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選定
(……生きてる)
冷たい空気に頬をなでられ、ニールは目を覚ます。
目覚めたばかりの視界に、高い天井が映り込む。要は、あのあと気絶してしまっていたということだろうか。
恐る恐る身体を起こし、肩を回して腕を伸ばす。ずきりと痛みが走った。他にも身体を動かしてみると、動かした場所がいちいち痛む。思わず痛え、とつぶやいた。
(まー、全身痛い……けど、動くことに支障はねー……な)
はあ、と大きく息をつく。そうしてゆっくりと立ち上がりあたりを見回したところで、ニールはその身体をこわばらせた。
粉々になったドーム、砕けて倒れた柱。床のあちこちにはひびが走り、割れた大窓からは冷たい空気が流れ込んでいる。
そして、人が何人も死んでいる。
大量に血を流して倒れている者もいれば、倒れた柱の下敷きになっている者もいる。その全員が教会の関係者であることなど、嫌でもわかった。先程までここにいたのは、ニール本人と、自分を生贄にしようとしていた教会の連中と、それから神だけなのだ。
思わず苦虫を噛み潰したような顔をする。幸いにして自分は生きているが、ここで死んでいる人々のようになっていた可能性だってあったのだ。その光景は、たしかに最悪の可能性を告げていた。
しかし、いつまでもここで時間をつぶすわけにはいかない。
外にいる教会の関係者がいつ戻ってくるかもわからないし、それ以前に再び地震がおこらないとも限らない。さらに言えば、ここは決して安全な場所ではないだろう。現に、惨状が広がっているじゃあないか。
ニールはおそるおそる歩き出した。倒れている人々やがれきを踏まないように、慎重に。少し足を動かすだけでも痛みが走るが、今はそれを理由に足を止めてはならない。なるべく安全なところへ。できれば、脱出できそうなところへ。
歩ける道を探りながら、ニールはゆっくりと神がいた痕跡が残るドームから距離を離していく。
距離が遠くなるに連れ、比較的建物の被害が少ない場所を見つけやすくなってきた。瓦礫が比較的少ない廊下、かろうじて割れていない大窓。
それから、立っている人間。
「もしもーし……」
思わず声をかけたところで、ニールは固まった。
その類のものとは縁がない生活をしていた自分でもわかる。
これは。
この人。
(生きてる人間じゃねえ)
眼球の代わりに黒い球体が埋まった目、表情のない顔。
今ニールが着ているものと同じようなローブを着ているが、ところどころすすけているようだ。
彼は低く重い声で、こう繰り返している。「ああ、儀式が、儀式が失敗してしまった」と。
「儀式が失敗……?」
思わず口に出してしまったところで、ニールは自分の口元に手を当てる。
しまったと思ったときにはすでに遅く、件の幽霊がニールに視線を向けていた。
「ああ、君は」
冷たく低く重い声で、幽霊が語りだす。
「身代わりにされてしまったのだね……でもよかった、君が死なないでいてくれて」
霊は、ニールの側へと近づいてくる。その歩みに合わせて、からんからんと音がする。
目線をあわせまいとニールは視線をそらす。ふと、幽霊が実体のある何かをもっていることに気づいた。なにこれ、と思う間もなく、幽霊が語りかけてきた。
「儀式は正しい手順で行うべきだったのだ」
独り言を畳み掛けるかのように、霊は聞き手に語りかける。
「正しい手順で行い、魂を開放し、導き手と共に頂へ登り、天へと還すだけだったのだ……」
霊は、再度ニールを見た。
確かに見た。
ニールは息を呑む。悪意がないことは理解できても、恐ろしいものは恐ろしい。
その様子を知ってか知らずか、霊は手に持っていた実体を掲げ、からんと鳴らした。
「君に火種を託そう」
それは火が灯ったランタンだ。大雑把な形しかわからないが、ニールが慣れ親しんでいるものとは違う。古い時代のものなのかもしれないと思ったところで、霊がその冷たい手でニールにそれを握らせた。
本当に、あっという間の出来事だ。拒絶する間もなく、ランタンの持ち手はニールの手にぴたりとおさまる。ちょっとまて、とニールがランタンを引き剥がそうとしても、そのランタンは強いのりで貼り付けられたかのように引き剥がせない。
