一話 前編

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一話 前編

 成谷響介(なりやきょうすけ)は、舞台に立っていた。  それは栄光に満ちたように白白ときらめく、輝かしい舞台だった。舞台の向こうでは大勢の観客が手を挙げ、荒波を立てている。嵐の海のように騒ぐ歓声に響介の心は高揚した。そうだ、これからライブが始まるのだ。  響介はスタンドマイクを握りしめ、舞台の前方へと歩みを進める。歓声は彼の姿にますます湧き上がった。さあ、歌おう。俺たちの伝説がついに始まるのだ。  息を大きく吸い込んだ瞬間、響介の脳裏にピリピリと甲高い電子音が鳴り響いた。まさか、こんな機械的な音はロックじゃない。  戸惑いの最中、響介は意識が遠のくのを感じた。あの忌々しくけたたましい電子音だけが鳴り止まないまま、舞台の輝きは失われていく。  そして壇上は歪んでいき、彼は足元から崩れ落ちていった。  そのまま真っ逆さまに、響介は闇の中へと吸い込まれていく。深い、深い闇の中。“これは現実? それとも悪夢?”  闇はあまりにも深いのに、電子音は遠ざかる気配がない。それどころか、響介を追うように近づいてきて── 「痛っ‼︎‼︎」  気づけば彼は闇の底ならぬ、安価なタフテッド製のカーペットに伏せていた。  どうやら寝返りを打って、顔を正面から盛大にぶつけてしまったらしい。慣れ親しんだ質感が額や頬をちくちくとつつく感触がする。忌々しい電子音は未だ彼の布団の傍で、声高に朝の到来を告げていた。  ああ、あの輝かしい舞台は夢だったのだ。夢から覚めてすっかり冷えてしまった頭で、響介はそもそも、あのライブは確かに夢としか言いようのない光景だったと思い直した。  “俺たちの伝説”などと謳いつつ、その舞台に立っていたのは自分一人だけだった。ボーカリストしかいないロックバンドなんて、あるわけがないだろう。  ほんのりと寂しさを感じつつ、響介は懸命に彼を起こそうと叫んでいた、目覚まし時計のアラームを切った。電子音はようやく鳴り止み、そして彼はやっと気づいた。アナログ時計の針が、起きる予定だった時刻をとうに過ぎた位置を差している。 「やばい! 今日から初登校なのに遅刻する!」  響介は慌ててパジャマを脱ぎ捨て──ようとして、途中なかなか外れないボタンに悪戦苦闘をしつつ、人生で二度目に着るブレザーに袖を通した。(余談だが、中学の制服は学ランだったのだ)  そして母が出勤前に作り置きをしてくれた朝食のトーストを、味わう余裕もなく口に突っ込みながら、学生鞄を乱暴にひったくって家を出た。  アパートの階段を慌てて降りる途中、響介は玄関の鍵をかけ忘れたことに気づき、またドアへと戻った。悲しきかな、そうこうしているうちに時間は無慈悲に過ぎていく。  その後も慌てるあまり、玄関の鍵穴へ間違えて自転車の鍵を突っ込みかけるなどの暴挙に出つつ、ようやく響介は高等学校へと続く通学路に走り出た。  彼の高校一年の新生活は、こうして波乱な幕を開けることとなった。  ピシャリ! と教室のドアが騒騒しい音を立てて開いたので、響介は登校初日からクラスの視線をいっぺんに浴びることになってしまった。  慌てるあまり扉を開く手に力が入ってしまったのだが、そんな彼の焦燥も虚しく、教室内は既に朝のホームルームを迎えていた。  結局遅刻してしまった。響介は自身の肌に、まるで走ってかいた汗を追うように冷や汗が溢れてくるのを感じた。 「お、おはようございます……」  しんと静まりかえっていた教室に、響介の小さな挨拶は虚しく行き渡った。注目していた生徒たちは皆笑うでもどよめくでもなく、ただ登校初日から遅刻したクラスメイトを呆然と眺めるだけだった。 「ええと……成谷くんかしら? とりあえず、そこの席についてくださいね」  教卓に立つ、髪の長い担任教師の女性が、生徒名簿を見ながら響介の苗字を言い当てた。どうやら、もう既に出席を取った後らしい。  入学早々遅刻なんかしたのは自分だけだった、という事実に後ろめたさを抱きながら、響介は担任の指した教室中央の席へと向かった。  そこは何しろ教室ど真ん中の席だ。ただでさえ集まっていたクラスじゅうの注目をさらに浴びることとなり、着席するまでの間にも響介の後ろめたさは増すばかりだった。  こんなつもりじゃなかった……本当なら、今頃は輝かしい高校デビューを迎えているつもりだったのに。彼は早くも初めての高校生活に、不安を抱き始めるのだった。  そう。響介には、それはそれは輝かしい夢があったのだ。彼は幼少期から音楽の世界へ憧れ始め、中学の頃にはその夢をはっきりと野望として抱き続けていた。  しかし響介は母子家庭で育っており、金銭的な余裕がなく、生活も決して豊かとは言い難かった。これまでの彼には、安物のプラスチック製の中古アコースティックギターを、独学でかき鳴らし続けるのが関の山だった。  