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恐らく自分は、生まれた頃から何もかも持っていた。
誰もが羨むような美貌と才能、不自由のない暮らし。ピアノのある広い部屋。五体満足の身体、アルファであるという上級階級の証。でもいつしか、足りない部分を補いながら肩を寄せ合って暮らしているような家族が、一番幸せそうに見えた。
「俺の実家は広すぎる。広すぎて、誰がどこにいるか分からん。きっとこの家もだ」
伊万里にそんなことを言ったら、小首を傾げられた。
「まるで先輩はこんなに広い部屋が不満みたいですね?」
「そうでもない。卒業してお前が来れば、解決する問題だからな」
「ふふ、なにそれ!」
今度は伊万里の方が大真面目な顔になった。
「卒業したらアルバイト始めたいんです。ジャズバーなんですけど、とっても素敵な店」
「いいな、行ってみたい」
「いつかそのジャズバーで一緒に演奏しませんか? もちろん、俺がバイトに受かったら」
「する。ジャズバーでお前と弾くなら、ピアノがいいか」
「また伴奏してください。俺ね、弾きたい曲があって、スタジオ借りて練習しようかなって思っているんです」
恋人の伊万里とは円満な関係だったが、両親との関係は変わらなかった。だから家から逃げたかったのかも知れない。大学に入って、家を出たいと言ったら両親に驚かれた。
「どうしてわざわざ出ていくんだ? 大学なら、ここから近いだろうに」
「早くひとり立ちしたいんだ」
「そうか、じゃああのピアノも持って行きなさい。お前のためのピアノだよ」
父が指さしたのは演奏ステージのあるリビングだ。昔は、いつも美しい旋律が響いていた。ピアノが不要だと言われたのがショックで、奏多は呟く。
「もう父さんは、ピアノ弾かないのか?」
驚いた顔をされた。久しぶりの会話にしては、踏み込んだ内容だったかも知れない。
「お前の前で言うのは恥ずかしいことだが、きっともう弾けないよ。長らく触っていないんだ。どれくらい触れていないかな……老眼で、楽譜も見えないしね」
ほら、まただ。また父は自分との間に壁を作る。
一緒にやりたくないなら、そう言えばいいのに——…ひねくれた自分自身がそう囁く。
『お前みたいに弾けなくて恥ずかしい——…』
そう言って父は鍵盤を弾かなくなってしまった。言えば良かった、父さんのピアノが好きだって。父さんと弾きたい、そう言えたら良かった。
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