが弾けるんだ?」  随分と安いギターという言い回しに、響介は僅かな苛立ちを感じた。しかし軽易で安直な響介も、そろそろこの口下手な少年は、ただ言葉選びが上手くないだけだということを学習し始めていた。苛立ちはそっと飲み込んだ。 「まあ、独学なんだけどさ。楽譜も殆ど読めないし……だから音楽室に、軽音楽部の資料とか残ってねーかなって思って……」  なるほど。律は首を大きく頷かせ、ようやく彼の突拍子もない行動の理由を理解した。 「軽音楽部の資料は……多分残ってないんじゃないかな。先輩が問題行動を起こしたって理由で、廃部になったらしいって聞いたから」  噂をかじった程度だけど、と律は補足したが、響介はむしろやっと腑に落ちた様子だった。 「あぁ……そりゃ通りでなんもねえはずだ」  そんな理由なら、確かに軽音楽部の資料が一つも残っておらず、楽器もみんな他校へ引き渡されてしまったわけが理解できる。ロックという音楽ジャンルは、悲しいことにこの令和という時代ですら、未だに素行の悪いものとして扱われているのだろうか。  響介はまた、本日何度目かもわからないため息をついてしまった。  ため息をつくと幸せが逃げるというらしいが、それなら幸せが逃げたことにがっかりして、またため息をついてしまい、これでは無限に幸せを逃し続けることになりそうだと思った。  一方律の方は未だにピアノが気になるのか、響介が離れた後でも、その視線はグランドピアノのほうへと向いていた。  響介はふと、そういえばそれまで黙っていた律が、急に自分に話しかけてきたきっかけも『ピアノに触らない方がいい』という注意だったことを思い出した。  彼は何か、ピアノに特別な思い入れでもあるのだろうか。響介はため息と不幸の無限循環は一先ず置いて、律の方へと気を向けた。 「律。ピアノが気になるのか?」 「えっ? あぁ……」  どうやら彼の方も、ピアノに視線を向けていたことに自覚がなかったらしい。律は呆然としていた表情を正して、目を響介の方へ移した。 「別に……それより響介、さっきどうしてピアノを触っていたの?」 「えっ、俺?」  質問に対して質問が返ってきたので、響介は戸惑った。先日の放課後からずっと思っていたが、どうにも律は会話のキャッチボールという行為が苦手らしい。響介は仕方なく答えた。 「いや、鍵盤ってどんなもんかなって思って」 「鍵盤?」 「うん、鍵盤。なんかあの、エレ……なんとかって音楽? 鍵盤の楽器を使うんじゃなかったっけ?」 「もしかして、エレクトロニックのこと?」  あぁそれだ、と響介が手を叩いて頷くと、どういうわけか律は呆れた様子で頭をかき始めた。  響介の頭の中では、電子の音といえばキーボードの印象で、キーボードといえば鍵盤、という繋がりになっていた。彼は先日沢根から教わったばかりの、あの電子の世界のオーケストラを、無意識に思い出すほど脳裏に焼き付けていたのだ。  一方律は、この困惑を響介にどう説明しようか、顔を仰がせて思案していた。 「エレクトロニックミュージックに、通常グランドピアノは使わないと思うけど……もしかして、シンセサイザーや電子オルガンあたりを混同してない? アップライトピアノを見間違えるならまだしも……」 「シン……? アップラ……?」  新たに現れたカタカナ言葉に、響介は余計に混乱し始めてしまった。彼にはシンセサイザーやアップライトピアノが、一体何なのかから説明しないとならないのだろうか。  そもそも響介はこの様子だと、電子ピアノの回路による発音方法と、アコースティックピアノの打弦の振動による発音方法の、根本的な違いを理解していない。全て一から教えないといけなさそうだ。  律は再び、どうしたものかと音楽室の天井を仰ぐことになった。小さな穴が均等に点々と空いた有孔ボードの天井が、まるで囲碁盤の星のように見えてきたところだった。 「なぁ律。やけに詳しいけど……もしかしてお前、そのシン……なんとかってやつ、弾けたりするのか?」  考えあぐねていた律に、響介のほうから声がかかった。 「まあ……嗜む程度に」  ぼんやりとそう答える律に対して、響介の反応は仰々しいものだった。 「マジで⁉︎ 弾けんの⁉︎ すげえな、弾いてみてくれよ!」 「ちょ、ちょっと待って、はしゃぎすぎだよ。そもそも普通科の学校の音楽室に、シンセサイザーなんて置いてないから」  律はいきなり詰め寄ってきた響介に、背中を逸らして慄きながら指摘した。 「あー、それもそうか……。あっ、じゃあそこのピアノは?」  さっき違うものだと言ったばかりのグランドピアノを指差され、律はもう目眩がしそうだった。思わず頭を抱えると、響介は慌てた様子で発言を捕捉し始めた。 「いや、そうじゃなくて。さすがに俺だって、もうコレとシンザ……なんたらが、別の楽器だっていうのはわかったぜ? でも何だかお前って、ピアノのこと好きそうだなって思ってさ」 「……好きそう?」  響介の言葉で、律の心中にどきりと緊張が走った。確かに律は、ピアノが好きだった。