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長い坂道
このホテルは東大阪市の町外れにある。
ホテルの窓からは、広々とした田園地帯や奈良県との境になっている山々がよく見えた。特に、夜景の美しさには定評があった。
そのように眺めは良いのだが、このホテルに行くには車がないと不便だった。近鉄電車の駅を降りてからは、十五分ほどバスに乗らねばならない。
「バスがすぐに来なかったらどうしよう」
そんな不安な気持ちでバス停まで歩いた。
バス停には誰もいない。
ぼんやりとした橙色の灯りだけが、そこにあった。その灯りを頼りに、バスの時刻表を私は見るのだった。
ため息が出る。
次のバスが来るまであと二十分もあるのだ。十二月の寒い日に、何もないところで、ひとりバスを待たねばならないのか。
することもなくて、私は辺りの風景をぼんやりと眺めていた。
夕暮れの田畑は一枚の絵画となっていた。
焦げ茶色の額縁が見えるようだ。
ぽつんと闇に立つ街灯。
暗い背景のなかから、突然に男が現れた。
その街灯の下を男はゆっくりと歩きはじめる。
男は立ち止まり、自分がさっきまで居た畑を振り返った。
どうして後ろを振り返るのだろう。忘れ物をしたのか。
男は再び歩き始めた。
背中を見せて。
吹きすさぶ寒風が、その男が着ている黒っぽいヤッケを揺らしている。
どうしたのだろう、私。
遠くに消えていく男の後ろ姿に、無性について行きたくなっている。
ぼんやりとバスを待つのなら、あの男の後ろから駅まで歩いてみようか。
色褪せた猫じゃらしが私のコートをかすった。
街の灯りが見えてきた。
駅に、そして彼に私は近づいているのだ。
胸の鼓動は大きくなるばかりで、自分でも笑ってしまった。
今からこんなにどきどきしていたら、彼に会ったときの私は嬉しくて、その場にへたり込むかもしれない。
彼と会う約束はしていなかった。
それどころか、私がこの町に帰っていることも彼は知らないはず。
彼は突然の訪問者に困惑するだろう。昔の彼女が急に現れたら、誰だって驚くに決まっている。
だから、私は偶然を装って彼を待ち伏せする。彼の家の近くを散歩する振りをして。
都合の良いことに、私たちが卒業した高校は彼の家の近くにあった。
彼を見つけて駆け寄っていく私。
「あれ、優志やん。久しぶりやね」
思いがけない再会に戸惑う彼。
私は楽しそうに笑ってみせよう。
「あ、従妹が結婚するから帰ってきてん。懐かしいて、このへんを歩いてみたんよ」
この計画を実行するのは勇気が必要だった。
でも、彼に会う方法を他に思いつかなかった。結婚している私は、昔の恋人に堂々と会うことが出来ない。
私はひたすらあの場所へと歩いた。
彼と過ごした記憶は、街の灯りのまだ向こう、暗くて急な坂道にある。
そう、あの長い坂道を上ったあたり。
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