10.悲しい記憶

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つらかった。指が縺れるまで練習したが、いくら賢くピアノが弾けたところで奏多には同年代の友達がいない。大人たちの賞賛なんてどうだって良かった。 アルファだからとチヤホヤしてくる同年代のベータやオメガたち、近づいてくる人はみんな若王子グループの息子である奏多の名声が欲しいだけだ。 あっという間に奏多の性格はひねくれてしまった。 そんな中、たったひとり面白いやつがいた。それはチビのオメガだった。 「先輩! どうしていつも俺に意地悪するんですか? 俺がオメガだから⁈」 「違う。お前が面白いからだ。別にオメガだからじゃない」 「……えっ! そ、そんなあ」 吹奏楽部のサックス担当、特別上手い訳でもなかったが、でも誰よりも楽しそうに弾き、熱心だった。いつもニコニコしていて愛想がよく、可愛らしい。 発情期がきて迷惑だから子分になれというのはただの方便で、近くに置いておきたかった。いつも甘くていい匂いがした。齧ったり食べてしまいたかったけれど、好きだから我慢した。抑制剤をわざわざ増やしてまで会いに行っていたのは、近くにいたかったからだ。 奏多は卒業して結ばれた年下のオメガのことを、誰よりも愛している。 「奏多先輩」 奏多と呼べと命じたのは自分だ。なのに、下の名前を始めて呼ばれた瞬間、心臓が飛び葦そうなほどドキンとした。恋をすると強くなるなんて嘘だ。名前を呼ばれただけでこんなに弱くなる。 「……奏多先輩?」 返事をしないからと、重ねて呼ばれた。 この馬鹿、上目遣いでこっちを見るな。 「俺の話、聞いてます?」 ふわりと思考を侵食していく甘い匂いは彼のフェロモンで、お菓子みたいに幸せな薫りだ。何も考えられなくなる。どこからが本能で理性なのかわからない。ただ、伊万里のことを可愛いなと思っていた。彼のことが好きだ。自分の名前を呼ぶ伊万里のことが可愛い。 返事をしないでいたら、イラっとしてきたのか膨れっ面でそっぽを向いた。そういうすぐ拗ねるところも可愛い。なにもかもが可愛い、そう思ってその頬を両の手で包み込んでやった。 「む、むむっ……」 伊万里に触れているときは幸せだ。何も考えなくていい、ただ目の前にいる伊万里を愛でるだけ。 奏多が何も言わなくてもひとりで笑ったり拗ねたりしている恋人は、奏多の腕の中でもぞもぞ動いて抱き着いてくる。そういう何気ない彼の所作が大好きで、何度でも噛みたかった。
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