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朝早く美術室に行こうだなんて、どうして思ったのだろう。
朝の学校はなんだか頼りない。全体的に白っぽくて、昼間のような覇気がない。
たぶん、明るい女の子たちのきらきらした笑い声も、男の子たちのちょっとうるさい声もなくて。
何にも染められてないからだと思う。
私…如月透は、そっちの方が楽だと感じてしまう。別に、きらきらと騒ぐ子達が嫌いなわけじゃないけど。
ドアに手をかけて、そっと開いた。
カラカラカラ…と頼りない音を立てて、ドアが開く。美術室の特徴的な香りがした。
油絵具と、水彩絵の具と、イーゼルの木の香りが混ざり合った特有の香り。
その香りを目を瞑って吸い込む。そして、大して大きくもない目を開けて、美術室の中に足を踏み入れた。
「……」私は一言も発さず、黙ってパレットに水彩絵の具を出す。
くるくると色を混ぜると、私のイメージ通りの透き通った青が生まれた。
色を混ぜる瞬間って、不思議だ。私の心も、体も、脳みそさえも混ぜてできた色に染まっていく感じがする。
私がキャンバスに青を塗ろうとすると、後ろから声が聞こえた。
「……上手」
あまりに綺麗ででも儚くて繊細で。壊れ物に扱うような優しい声だったのに、私の喉から「ひゃっ」というか細い声が漏れる。
後ろにいたのは、声と同じように空気にとけてしまいそうなあやうさをたたえた、私と同学年くらいの男子だった。そして何より特徴的なのが、首に提げているカメラだった。
「あなたは、だれ?」おかしいくらいに震える声で私が聞くと、彼は目を見開いた。
「みえるの?俺が」「……みえるよ」私が囁くように応えると、彼が私の手を握った。
「……っ!」行為自体にびっくりしたのでは無い。いやもちろんびっくりしたが、次元が違う。
彼の手が私の手を通り抜けたのだ。そして…彼がずっと少しだけ空に浮いていたこと、ほんの少しだけ半透明だということに気づいたのだ。
彼は物理的に、空気に溶けていた。
「あなたは、もしかして」
「そう」何がそうだと言うのか。私はまだ何も言っていない。
「俺はずっと前にこの学校にいた。君のお察しの通り…」
幽霊だよ。
私の耳元で囁くと、驚く私を見やり彼は満足気に笑った。
邪気のない笑顔が、素直に憎たらしかった。
私が美術室を出ても、彼はずうっと着いてきた。授業中もしつこく話しかけてきたが、私が無視を貫いていると向こうも諦めたようだ。ただ黙って私を眺めているようになった。
「それで一体あなたは何なの」
放課後。美術室に入って彼に問いかけると、彼は首を傾げた。
「言えるのは名前と、誕生日と入ってた部活くらいかな」「全部言ってみて」
彼は肩を竦めて口を開いた。
「名前は嘉添怜、誕生日は6月14日、写真部だった。本当にこれしか憶えてないよ」私は彼の言ったことを咀嚼する。
写真部、だからカメラを提げていたのか。それにしても写真部なんてうちの学校にあったっけ……?そんな私の思考を見透かしたかのように、彼がつぶやく。「もう何年も前に、廃部になったらしいね。残念だ」なんて返事をしたらいいかわからず、私は「…そう」とだけ返す。
そんな私を一瞥して、彼は面白そうに口元を動かした。それだけで私は嫌な予感をおぼえる。
「ねえ、目を瞑って」
彼に言われるがままに、私は目を閉じた。何をされるのか、心臓がドキドキ言っている。
私の耳に聞こえてきたのは、
カシャ…という、シャッターの切れる音。
「…っ」「綺麗に撮れたよ」
悪びれもせず笑う彼に、私は怒りを覚えた。
「勝手に撮らないで」私が睨むと、彼は「ごめん」と笑った。「でも、本当に綺麗に撮れたんだ」
ほら。と彼は写真を見せてきた。
長い黒髪を下ろして、半袖のワイシャツを着て学校指定のグレーのベストを着て、目を瞑っている私。その周りには沢山のキャンバスとイーゼル、絵の具たち。使い古された机。
そして私の後ろで静かに当たり前のように存在する澄んだ濃い青空。
それは…被写体である私が見ても「良い写真だ」と言えた。そして、
彼の目に私はこんなに消えそうに写っているのかと思うと、何だかもどかしいようないてもたってもいられないような気分になった。
突き動かされるような衝動。
きっとこの時…私は嘉添くんに、恋をしたんだと思う。
嘉添くんと出会って数週間。
