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下ろされたブラインドから明かりが漏れている。それで目を覚ました。朝だ、足腰が疲れている気がする。でも、充足感のある朝だ。伊万里が犬のようにクワァと欠伸をすると、若王子も目を覚ましたのか子どもみたいに腕を絡めてくる。
「……どこへ行く?」
「どこも行きませんよ」
伊万里のその返事に満足したのか、若王子は伊万里の散らばった前髪を指で直してくれている。自分を撫でる若王子の手、これがなくなったら困ると思う。なくなってしまったらどうしようと、無意味に不安になる時もある。
「先輩、お風呂に入りましょうよ。身体、ベタベタする」
「確かに、お前意識飛ばしてそのまま寝てたからな。適当に拭いといたけど」
密着していた身体を離し、若王子は浴室の方へと向かってしまった。バスタブにお湯を貯める音が聞こえてくる。お湯が溜まるまで、二人は甘ったるいカフェオレを淹れて待つことにした。朝になるまで抱き合っていたから、空腹にミルクが染み渡る。
「わあ! 猫足のお風呂! しかも泡!」
そういえばすっかり忘れていたが、ここは高級ホテルの一室なのだ。若王子ですら足が伸ばせるほどのバスタブに、後ろから抱っこされる形で入る。前面ガラス張りで恥ずかしい。若王子の胸に頭を預けながら歯を磨き、身体を洗い、お互いの話をした。
「伊万里。お前は俺にピアニストにならないのかって、聞いてこないよな」
「……ピアニストになりたいんですか?」
若王子は黙って首を横に振った。
「分かってる。俺には才能がある、奏者としての才能だ。手放すなんてどうかしてるって、講師にも、両親にも、オケのメンバーにも言われた。でも……」
「先輩はトランペットを作りたいの?」
そう聞いたら、今度は素直に頷いた。
「祖父が製造業だったんだ。俺も一流のトランペットを作りたい。吹くのも楽しいけど、手入れをしたり、作るほうに興味がある。ピアノだって調律するのが好きだ」
あんなにピアノが上手で、神業なのに、若王子が好きなのはトランペットだ。しかも作る側がいいのだと言う。
「俺、実は、色んな楽器を分解してみたいんだ」
小声で言われた言葉に、伊万里は微笑む。
「それ、とっても面白そう!」
才能と関心は別物なんだなあと伊万里が感心していると、髪を撫でられた。
「お前は進路決まったか?」
「吹奏楽部のある大学にしようとは思うんです。でも、具体的にどことは、まだ……」
まだ悩んでいる。伊万里は特別やりたいこともない、サックスは好きだけどきっと趣味の範疇だ。サークル活動で出来ればいいかなというレベルで、音楽家になれる腕があるとは思っていない。音楽科のある学校は候補外だ。
「俺は卒業したら、アメリカの企業に就職するつもりだった」
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