だが、今日から通うこの共高(ともこう)こと共立高等学校(ともたつこうとうがっこう)には、軽音楽部があると聞いていた。数年前にとあるロックバンドが卒業校として挙げ、当時の軽音楽部が話題になっていたのを耳にしたことがあるのだ。その上共高は自宅アパートから徒歩で通える距離という、響介にとっては願ったり叶ったりの環境にあった。  中学時代、あまり真面目とは言いがたく内申も良くなかった彼にとっては、共高はやや偏差値の高い難関校だった。しかし彼は音楽への憧れのため、苦手だった勉強をなんとか自力で克服し、滑り込みの成績で共高の受験に挑んだのだ。合格したのは奇跡としか言いようがなかった。  合格発表の当日は、会場で思わず声を上げて喜び、跳ねるように帰宅して母へと報告した。母も息子の門出を大いに祝ってくれた。その日の晩は合格祝いとして、久々に牛肉だけのハンバーグを焼いてもらったのだ。  あの日の記憶は未だに響介の脳裏に焼き付いている。入学式の当日なんか、もはや“これは現実かファンタジーか?”などと舞いあがった気持ちまで抱いていた程だ。  そんなことがあったからこそ、響介はこの春からの高校生活を、新たな転機として待ち焦がれていたのだ。あいにく遅刻という格好の悪いイントロとなってしまったが、音楽でいうなら、まだサビはおろかメロにすら入っていないところだ。  かいた汗をハンドタオルで拭いながら、響介は決意を改めた。 「よっ、炭鉱初日のカナリヤくん」  不意に隣の席から声が掛かった。「タンコウ?」と響介は聞き返した。  カナリヤくん、という言い回しは恐らく苗字の成谷のもじりだろう。しかし炭鉱初日というのは言い間違いだろうか。隣の席の少年は不敵に笑いながら話を続けた。 「そう、石炭鉱山のこと。それは置いといて、初日早々不運だったな。俺は沢根英里(さわねえいり)。沢根でいいぜ」  沢根は笑みを浮かべたまま、響介に手を差し出した。やけに堂々とした態度の彼に僅かに戸惑いを感じつつも、響介は手を握り返した。  沢根は髪色こそ地毛らしい落ち着いた黒色をしているが、短く刈られた短髪と飄々とした態度からは、どこか軽薄そうな印象を受けた。 「えーと、俺は成谷響介。よろしく、沢根」  恐らく共高では初めての友人になる人物かもしれない。響介は自分も彼を真似て、ふやけた笑顔を作ってみせた。  初めて受ける授業は現代文だった。まだ初日というだけあって、教師の自己紹介や今後の授業進行予定の説明が主で、始まった授業そのものは思っていたより難しく感じなかった。響介はひとまず安堵した。  共高に通うにあたって彼が一番恐れていたのは、自分の学力の低さだった。授業についていけなくて、まさかの留年……などという事態になったら、単身で働いている母にあまりにも面目ない。  公立高校とはいえ、高等学校の授業料は、成谷家にとって安いと言える金額ではないのだ。なんとしてでも音楽と勉強を両立させなければならない。  その後の授業も、響介は熱心にノートを取り続けた。隣の沢根からは「思ってたより真面目なんだな」などと揶揄われてしまったが、遅刻の汚名をなんとか返上できたのだろうと好意的に受け取っておいた。「まあね」とあえて笑顔で応えると、沢根は感心した様子で笑い返した。  昼休みは沢根の方から誘いをかけられ、数人のクラスメイトと昼食を囲み合うことになった。  どうやら、響介の高校デビューは失敗せずに済んだようだ。『ひとりぼっちで弁当を食べる羽目になったらどうしよう』という不安こそあったが、隣の席が交友に積極的な人物だったのは、不幸中の幸いだったと言う他ないだろう。  昼食中は初対面の響介のため、改めてそれぞれが自己紹介をすることになった。  彼らは皆昨日の入学式の後に、ロングホームルームで自己紹介をしあったばかりだったのだが、なにしろあれはクラス一斉での紹介の場だ。当然のように互いに話した内容を忘れていたのだ。  それでも響介の脳裏には、約一名、一番最後に『特に何もないです』と言い放った椀田律(わんだりつ)という少年だけが──もちろんあまりよくない意味で──印象に残っていた。  しかし彼がそのことを話すと、沢根はうっすらと顔を歪めて「あいつとはあんまり関わらないほうがいいぞ」とだけ言い、話題を逸らすように自己紹介を始めた。  沢根はどうやらコンピューターゲームが好きらしい。沢根と中学の頃から仲がいいという、“部長”というあだ名の少年(沢根曰く、ちょいデブという単語がもじられて、いつの間にか部長になったらしい)は、お笑い芸人に憧れる快活な少年で、手品が得意だった。もう一人の“神絵師”というあだ名の少年はマンガが好きらしいが、壊滅的に絵が下手なことを揶揄されてついたものらしい。  ちなみに、沢根のあだ名は名前をもじって“エイリアン”とのことだった。あだ名がついた経緯も顔がつり目がちだからという、結構ひどいものだ。  