けれどそれは過去の話だ。  律が他人の前でピアノを──ましてやグランドピアノなんて大それた楽器を弾いたのは、あの乱にも満たない失態の舞台が最後だった。電子歌姫の作曲をしていたときには、自宅のアップライトピアノを何度か弾いていたこともある。しかし、それは自分一人しかいない空間でのことだった。  果たして、自分は今でもピアノが好きなのだろうか。古傷を引っ張られたような感覚に、律の表情はわずかに歪んだ。 「あれ……違うのか? さっきはピアノのこと、大事そうみたいな言い方してたから、てっきり好きなんだと思ったんだけど」  律は再び返答に迷った。ピアノのことを、『好きだ』と言ってもいいのか、『昔は好きだった』と言うべきか、いっそ『わからない』と答えてしまおうか。彼の頭の中では天秤がゆらゆらと揺れ続けていた。  響介は律儀にもそんな律を急かすことはせず、却って真剣な顔をして彼の返事を待っていた。まるでもう、律の答えは決まっているのを既に知っていて、あとはそれが出てくるのを待っているかのようだった。 「僕は──」  しかし律が答えを出すよりも先に、昼休みの終わりを告げる鐘の音が、彼の小さな声をかき消してしまった。 「……戻ろう、響介」 「えっ? お、おう」  さっさと音楽室を出て行ってしまった律の背を、響介は当惑しながら追っていった。  午後の授業は、不思議と午前の授業よりも身に入ってくるように感じられた。響介にとって、唯一の得意分野とも言える現代文の授業だったからかもしれない。ただし得意分野といえど、共高の平均学力の中で言えば、響介はそれでも中の下という程度だった。  放課後、響介は苦手な英語の復習をしながら、他の生徒が帰るのを待った。新しく学んだ英単語を、受験勉強の頃から愛用し続けている赤い透明下敷きで隠し、何度も覚え直す。やはり英語は苦手だ。単語とその意味がなかなか結び付かず、頭の中に入ってこない。  英単語が入らない頭の中で、響介は律のことを考えていた。今日は何故か急に昼休みに会うことになってしまったが、昨日の約束の通りなら、彼はまた放課後に教室に残るだろうと踏んでいた。  先に帰宅していく沢根達へと手を振り交わし、他のクラスメイトも続いて教室を出ていくのを見届ける。そうして徐々に静かになっていく教室の中心で、響介は後ろの席へと目をやった。  今日の博識少年──改め律は、いつもの読書をする代わりに、ノートへと顔を伏せ、何やら書き留めているようだった。  また自分から声をかけようかと思ったが、響介はふと、こちらからは律に対して出す話題がないということに気がついた。  昨日は自分本位の勢いで、彼に突っ込んでいくような気持ちで話しかけたが、今日の放課後はわけが違う。彼はもう、響介に対して火傷をつけるような、忌々しい人形少年なんかではないのだ。  考えを巡らせていくうちに、響介は律のことを、文字通り何も知らないと思い至った。  彼は暗灰色の髪と整った顔立ちをしていて、いつも一人で過ごしており、放課後に居残るほど読書が好きで、音楽にも詳しい。しかし、彼について知っていることといえば、それだけだった。  彼は一体何が好きで、どんなことを好むのだろう。響介からすると、律はそういった自分自身のことを、まるで包み隠しているように見えるのだ。  昨日手を握り交わした後は、確かに人らしい笑顔を見せてくれた。しかし昼休みの跡を濁した会話といい、彼は未だ響介に心を開いてはくれていないようだ。  もう人形ではなくなった彼に、人として接するのなら、今は何と話しかけるべきなのだろうか。熱心にシャープペンシルを握っている律に対し、響介はただ呆然と視線を向けていた。  集中しているのなら、こちらから話しかけるのも悪いだろうか。昨日までの響介の遠慮のなさは、彼が人形ではなかったと理解した時点で無くなっていた。  するとノートをとり終わったらしい律が、机の上を片付けながら顔を上げた。 「……響介」  律の方から名前を呼ばれて、響介は不意を突かれたように「えっ」だの「あぁ、うん」だのと言葉を詰まらせた。 「どうしたの、急に慌てたりして」  対する律は、今日も変わらず平然としている。 「いや、どうもしてないけど、なんとなく……」  文字通り、なんとなく気まずさを感じている響介に、律の方は却って調子がいいようだった。  何故か憑き物が落ちたような、さっぱりとした顔をして、律は微笑んだ。 「約束、覚えていてくれたんだ」  昨日のことだ。「そりゃ、俺から言ったもんな」響介は当然のようにそう答えたが、その一方で、互いに約束を覚えていたことに安堵した。 「響介。行きたいところがあるんだけど、着いてきてくれない?」 「行きたいところ?」  律は腹を括った様子で、そう宣言した。彼がこんなに堂々として、自分から何かを成そうとするところを見るのは、初めてだった。
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