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1話 妄想は心の糧
ひゅうひゅうと冬将軍が駆ける馬の蹄のような木枯らしが広大な面積を誇る江戸城のそこかしこを吹き抜けていく。
澄み切った空気で冴え冴えとした月は、一層の輝きをさらさらと舞うように地上へと届けていた。
誰もが寒さに凍え、温もりを分け与えながら夜をすごしている。
それは、大奥で働く、とある女中部屋も同じだった。
十数人で身を寄せ合って暖を取りつつ、少しでも寒さを紛らわせようとお喋りに花を咲かせていた。
しかし、高遠あかね、ひとりだけは話の輪から外れて、武田信玄公の軍記『甲陽軍鑑』にのめり込んでいた。
無駄話もせず、黙々と本を読みふける姿は思春期の娘から浮いていたが、同室の皆は慣れっこだし、無愛想な高遠と話しても面白くもないので放置しているといった方が正しい。
しかし、高遠に取ってはそれが最適であった。
なぜなら想像、いや、妄想の邪魔をされずにすむからだ。
しかめっ面で本を読んでいるように見えるが、文字の行間に、短い一文に含まれるエッセンスを吸い込み、己の頭の中で物語を構築しているのだ。
実に楽しい。
楽しくて、楽しくて脳内はウハウハ状態だ。
――ああ、信玄公のような豪胆さを持つ小国の御屋形さまと、深い哀しみを抱いてお仕えする忍びの者が惹かれ合ったらどのような話になるだろうか。幸せに終わるか、それとも悲恋の方が涙するだろうか。
形造られていくふたりが結ばれるという強めの幻覚を見ているあいだは、寒さも気にならないほどの興奮状態だ。
しかし、ひときわ歓声が高くなり妄想が中断された。
「やだぁ、あなたったら玉の輿を狙っているの? 無理に決まってるでしょ」
「そんなことわからないじゃない! 上様の女好きは有名でしょ? 可能性はゼロではないわ」
「あのねぇ、わたしたちみたいな一介の女中が上様にお目見えできると思ってるの? 第一、白魚のような白い肌もつつやかな髪も持ち合わせていないじゃない。現実をみなさい」
「えええー!」
小鳥のさえずりのようなお喋りはけたたましさを増しており、これ以上妄想を続けるのは難しそうだ。
いつまで続くかわからない玉の輿話に、高遠は小さく嘆息して本を閉じ、布団にくるまった。
そうして、目を閉じいつもとおりに強い決意を抱く。
――いつかは必ず出世して、一人部屋を手に入れるのだ。そうして、思う存分、妄想を文字にして小説を書く。それまでの辛抱だ。
◆大奥は金欠です
江戸城には大奥という女の園がある。
将軍の血を絶やさないために作られた桃源郷には千人の女たちがひしめき、花を咲かせるように、蝶が舞うように暮らしている。
しかし、そのなかの一室は梅雨の雨にうんざりするような、
『いい加減にしてくれ』
と、言わんばかりの空気が漂っていた。
大奥の最高権力者、大奥総取締役、塩沢歌吉と、その下に仕え、大奥を取り仕切るお御年寄四名が集まった衆議はそれほど気が重いものだった。
パチンと扇子の音を立て、塩沢が年季の入った声で言った。
「これで三十人目じゃ。上様の女好きにも困ったものよのう」
「そうですな。五十を過ぎられたというのに落ち着くご様子がございませぬ。塩沢さまの気苦労を思うと、この叶お身体が心配でなりませぬぞ」
すかさず相づちを打つのは、時期、大奥総取締役候補である、叶望、四十七歳。
怪しげな美貌を保っている美魔女だ。
「しかし、もう決まったことなれば準備をいたしませんと」
すまし顔で、少し高いひと言を放ったのは金崎夕。
この衆議の原因を作った張本人だ。
『我かんせず者』という通り名どおり、いけしゃあしゃあと座している。
新しい御中臈が誕生したのは、この金崎の手腕によるものだ。
『お庭のお目見え』という、御殿の庭を歩き、姿形を上様に見せて側室入りさせる方法で、自分の紹介した女性に上様のお手が付いて御中臈になると、己の権勢が増すという旨味がある。
それを狙って金崎は、自分に有利に働く御中臈を作るのに余念がなかった。次期大奥総取締役を狙っているので、叶に負けまいとする力の入り具合は熱い鉄を打つがごときだ。
その目論見どおり上様は女性に名前を問うたので、床入りの手筈を整えなくてはならないというわけだ。
どこか、してやったりとツンとすまし顔の金崎を見つめながら、高遠あかねは諦めつつも、大奥の状況が変わったことにも我かんせずな金崎のやり方に憤慨もしていた。
――まったく。どうせ、上様はすぐ飽きるに決まっているというのに、余計な金を使わせるお方よ。大奥の懐事情が以前と違うことをまるで気にされぬ。
そう。今の大奥は大幅な予算の減額がなされ、かつてない金欠に見舞われていた。
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