9.新しい季節

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9.新しい季節

伊万里は二年生になった。 若王子は卒業してもなお存在感のある人で、”軍曹”の名で呼ばれ続けた。月に一度くらい気まぐれに訪れて、うだつの上がらない顧問から指揮棒を奪い指導するからだ。 後輩たちは初め、あの人だれくらいに構えていたが、よっぽど今の三年生よりどの楽器も上手くて指導が怖いので若王子の言うことは聞く。 元々若王子を恐れていた小西なんて、若王子が来ることを教えてあげただけで慌てて練習に励んだりしている始末だ。 「あ、小西、若王子先輩が来るから練習してるんだ?」 「別に若王子先輩が来るからって訳じゃない!」 からかうとムキになって面白い。伊万里は、小西のことをあの時の報復とばかりにからかうことにしていた。 「ふふ、確かに小西は普段からやってるね。でも、先輩が来るってなると気合が違うじゃん」 小西と一時期険悪だった伊万里だが、きちんと謝罪されたので赦してやることにした。小西は若王子のピアノに憧れてこの吹奏楽部に入った。贔屓されている伊万里が羨ましかった……のだそうだ。 「俺、女優の伊勢香穂子にクラリネット買って貰っただろ?あれから、調子がいいんだ」 ついでに小西は、伊勢香穂子の大ファンだ。 まだ伊勢香穂子は一児の母親といえど三十路半ば、高校生のファンも多い。事あるごとにみんなにクラリネットを自慢している。 「ほんとに伊勢香穂子に直接買って貰ったの? すごいじゃん!」 「ああ。若王子先輩御用達の店に連れて行ってもらったんだ。最高だったよ」 小西は本当に小物というか、わかりやすい少年だ。機嫌を取ってやればすぐに乗っかる。そういう意味では、付き合いやすい同級生だ。若王子が卒業して初めて分かった。けっこう鬼のようでいて、崇拝していたファンは多かったのだと。 『どうして先月よりバラバラになってるんだ! ヘタクソ!』 無償でやる指導にしては、熱が入り過ぎている。そのうち過激な保護者とかにパワハラだとか、名誉棄損だとかで訴えられないのか心配になるレベルだが、この吹奏楽部が高水準の演奏を保てているのは若王子という刺激があるからだと言う人もいる。 「いや、もう、ごめんねみんなこの鬼軍曹が」 伊万里は怖気づいた一年生を見てそんなことを呟く。 「来週から中間試験らしいな。テスト休暇は言い訳にならないぞ、楽器に触らなかった分だけツケが来ると思え。来月のお前たちが楽しみだ」 その言葉に震え上がった一年の男子が、あの人また来月も来るんだ……と呟いたのが面白くて伊万里は一人でニヤニヤしてしまった。 「先輩、吹奏楽部が本当に好きだったんですね」 「なんだ藪から棒に……OB会も立ち上げたぞ、そっちはブラスバンドだけどな。別に楽器が増えたら吹奏楽団を名乗ってもいい。お前も卒業したら来い」
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