私はすっかり嘉添くんのいる生活に慣れきっていた。授業を一緒に受けて、美術部の部活動ーーーと言っても1人で絵を描くだけなのだけれどーーーをしながら、たわいも無いお喋りをして、一緒に帰る。それが私たちの日課だ。
嘉添くんは大人しそうに見えるけれど、お喋り上手だ。きっとクラスでは目立たないけれど、実はモテたんじゃないかななどと想像してみる。
彼が私に笑顔を向ける度、私の写真を撮る度、撮ってくれた写真を笑顔で見せてくれる度。
心臓が1回だけ、とくんと音を立てるのだ。
もしかしたら私、嘉添くんの事が……
1人で自分の部屋のベッドに座ってそんなことを考えてみる。でも、
「私、幽霊を好きになるほど馬鹿じゃない」
声に出してみると、それは案外輪郭を持って響いた。
そうだよ。
私は馬鹿じゃない。
そう思い込むことで、少し安心した気がした。
「それ美味しそうだね」県展に出す絵を描く休憩中。私がサイダーを飲んでいると、彼が語りかけてきた。「俺も飲みたいなあ」「飲めないでしょ、霊体なんだから」私がたしなめると、嘉添くんは素直に「はあい」と言った。頬をふくらませる仕草が、少し可愛いなと思ってしまう。「飲んでるところ撮ってあげよっか?」「…これ、絵の材料でもあるんだけど」そう言ったのに、人の話を聞いちゃいない彼は横からのアングルで私の写真を撮った。
「綺麗に撮れた」横から覗き込むと、彼は私が見やすいように角度を調節してくれた。ありがとう、と言って写真を見やる。
前よりいくらか髪が伸びた私が、汗をかいたサイダーのボトルに口をつけて飲んでいる。私のサイダーの絵も軽く写りこんでいて、素直にとても綺麗な写真だと思った。「綺麗に撮るね」私が呟くと、嘉添くんが言った。
「被写体が綺麗だからじゃない?」
と。私は思わず彼の方を見た。
頬が赤く染まるのを感じる。
でも、彼は私なんて見ちゃいない。撮った写真を満足気に眺めている。
その表情に、なにかが突き動かされるような感覚がして、私は押し黙った。
そんな私に、嘉添くんは無邪気に声を掛けてくる。
「透?どうしたの」
心ここに在らずみたいな感じだったけど。心配そうに付け足して、嘉添くんは眉を下げた。
その仕草にも、私は耐えられない。
「…帰る」
酷いことをしたのはわかっている。
私は彼に背を向けて、逃げるように家に帰った。
自宅のベッドに倒れ込んで、嘉添くんの撮ってくれた写真を見返す。
サイダーを飲んでいる私、キャンパスに向き合っている私、最高の色を見つけて喜んでいる私、眠ってしまった私、美術室で勉強している私、
青空の部室で、目を瞑っている私。
「…っ」両目から涙が溢れて、私は戸惑う。
「私は…」
何も分からなかった。それなのに嘉添くんに会いたいということだけがはっきりと分かってしまって、1秒ごとに涙が溢れた。
分からないほどに悲しくて、切なくて、でも優しい。この想いはなんだろう。
でも…半透明の彼に染められていることは、はっきりとわかった。
翌日。
私が美術室に顔を出すと、彼は信じられないほど喜んだ。
「もう、来てくれないかと思った」
私は、それに対する返事を決めていた。
「描くのが、好きだから」
嘉添くんは、びっくりするほど切なげに笑った。
「…そっか」「ねぇ、」私が声をかけると、空をふわふわしていた彼は姿勢をただした。「はい」「あなたに…嘉添くんに、お願いがあるの」彼は途端に真面目な顔になった。
「私、今度の県展に作品を出そうと思ってるの」
「……うん」
「その絵を出すまでの1ヶ月間。私に会わないでくれるかな」
オブラートに包もうかとも思った。
でも、はっきりと伝えた方がいいと思った。
彼の顔を見ると…顔色が明らかに悪くなっていた。私も申し訳なくなる。「なんで?」彼の声はおかしいくらいに震えていた。私もゆっくりと口を開く。
「あなたに、見て欲しくない」
その途端…彼が完全に絶望した表情になった。私は彼に1歩歩み寄り、おでこをぶつける。
感触は無いけど、彼と繋がっている感覚がした。
「私があなたの事を嫌いなんじゃない」それしか言えないことが悔しかった。好きだと言えないことが悔しかった。恋をしていた。表現することにも、嘉添くんにも。ただ、それは言葉にできない。今じゃない。そのことを言葉で伝えるのではくて、肌で感じて欲しかった。それは、私のわがまま。
嘉添くんが優しい顔に戻って、頷いた。
「わかった。待ってるよ」
