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伊万里がそう平然と言うと、若王子に頬をふにっと抓られた。
「いたぁ! な、なんで抓るんですか⁈」
「お前、あの衣装に憧れていたんじゃなかったのか。それをあっけなく諦めるなんて!」
「諦めた訳じゃないですよ?」
そう言って若王子が指さしたのは、部室に飾られた去年の写真だ。全員マーチングの衣装を着ている。若王子が参加した去年のマーチングイベントは地域交流の場として設けられた小編成のもので、なかなかの賑わいを見せたらしい。
「そりゃあ憧れてましたし、いっぱい練習しました。でも俺より上手い子、いっぱいいたんです。それなら俺はサポートに回ろうかなって。当日、雑用係も必要みたいだし。ほら、先輩も動きながら吹くの上手でしょう。いつもトランペットを吹くとき、上下してるじゃないですか……あいたっ!」
また頬を抓られた。今度は無言で。
「佐伯、お前は不思議なやつだな。才能がない訳じゃない、でも特出した技巧がある訳でもない、ただ自分の出来る範囲で楽しんでいるというか——…誰しもがお前みたいなタイプなら、苦労しないのに」
「先輩、それって俺のこと貶してます?」
「いや、逆だ。お前はどうやら裏方も向いているようだ。そうだな、自分が表舞台に立たない時は、そのアホ面で他の連中の緊張を解いてやるといい」
「もうっ!そんなことばっかり言って!」
三年生が引退してしまって、その隙間を埋めるのがなかなか難しい。
特に若王子の存在は大きかった。あれだけ傲慢で高圧的な態度をとっていても、いなくなってみればいい先輩だったと思う部員も多かったようだ。
だからこそマーチングイベントに先輩たちを招待したい、という意見が出た。ただ受験のシーズンなので、わざわざ休みの日に丸一日時間を割いて欲しいとお願いするのは勇気の要ることだ。そこで、伊万里に白羽の矢が立った。
「佐伯くん、王子先輩にお願いしてきてよ」
「いやだよ、なんで俺?」
そう言うと、オーボエの女子二人は驚いたように顔を見合わせた。
「だって佐伯くんと王子先輩って、付き合ってるんじゃないの?」
「そうだよ。王子先輩、佐伯のこと絶対好きじゃん!」
さも当たり前のことのように言われて、伊万里は固まってしまった。
「つ、付き合ってないよ!」
「「付き合ってないの⁈」」
女子二人の声がハモった。
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