互いに蔑称とも言えるあだ名で呼び合う関係に響介は驚いたが、それを皆が許し合っているのだから、彼らは付き合いが長いのだろうと思った。  響介が音楽が好きで、特にロックバンドに憧れていることを話すと、彼らは口々にどんなアーティストが好きか尋ねてきた。「何のバンドが好きなんだ? やっぱツーロクとか?」「ツーロクはちょっと古くね? ダンプかナッドとかじゃねーの?」「そいつら活動期間長いだけでもっと古いぞ」、盛り上がり始める会話の中、響介は焦った。  成谷家は節約のため、普段はあまりテレビを見ない。そのため彼は流行のバンドに疎かった。 「俺の趣味、ちょっと古くさくてさ」と誤魔化すと、沢根がからかうように「よっ、古典主義者! ルネッサンス!」と合いの手を入れてきた。ふざけたセンスだったが、彼なりのフォローが響介には有り難かった。  響介が唯一憧れ、CDアルバムをラジカセで何度も聞き返し、独学でコピーアレンジまでするようになった伝説のロックバンドは、今から四十年以上も前に結成された海外のグループだ。  彼が“響介たちの英雄”のことをはっきりと憧れるようになった所以は、母親の影響からだった。  響介の母の世代では、伝説のロックバンドは第二次ブームを起こしており、母はテレビCMなどのタイアップで彼らの音楽を何度も聴いて知ったのだという。その独創的でいて背中を押すような熱いロックが、母が精神的に参った時に何度も励ましてくれたのだ。  実際、父の不倫がきっかけで離婚した後、母はことあるごとに英雄の歌を鼻歌で歌うのが習慣になっていた。“俺たちは皆が勝者、負け犬なんかに構う暇はない”──彼女は辛い時にこそ、その歌を歌って自らを鼓舞していた。母は、音楽で救われていた。  だからこそ、あの曲を作ったロックバンドは響介にとって伝説と呼ぶに相応しく、あの歌を歌ったボーカリストは、英雄と呼ぶに相応しかったのだ。  最もその英雄は、響介が生まれるよりもずっと前に、若くして生涯を終えてしまったらしい。生身の英雄にはもう会えない、それだけが残念だった。  響介は自分の音楽の原点を思い返し、気づけば「軽音楽部に入って、そこから本気で音楽の道を目指そうと思っていたんだ」と自らの胸中を明かした。しかし次の瞬間、そんな彼に突きつけられた事実は酷なものだった。 「成谷……知らなかったのか? 共高の軽音楽部、一昨年にはもう廃部になったらしいぜ」  響介はその言葉を聞いた瞬間、ショックのあまりまるで毒ガスを吸った小鳥のように、思わずヒュッと声を引き飲んでしまった。 「うそだろ……いや、でも、部活はなくても備品のギターやドラムセットは残ってるよな?」  青い顔で縋るように言う響介に、沢根も、部長も、神絵師も、頭を下げて残念そうに首を横に振った。  なんということだ、去年の時点で使わない楽器は別の学校へと引き渡されてしまったのだという。ドラムセットだけはなんとか残っているが、それは吹奏楽部の所有物になっており、貸し出しの許可は基本的に降りないらしい。  響介は思わず頭の中で頭を抱えた。これから始まるはずだった音楽への道が、いきなり閉ざされてしまったではないか。  今朝見た悪夢のように、響介の心は奈落の底へと落ちていくかのようだった。せっかくここまで努力したのに、せっかく母に授業料を負担してもらったのに、音楽も勉強も頑張ろうと意気込んでいたのに、たった今その音楽が……響介の気が遠のいていく。  そんな彼の反応に気が付いたのか、沢根が響介の肩を叩いた。「大丈夫か?」と聞かれ、響介はなんとか振り絞るようにして「大丈夫だ」と答えた。しかし、実際は大丈夫とは程遠い状況だった。  響介は中学の頃から、はっきりと友達と言えるような関係の、いわゆる親しい人物がいなかった。当時は父に裏切られたショックから、学校は休みがちで、家でひたすらCDを聴くか、一人で人気のない近所の河川敷へと赴き、歌いながらギターを弾き鳴らすのが趣味だった。  交友関係の浅い彼にとって、軽音楽部に入ることは、音楽への道の第一歩として重要なものだと踏んでいたのだ。  何しろ、ロックは一人では演奏できない。少なくとも、ボーカルとリードギター以外にも、ベースやドラム、場合によってはキーボードやシンセサイザーの担当も要る。対人関係の薄かった自分に、恐らく一からバンドを組む力はないだろう。  その上、自力でエレキギターにアンプやエフェクターを揃えるお金もない時点で、これからどうすればいいのだろうか。それともやはり音楽は諦めて、単身の母のためにも安定した道を選ぶべきなのだろうか。  内心では頭が真っ白になってしまっていた響介だったが、その場は適当に「俺ってせっかちで抜けてるんだ」と自虐的な冗談を交えて、なんとか切り抜けた。  そう。切り抜けた、はずだった。
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