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 甲子園決勝──五対三で迎えた九回裏。  相手高校の攻撃は、七番バッターのボテボテの内野安打から始まった。  その後も連打を浴び、二点あったリードは一点に。  ワンアウト満塁。なおも相手高校のチャンスは続く。  阪神甲子園球場は、その日一番の熱気に包まれていた。 (……まずいな)  マウンドに立つ我が高のエース・不二(ふじ)の表情には、明らかに疲労の色が滲んでいた。この回から、自慢の球威が落ち始めている。コースも荒れ気味だ。  チラリと三塁側の味方ベンチをうかがうと、監督は腕組みしたまま、ピクリとも動こうとはしなかった。 (こんなときなのに、あの爺さんは……)  まあ、仕方ない。うちの監督はそういう性格なのだ。  俺はキャッチャーマスクを外し、マウンドに駆け寄った。 「どうした、不二? らしくないな。どこか痛むか?」 「……いや」  不二はそれだけ言って、ユニフォームの肩で汗をぬぐう。  もともと口数の多い男ではないが、心ここにあらずという感じだった。  しかし、それも当たり前だ。  ギラギラと照りつける太陽。気温は予報で37度。  ここぞとばかりにブラスバンドが奏でる、アップテンポの『サウスポー』。  全方向から響いてくる、メガホンの音。  誇張ではなく、空気が揺れている。  球場の雰囲気は、外野も含めて完全に、追い上げる相手高校に傾いている。  まるで全てが敵──この空気に飲まれてしまうのは、当然と言えた。 「ケガしてないなら、大丈夫だな。まだ勝ってるんだし。ほら、笑顔笑顔。テレビに映ってんだぞ」  ニッと歯を出して笑ってみせると、不二は力なくほほ笑んだ。 「……おまえはすごいな、結城(ゆうき)」 「当たり前だ。信じて投げてこい」  パシン、と不二の背中を叩き、俺はマウンドを駆け足で降りる。  正直……俺だって、体の震えが止まらない。  三万人を超える敵に囲まれる経験は、この先の人生でもそうそうないだろう。  とにかく、怖い。怖くてたまらない。  心臓が破裂しそうに鳴っているし、息がつまる。  今までのキツかった練習が、なぜか頭に浮かんでくる。気を抜くと一瞬で、涙があふれてしまいそうだ。  ──だが、不二にだけは、この不安を見せちゃいけない。  球場のまん中にポツンとひとりで立ち、小さなボールを投げ続けなければいけない彼のほうが、ずっと恐ろしくて不安だろうから。
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