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3.
「……なんであのとき、ナックル解禁したんだろうなあ」
俺がそう言うと、不二は呆れたような目を向けてきた。
「他人事みたいに言わないでよ」
「だって、こんな場面だし。嫌でも思い出すだろ」
「まあ、確かに」
不二はグラブで口元を隠してはいるが、ニヤリと笑ったようだった。
この七年余りで、ずいぶん図太くなったものだと、俺も思わず笑った。
一点差の九回裏。ツーアウト満塁。フルカウント。
俺たちは、東京ドームのマウンドに立っていた。
バッターボックスには、あのころよりさらにガタイのよくなった──今年のセ・リーグホームラン王である、東條。
大熱戦が続く日本シリーズ第七戦は、佳境を迎えていた。
ここまで、シリーズは三勝同士。今日、勝った方が日本一になる。
きっと往年の野球ファンであれば、この試合展開に、あのときの甲子園球場を重ねていることだろう。
──あれから、当然のように、東條はドラフト一位でプロ入りを果たした。
不二も下位ながら、ドラフトにかかり……俺は大学卒業後、不二と同じチームから育成契約を結んでもらえた。
人生は本当に、予想外のことばかりだ。
まさか自分がプロチームの正捕手に定着し、そしてあろうことか、不二と再びバッテリーを組むことになるとは。
こうして再び、日本一を決める戦いで、東條と相まみえることになるとは。
「人生って、ナックルボールみたいだよな」
俺が言うと、不二はくすくすと笑った。
「こんなときに、よくそんな気恥ずかしいセリフ吐けるね」
「……まあ、聞き流してくれ。それで、次のボールだけど……さっきの釣り玉で高めに意識が行ってると思うから──」
「待ってよ」
不二は珍しく、俺の言葉を遮った。
「次のボールは決まってるでしょ」
「……は?」
「俺はナックルボールを投げたい」
相手のホーム球場。
最高潮に達している声援が、急に耳に入ってこなくなる。
「……いや、それは……さすがに……」
俺は思わず口ごもった。
練習を続けていたそのボールは、現在、さらに威力を増している。
俺ですら、二回に一回は捕り損なう。俺以外のキャッチャーは絶対に逸らしてしまう、まさに『魔球』に仕上がっている。
しかしプロ入りしてから、不二が試合でナックルを投げたことはない。
誰に禁止されたわけでもない。
一球のミスが命取りになるプロの世界──俺自身が、ずっと封印していたのだ。
もう二度と、あの絶望感を味わいたくなくて。
「ここで解禁しないで、いつするの? 東條も今、ナックルを待ってるよ」
「……待ってるなら、尚更投げさせる訳にはいかない」
「打たれるのが怖い?」
「いや……おまえのナックルボールは、絶対に打たれない。でも、もし、俺がまた──」
「あのさ、結城」
不二は再び、俺の言葉を遮る。
「知ってるとは思うけど、ピッチャーはキャッチャーがいないと投げられない」
「…………」
「俺たちのナックルボールは、絶対に打たれない」
不二は真っ直ぐに、俺を見据える。
「結城なら捕れる。俺はおまえを信じてる」
「…………」
──ああ、俺は何をやってるんだ。
一番不安なはずのピッチャー自身に、ここまで言わせてしまうなんて。
「……よく、そんな気恥ずかしいセリフ吐けるな」
「お互い様でしょ」
「まあな」
俺はパシンと不二の背中を叩き、定位置に戻った。
腰を落とし、キャッチャーミットをど真ん中に構える。
コースの指示はしない。だって、どこに行くかは誰にも分からない。
それがナックルボールだから。
不二がボールを握り、振りかぶる。
(…………来い‼)
しなる左腕から放たれたボールは、予想もできない軌道を描く。
東條の豪快なフルスイングは、空を切り──。
白球がミットに収まる乾いた音は、球場の大喝采にかき消された。
【了】
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