10.悲しい記憶

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「怒るな。それで、なんだって?」 伊万里の頬を指先で撫でると、甘えたように擦り寄ってくる。彼は甘えながら喋った。 「先輩、実家にどうしてピアノ置いて来ちゃったんですか?」 「ピアノはお前と一緒の時じゃないと弾かないからな。別に、要らないだろ」 奏多はピアノが嫌いだった。講師の前でひとりきりで弾くピアノ。両親が良かれと思って雇った講師もまた有名なピアニストだったが、奏多には厳しかった。 アルファだからといって容赦はせず、失敗したら出来るようになるまで弾かせた。奏多は講師の言う通りに弾けるようにはなったが、全然楽しくなかった。奏多の好きなピアノは誕生日のとき父が伴奏して、母が歌ってくれたあのピアノだ。技術を競うピアノではなかった。 平凡や平均点が許されない水槽の中にドボンと突き落とされて以来、ずっと出口を探してもがいていた。気持ち良く泳げるようになれたらいいのに、戻れない。迷子のままだ。若王子の名前が怖かった。誰もが自分を知っていて、同じように見てくる。 ピアノを弾かなくてはと考えていた毎日、今思い出すと、その風景が一番暗い。 幸せな今があるのに、不意にその糸が途切れる瞬間がある。ぷつりと切断されたようにあの頃のことを思い出す。望まれてピアノばかり弾いていたこと、自分はそれを望んでいなかったこと、ただ帰ってこない両親を待っていたときのこと。 ベータである両親は、きっとアルファの誕生を喜んだのだろう。有り余るほどの才能に溢れた子どもに、出来得る限りの教育をと思ったのだろう……でも、奏多が望んだのは普通の少年としての生活で、一緒に音楽を奏でてくれる友人だ。 あの孤独感を一度でも両親にぶつけられていたら、今でもきっとピアニストを目指していただろうと思う。でも、一度も言えなかった。 また一緒にピアノを弾こう、食事をしよう、たまには家族でどこかに出かけようよ——…子どもらしいことは何一つ、言えなかった。 ベータの両親が自分を避けているとも感じたし、実際どう扱っていいのか分からない、そういう気配はあった。 そういう中学時代の凄惨さよりも、今この時、ちっぽけな過去を捨て去れない自分の方を哀れに思う。 「どうかしました?」 目の前にいた伊万里が優しい声を出す。堪らずさみしくて抱き着いたら、不思議そうに頭をポンポン撫でられた。
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