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「……なんであのとき、ナックル解禁したんだろうなあ」  俺がそう言うと、不二は呆れたような目を向けてきた。 「他人事みたいに言わないでよ」 「だって、こんな場面だし。嫌でも思い出すだろ」 「まあ、確かに」  不二はグラブで口元を隠してはいるが、ニヤリと笑ったようだった。  この七年余りで、ずいぶん図太くなったものだと、俺も思わず笑った。  一点差の九回裏。ツーアウト満塁。フルカウント。  俺たちは、東京ドームのマウンドに立っていた。  バッターボックスには、あのころよりさらにガタイのよくなった──今年のセ・リーグホームラン王である、東條。  大熱戦が続く日本シリーズ第七戦は、佳境を迎えていた。  ここまで、シリーズは三勝同士。今日、勝った方が日本一になる。  きっと往年の野球ファンであれば、この試合展開に、あのときの甲子園球場を重ねていることだろう。  ──あれから、当然のように、東條はドラフト一位でプロ入りを果たした。  不二も下位ながら、ドラフトにかかり……俺は大学卒業後、不二と同じチームから育成契約を結んでもらえた。  人生は本当に、予想外のことばかりだ。  まさか自分がプロチームの正捕手に定着し、そしてあろうことか、不二と再びバッテリーを組むことになるとは。  こうして再び、日本一を決める戦いで、東條と相まみえることになるとは。 「人生って、ナックルボールみたいだよな」  俺が言うと、不二はくすくすと笑った。 「こんなときに、よくそんな気恥ずかしいセリフ吐けるね」 「……まあ、聞き流してくれ。それで、次のボールだけど……さっきの釣り玉で高めに意識が行ってると思うから──」 「待ってよ」  不二は珍しく、俺の言葉を遮った。 「次のボールは決まってるでしょ」 「……は?」 「俺はナックルボールを投げたい」  相手のホーム球場。  最高潮に達している声援が、急に耳に入ってこなくなる。 「……いや、それは……さすがに……」  俺は思わず口ごもった。  練習を続けていたそのボールは、現在、さらに威力を増している。  俺ですら、二回に一回は捕り損なう。俺以外のキャッチャーは絶対に逸らしてしまう、まさに『魔球』に仕上がっている。  しかしプロ入りしてから、不二が試合でナックルを投げたことはない。  誰に禁止されたわけでもない。  一球のミスが命取りになるプロの世界──俺自身が、ずっと封印していたのだ。  もう二度と、あの絶望感を味わいたくなくて。 「ここで解禁しないで、いつするの? 東條も今、ナックルを待ってるよ」 「……待ってるなら、尚更投げさせる訳にはいかない」 「打たれるのが怖い?」 「いや……おまえのナックルボールは、絶対に打たれない。でも、もし、俺がまた──」 「あのさ、結城」  不二は再び、俺の言葉を遮る。 「知ってるとは思うけど、ピッチャーはキャッチャーがいないと投げられない」 「…………」 「ナックルボールは、絶対に打たれない」  不二は真っ直ぐに、俺を見据える。 「結城なら捕れる。俺はおまえを信じてる」 「…………」  ──ああ、俺は何をやってるんだ。  一番不安なはずのピッチャー自身に、ここまで言わせてしまうなんて。 「……よく、そんな気恥ずかしいセリフ吐けるな」 「お互い様でしょ」 「まあな」  俺はパシンと不二の背中を叩き、定位置に戻った。  腰を落とし、キャッチャーミットをど真ん中に構える。  コースの指示はしない。だって、どこに行くかは誰にも分からない。  それがナックルボールだから。  不二がボールを握り、振りかぶる。 (…………来い‼)  しなる左腕から放たれたボールは、予想もできない軌道を描く。  東條の豪快なフルスイングは、空を切り──。  白球がミットに収まる乾いた音は、球場の大喝采にかき消された。 【了】
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