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伊万里は元々発情期の重いオメガだったが、その時重度のフェロモン不全に陥っていた。いつも傍にいた番がいなくなって、フェロモン不全に陥ったのかも知れない。アルファである奏多はオメガ専用病棟には入れず、お見舞いも出来なかった。代わりに自分の匂いをつけた猫のぬいぐるみを贈り、その時の奏多にはどうすることも出来ずアメリカに戻ることになった。
アメリカに戻って師匠にその話をしたら、一番大切な物はなにか決めろと言われた。
『奏多、君の中ではもう決まっているはずだ』——師匠はそう言った。
その通りだと思った。このまま修行を続けていても身に入らないし、そうでなくても日に何度も伊万里の顔がチラつく。そもそも、朝パンを齧っているだけで伊万里の姿が目に浮かぶのだ。
結局、何をするにしても自分は音楽家にも、職人にも向いていない気がした。だって寝ても覚めても伊万里なのだ。もはや音楽のことよりも、愛しい恋人のことを考えている時間の方が多い。帰国して一番、伊万里にはこう言われた。
『どうして帰って来たんですか!』
再会して早々、大喧嘩になった。伊万里は自分のせいで若王子が夢を諦めてしまったのだと思い込み、激昂していた。でも、奏多が『お前がいないと俺がダメなんだ』と告白したら、伊万里はすぐに大人しくなったのだ。
伊万里は入院中に贈った猫のぬいぐるみを今でも大切そうに巣に入れ、一緒に眠ったりしている。
「若王子、それってかなり普通の大学生っぽい」
「そうなのか? 俺は、てっきり自分がおかしいのかと……」
「いや、お前はおかしいよ」
帰国してから旧友にも逢う機会があった。高校時代を共にした小林はベータで、何もかも平均点という目立たない男だったが気の良い男だった。奏多が帰国したと連絡したら、すぐに飲もうと誘ってきたのはこの小林だ。
「なんだ、じゃあお前が帰国を決めたのって佐伯が理由なのか」
「あいつを言い訳にするつもりはない。でも、俺にはあいつが必要だっただけだ」
奏多は結局夢を諦めきれず、父親に勧められて若王子グループの製造会社に就職することにした。いくつか楽団から声が掛かっていたし、音楽家に比べれば製造業なんて泥臭い仕事だと笑う者もいたが、伊万里に言わせれば「楽器を作るなんて楽しそう」だ。
伊万里の言うことはシンプルだ、道に迷いそうになったときとても頼りになる。
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