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きっとまだこれから、楽しいことも苦しいこともたくさんある。でもパンケーキを食べながら若王子は笑っていた。
伊万里にはすでに美しい思い出として反芻できる。彼も同じなのかもしれない。嬉しそうに、ぽつりと言った。
「もしかしたら、俺は屋上から飛び降りなくても良かったのかもな」
「そうですね。天才のままでも、なんでも、先輩は先輩だし」
「……俺は俺、か。ふん、悪くない」
彼の笑顔が宝石のように光り、キラキラとしている。伊万里は自分が彼の中の”なにか”をほんの数センチでも押したかもしれないことを知る。それはとてもシンプルだった。
「意地悪で高飛車なトランペットの先輩ってこと?」
冗談で言ったのに、若王子は切なそうに笑った。妙にくたびれた笑顔だった。
「そんなんでもいい。俺はお前の目に映る俺を信じる」
先輩が死ななくてよかった。
思いついたその言葉が、伊万里の中で繰り返し反芻される。死んだら美味しいパンケーキも食べられない。手も繋げない。そうして、あっという間に駅まで着いてしまった。
「……先輩。また食事をしましょう。学校でもう会えないの、淋しいけど……」
「また連絡する」
なんで手なんて繋いでしまったんだろう。
キスだってしたし、いやらしいこともあの保健室でいっぱいしたけれど、不意に繋いでしまった手のぬくもりが一番切ない。
——…だって、もう離さなければ。
星のきれいな夜だった。
氷のように月が尖がっていて、空から切り離されたように白かった。いつまでも手を振って見送って、その背中を目で追う。時々、若王子も振り返る。なんだか伊万里はそれが永遠の別れのように寂しかった。
『先輩がいたら、他には何もいらない』
不意に浮かんだ言葉の大きさに心が満ちる。
きっと今日のことは心の宝箱のような場所に収められ、幸福の象徴のようにいつまでも思い出せるのだろう。そんな美しい夜だった。
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