君に呼ばれるその日まで。
彼はそう言うと、ふわりと笑った。
その日から、私たちは会わないことを決めた。
県展に出す絵が描き上がったのは、制服が冬服に切り替わった頃だった。
私は完成した絵をぼんやり眺めると、ぱしゃりとスマホのカメラで写真を撮った。
絵を美術の先生に託し、私は美術室に戻った。
1人きりの美術室で、呟く。
「出し終わったよ」
あの日と同じように、後ろから声が聞こえた。
「お疲れ様」
私が振り向くと…ふわふわと浮いている彼がそこにはいた。「ねぇ、」
私は勇気を振り絞って、上空にいる彼に尋ねる。
「会いたかった?」
彼は私の目に浮かんだ涙を親指で拭う仕草をして、囁いた。
「とても」
その返事だけで、私は満足だった。満足だったけれど、不満だった。
「……とある田舎町にね」私が話し始めると、彼はうん?という顔をした。
「地味でなんの取り柄もなくて、いつも1人ぼっちの女の子がいるの。その子は1人きりの美術部に入っている。その子は自分が大嫌いだった」そこで私は一息ついて、また話し出した。「でもその女の子は…朝の美術室で、男の子の幽霊に出会うの。優しくしてくれるその男の子に、女の子は恋をした」
嘉添くんが目を見開いた。その事が嬉しくて、悲しくて、私は話し続ける。
「恋をした女の子は、県展に出す絵を一新しようと決めた。それまで描いていた絵を全部描き直して、1から絵を描こうと決めた」
彼は黙って話を聞いている。それが私のことだときっと彼は気づいている。
「そして絵が描き終わった暁に…彼に思いを伝えるの」
彼は私の言葉をじっと待っている。
物語じゃなくて、私の言葉を。
「嘉添くん。馬鹿な私はあなたに恋をした。人間じゃないあなたに」
「透。馬鹿な幽霊は君に恋をした。人間の君に」
お互いの想いを伝え合い、顔を見つめる。
私たちは……そっくりな表情で涙を流していた。
それから、3ヶ月あまり。
私の絵が県展で最優秀賞をとったと美術の先生から聞いた時は、信じられずに何回も本当かと繰り返してしまった。「……本当ですか?」「本当だよ。先生も君の絵を見た時、これはいけるんじゃないかと思った」先生は優しげな笑いジワを浮かべた。
「おめでとう、如月」
ありがとうございました、と頭を下げて、私は職員室を出た。手には、返ってきた私の絵がある。
美術室の扉の前で、自分の絵を眺める。
美術室の一角を切り取った構図だ。
真ん中あたりに置いてある椅子とキャンバス。
同じく真ん中の机に置いてある、小さいけれど丁寧に描き込んだカメラ。
タイトルは、「半透明のあなたへ」。
タイトルの意図は私と彼以外、誰にも分からないと思う。だけどそれでいい、と思った。
私と嘉添くんだけが分かれば。
美術室に入り、待ち構えていた彼の前に座った。「どうだった?」
彼の問いに、私は笑顔で答えた。
「最優秀賞」
彼は、無邪気な笑顔を浮かべた。
「おめでとう!!」
私は精一杯元気に「ありがとう」と答えた。
「絵、見せてくれないの?」彼が無邪気に問いかけた。私は、無言で彼の前に絵を広げた。
嘉添くんは、1分ほど黙ってその絵を見つめていた。私が恥ずかしくなってきた頃、彼が口を開いた。
「感動した」
彼が私をそっと抱き寄せた。
その瞬間…手は空を切ったけれど、彼の温もりを感じたような気がした。
私は目を瞑って、
「知ってる」とだけ囁いた。
世界に2人だけみたいな気がして。
それが、あなたの色に染められたということなのかもしれない。
もしそうなのだとしたら、それはすごく幸せなことだ。
高校を卒業して、大学を卒業しても、彼は変わらず私の隣に居続けた。
美大を卒業した私は、今は画家として活動している。
そんな私の画家としての名前は。
「嘉添透」
私が絵を完成させて彼に見せる時、彼は必ずそうサインを書く。
そのサインは…彼と私が永遠に繋がっているという確かな証だ。
絵を描く私を撮り続ける彼も、それに応え続ける私も、高校生の頃と何一つ変わっていない。
何一つ変わらないまま、きっと私たちは一生を終えるのだろう。いや、彼はもう終えているのだけど。
私が息絶えるその日まで…私も半透明になるその日まで、彼の隣にいたい。
画家「嘉添透」で居続けたい。
いつか…完全に、半透明に染まり切るまで。
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