春は置いていけ

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 夕方、店に出て仕込みを始める。定時に出勤した須磨さんがテーブルに上がっている椅子を下ろしてくれた。その後にグラスを拭く為にキッチンの近くへ来る。 「え、店長」  固い声が聞こえて振り向く。戸惑いの表情に、もしやあの虫がいるのかと周囲を見回す。 「なんですか、ゴキ?」 「首、それ」 「クビ?」  俺の首か、と仕込みの手を止めて、喉元に触れた。昼前にシャワーを浴びたとき、身体中至るところにつけられた鬱血痕は見た。こっちは気を遣っていたのに、あいつ好き勝手……と思っていた。首には特に何もないとチェックして出た、はず。  手洗い場の鏡を屈んで覗く。 「項の方です」  須磨さんの声に、手を項へやった。鏡に背を向けてみるが、見難い。諦めかけていたところに、須磨さんが携帯で写真を撮ってくれた。  これです、と見せてもらう。 「あ」 「歯型にみえます」 「……の、馬鹿……」 「人間ですか?」 「いえ、うちの猫です」  ユズさんに被ってもらうことにした。帰ったら鰹節やるから、許してくださいと心の中で唱える。  須磨さんは、携帯をじっと見つめた後、静かにそれを削除した。 「そういうことにしときましょう」 「お願いします」  絶対に猫ではないと分かっているだろうし、人間の女にしては大きい歯型なのは気付かれたと思う。  プライベートに深く突っ込んでこないところが須磨さんに長く居てほしい理由だ。今まで一度も「結婚しないのか」とか「彼女はいないのか」など聞かれたことがない。 「でも絶対お客さんに不審がられると思うので、今日はキッチンにいてください」 「あ、はい……そうします」  どっちが店長なのか分からない。  砂野が帰ったら言ってやろうと思い、家に帰ってユズさんを撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らし、グネグネと腹を見せて身を捩る姿を写真に収める。可愛い。でも同じような写真が何枚もある。  何枚か消すか、とファイルをスクロールしているとチャイムの音が聞こえた。言っていた通り、深夜だ。俺は猫じゃらしを持ったまま立ち上がった。リンリンと後ろから鈴の音が着いてくる。 「おかえ、」  何も確認せずに開けたのが悪かった。  扉の向こうに立っていたのは女性だった。家の店に仕事帰りに来るようなオフィスカジュアル。  まっすぐこちらを見る視線に見覚えがあった。驚きと戸惑い。今まで修羅場が無かったわけじゃない。 「こ、こんばんは……」 「こんばんは……」  ご丁寧に挨拶をされて返す。 「突然失礼します。こちらに砂野彰来てませんか?」  礼儀正しく、突然にも尋ねられた。  いえ、と俺も小さく首を振った。
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