9.新しい季節

17/18
前へ
/117ページ
次へ
下ろされたブラインドから明かりが漏れている。それで目を覚ました。朝だ、足腰が疲れている気がする。でも、充足感のある朝だ。伊万里が犬のようにクワァと欠伸をすると、若王子も目を覚ましたのか子どもみたいに腕を絡めてくる。 「……どこへ行く?」 「どこも行きませんよ」 伊万里のその返事に満足したのか、若王子は伊万里の散らばった前髪を指で直してくれている。自分を撫でる若王子の手、これがなくなったら困ると思う。なくなってしまったらどうしようと、無意味に不安になる時もある。 「先輩、お風呂に入りましょうよ。身体、ベタベタする」 「確かに、お前意識飛ばしてそのまま寝てたからな。適当に拭いといたけど」 密着していた身体を離し、若王子は浴室の方へと向かってしまった。バスタブにお湯を貯める音が聞こえてくる。お湯が溜まるまで、二人は甘ったるいカフェオレを淹れて待つことにした。朝になるまで抱き合っていたから、空腹にミルクが染み渡る。 「わあ! 猫足のお風呂! しかも泡!」 そういえばすっかり忘れていたが、ここは高級ホテルの一室なのだ。若王子ですら足が伸ばせるほどのバスタブに、後ろから抱っこされる形で入る。前面ガラス張りで恥ずかしい。若王子の胸に頭を預けながら歯を磨き、身体を洗い、お互いの話をした。 「伊万里。お前は俺にピアニストにならないのかって、聞いてこないよな」 「……ピアニストになりたいんですか?」 若王子は黙って首を横に振った。 「分かってる。俺には才能がある、奏者としての才能だ。手放すなんてどうかしてるって、講師にも、両親にも、オケのメンバーにも言われた。でも……」 「先輩はトランペットを作りたいの?」 そう聞いたら、今度は素直に頷いた。 「祖父が製造業だったんだ。俺も一流のトランペットを作りたい。吹くのも楽しいけど、手入れをしたり、作るほうに興味がある。ピアノだって調律するのが好きだ」 あんなにピアノが上手で、神業なのに、若王子が好きなのはトランペットだ。しかも作る側がいいのだと言う。 「俺、実は、色んな楽器を分解してみたいんだ」 小声で言われた言葉に、伊万里は微笑む。 「それ、とっても面白そう!」 才能と関心は別物なんだなあと伊万里が感心していると、髪を撫でられた。 「お前は進路決まったか?」 「吹奏楽部のある大学にしようとは思うんです。でも、具体的にどことは、まだ……」 まだ悩んでいる。伊万里は特別やりたいこともない、サックスは好きだけどきっと趣味の範疇だ。サークル活動で出来ればいいかなというレベルで、音楽家になれる腕があるとは思っていない。音楽科のある学校は候補外だ。 「俺は卒業したら、アメリカの企業に就職するつもりだった」
/117ページ

最初のコメントを投稿しよう!

261人が本棚に入れています
本棚に追加