霊が、一歩下がる。ニールの方をじっと見つめ、静かに言葉を紡ぎ出す。
「君になら、託せる。澄んだ魂を持つ君なら――正しく儀式を行える」
冷たく低く重いがどこか澄んだ声が、宙に溶けていく。
「この、街に、伝わる儀式、を――」
溶けて、消えていく。
「……は? ま、待ってくれよ」
ニールがその言葉を発した時、幽霊は既にそこから消え失せていた。
冷たい風が、一瞬だけふいた
(ちくしょー、言うだけ言って消えやがったぞあの幽霊)
一体何なんだ、ニールはつぶやいた。
しかし一方で、ある可能性も考えてしまう。
例の幽霊が自分に言っていたのは、とても真剣な願いなのではないか、と。
もしそうなのだと仮定するなら、通りすがりの人間に頼むのはどうなんだ。少なくとも自分がそういう立場なら、相手を選ぶだろう。少なくとも自分みたいなやつなど選ばない。人は選べよ、幽霊。などと、ニールはつぶやいた。
そうしている最中に、不意に後ろから声がする。それがまるで自分を呼ぶ声のような気がして、ニールは思わず振り返る。
「ニール!」
気がする、どころの騒ぎじゃなかった。ニールは率直にそう思った。
灰色の髪に紫の目、よく見慣れた人間がここにいる。アカデミーでは隣の席だし、なんなら実家も隣同士の幼馴染。自分より少し高い声が少し懐かしい気もするが、今はそう変に思考をずらしている場合ではない。そういう場合ではないし、思考がずれるより前に素っ頓狂な声が出る。
「ら、ライラぁ!? お前なんでここにというかどうやって入って」
本当になんでこの幼馴染がここに。
当の幼馴染ことライラは、特になにか感動的なことをいうわけでもないらしい。「今は無駄口叩いてる場合じゃない」などというツッコミはしてくれるようだ。最低限を喋りながら、ライラは急くようにニールの背中をぐいぐいと押していく。
「はい早くこれに乗った乗った!」
「押すな押すな! 自分で歩けるっつーの!」
そもそも急いでるしニールも少し弱ってるでしょ。とか言うライラの声がする。
ごもっともだ。
ここはおとなしく力を抜いてライラの行動に身を任せたほうがいい。ずるずると引きずられるかのように、ニールはぱかりと口を開けた壁の中に押し込まれた。続けざまにライラが乗り込む。それと同時に、壁の口が閉じられた。
ニールの視界の端で、ライラが壁から手を離している様子が見えた。
(壁に同化している昇降装置か……緊急時のためのものだったんだろーな)
アカデミーで学んだ記憶があるが、実際見るのは始めてだ。
「なー、ライラ」
「なに、どうしたの。変なものでも食わされた?」
「食わされてねえよむしろ絶食させられてたわクソ。じゃなくて」
手に持っている(厳密には持たされたが正しいが)ランタンを掲げた。
ライラの目線の高さに向けて、見せつけるように。
そうしてもう片手の指で示しつつ、ニールはライラに問いかける。
「このランタン、見覚えねえか? お前俺よりこういうの詳しいだろ」
「……なにそれ」
「幽霊に渡された」
「ふーん………………幽霊に?」
「幽霊にだよ。疑うような目を向けんな。マジで幽霊に渡されたんだよ」
「……どの幽霊に?」
一瞬、会話が止まった。その間、昇降装置の音だけが響いている。
ちょっと待て。ニールは心底そう思った。こいつ、たしかに言ったな? 「どの」って言ったな? そもそも「どの」ってなんだよ。なんなんだよ。そう思ったと同時に、ニールは口を開いた。
「……どの?」
「ほらいっぱいいるじゃん。あそことかあのへんとか……」
「…………」
ライラが指をさす方を見てみても、ニールには何も見えない。しかし、隣の友人は確かに言っている。いっぱいいる、などと。
そう言えば以前ライラ本人が霊感がどうのこうのという話をしていたようなと言うことを思い出したが、今のニールにそれ以上深く考えたり追求したりする気力はなかった。
「まー……落ち着けるとこまで戻れたら……事情説明するわ……」
「オッケーオッケー」
なんか妙に疲れた気がする、今までのゴタゴタを差し引いても。ニールは思い切り息を吐き出した。
最下まで降りていく昇降装置の音が、あいも変わらず響いていた。
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